その大意を「仏教経典の世界」(自由国民社)から抜き出して書いておきます。
仏教だけではなく、いまの日本全体の状態を描いているように思えるのはわたしだけではないと思います。
「法滅尽経」大意
『このように聞いた。
仏(ほとけ)がクシナガラに住(じゅう)しておられて、まもなく入滅(にゅうめつ)されようとする時のことである。
いつも光り輝いておられる仏に今日はその光明(こうみょう)がない。
不思議に思った阿難(あなん=アーナンダ)がそのわけをたずねても黙(もく)して語られない。
そして三度目の問いに、仏はやっと重い口を開かれる。
・・・
仏が涅槃(ねはん)したのち、法が滅しようとするときにはこのような有様(ありさま)となるであろう。
父を殺し母を殺し、そして仏法を滅(ほろ)ぼすような無法(五逆)が横行し、魔道(まどう)が盛んになる。
悪魔が沙門(しゃもん=サマナ=仏教やジャイナ教などの修行者。のちに「僧」)となって仏法(ぶっぽう)を乱【みだ)し五色の袈裟(けさ)をつけ、
酒を飲み肉を食らい、おたがいに慈(いつく)しみも憐(あわ)れみも持たない。
たまたま菩薩(ぼさつ)や辟支仏(ひゃくしぶつ=縁覚(えんがく)=声聞(しょうもん)と菩薩の中間の位置にいる修行者。)、阿羅漢(あらかん=高い悟りに達し、供養を受けるにふさわしい聖者。)が出て、貧(ひん)を憐れみ、老いをいたわり、自分を無にして人々のために尽(つ)くしても、
悪魔の比丘(びく)たちは逆にこれを誹謗(ひぼう)し、揚(あ)げ足をとって教団から追い出してしまい、ともに修行しようとはしない。
寺廟(じびょう)は乱(みだ)れはて、財物(ざいぶつ)を貪(むさぼ)ることだけに夢中で、
奴隷(どれい)を売買したり、山林を焼き払ったり、
人々を苦しめて慈悲(じひ)の心がない。
無法者が比丘(僧)・比丘尼(びくに=尼僧)となって、男女の区別もなく邪淫(じゃいん)はほしいまま。
戒律(かいりつ)には従わず、経(きょう)を読むにも句の本来の意味を知らない。(そらぞらしい。)
それでいながらいたずらに名誉を求め、世間に名を知られて、人々から供養されたいと願う。
いっぽう世間の人はというと、法が滅しようとするときには女人が精進(しょうじん)して功徳(くどく)をなす。
男子はなまけて仏法に感心がない。
沙門に会おうものなら糞土(ふんど)のごとく見て、信心はさらさらない。
このようなときは諸天(しょてん)も悲しみ、雨を降らさないので、穀物(こくもつ)は実らず、疫病(えきびょう)が流行して、死する者も数知れない。
お役人も道理をわきまえないから、人々の苦しみを見て却(かえ)って楽しんでいる。
悪人は浜の真砂(まさご)のごとく増え、善人はいても一人か二人。
劫(こう)の尽(つ)きんとする時であるから、日月(にちげつ)がいつもより早く回転し、人の寿命は短くなる。
(略)
そして突然、大水が襲ってきて止(や)むことがない。
富める者も貧しき者もみな溺(おぼ)れて、魚やすっぽんの餌食(えじき)になり、世界は滅びる。
(略)( ← 菩薩や辟支仏、阿羅漢が悪魔を追い払う局地的な回復。
が、それもなくなる。)
これから後のことはもう説くこともできない。
こうして数千万年後に弥勒菩薩(みろくぼさつ)が世間に生まれて仏となる。
この時にやっと天下は泰平(たいへい)となり、毒気は消除し、・・・・・
以下略。
』
いやあ、「救い」が示されているとはいえ、数千万年後とは・・・。
日々の生活で手いっぱいのわたしなどは気が遠くなるばかりです。
せめて、その「法滅」のときが先になるように努力しましょうよ、くらいのことしか言えません。
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すでに日本の支配層は「悪魔」っぽいようですが・・・。←(ひそひそ) (^^;)