薩長官僚制であることは、歴史的事実として否定しようのないものですが、
この「薩長」、江戸時代の庶民からはひどく毛嫌(けぎら)いされていたんですね。
幕末から明治にかけての動乱を体験した古老の話を集めた「戊辰物語(ぼしんものがたり)」という本に、
【「錦(きん)ぎれ取り」に江戸っ子の腹癒(はらい)」せ】
という話が載っていて、
それによりますと、
江戸に進出、支配した薩長を中心とする「官軍」(かんぐん)は、なにかと言いがかりををつけてよく庶民(町人)を斬ったのだとか。
官軍に追いかけられた町人が他人の家に逃げ込んで絶命するということもしょっちゅうあったらしいのです。
官軍は肩に「錦」の布(きれ)をつけていたので、庶民は官軍を「錦(きん)ぎれ」と呼んで嫌悪(けんお)していました。
江戸の巾着切(きんちゃくき)り(=スリ)の名人?で隼(はやぶさ)のように素早い男が、江戸庶民の気持ちを代弁するかのようにこの「錦ぎれ」を専門に?すり、
官軍が血眼(ちまなこ)になって捕(とら)えようとするのをしり目に、すってすってすりまくったそうです。
この巾着切りは最後には神田の筋違い見附(いまの万世橋)で官軍に捕らえらたのですが、江戸の庶民の胸のすくような啖呵をきって、切り殺されたそうです。
彰義隊(しようぎたい)のなかにも、腕利きの武士で官軍にケンカを仕かけてはこれをはぎ取ってしまう者がいて、これを「錦(きん)ぎれ取り」といって、
官軍の武士が錦ぎれをはぎ取られるたびに、庶民は
「どこそこでまた取ったそうだ」
などと言って大いに喜んだ。
その武士はついには「名誉新談(めいよしんだん)」と題された錦絵(にしきえ)にまでなった、ということで、人気のほどがうかがわれます。
巾着切りの啖呵(たんか)がどのようなものであったか、その記録が残ってないのは残念です。
古老から聞き取りをしていたこの時代はもう明治ですから、活字にはできなかったのかもしれません。
明治時代になって、庶民は案の定ひどい目にあわされるんですよね。
明治時代当初は全国で一揆が頻発していたとか。
明治から昭和20年までは戦争、戦争でずいぶん多くの日本人が死にましたもんね。
今は隠されていますが、古い記録を見ると、明治時代になって日本人の寿命はぐっと短くなっています、
江戸時代の平均寿命にやっと追いついたのは、昭和10年ころらしいですから。
明治、大正、昭和、平成、令和と、日本人は不幸ですよ。
それでも、昭和二十年の敗戦後に日本人がちょっぴり幸せを感じることのできる時期があったのかな?
戦中派の小説家、山田風太郎氏は「人間臨終図鑑」のマッカーサーの項で、こんなことを書いています。
『~ アメリカでは彼(マッカーサー)の故郷ノーフォークに記念館が建てられたが、めったに訪れる人もないという。
日本でも、いまや最も「忘れたい人物」の一人に過ぎないが、しかし公平に見ればこの「何らリアルな感じのしない」人物によって新生の基を定められた戦後日本人は、それまでの歴史にない幸福を得たのである。
おそらくそれまでの日本が、別様の形態ながらそれ以上に、何らリアルなところのなかった連中によって支配されていたからであろう。』
「何らリアルなところのなかった連中」
・・・・。
「何らリアルなところのない連中」(笑)
いま。