処刑、西日本への集中豪雨、200人以上の犠牲者、と
「何なんだ!?これは」
というしかない「事件」が連発。
おかげでブログに手がつきません。
どうなっているんですかね?この国は。こんな災難続きの国は世界を見渡しても、そうないんじゃないでしょうか?
(あの日航機123便の事故からかなあ、日本を繰り返し「災難」が襲うようになったのは・・・)
しかも、それらの「事件」「事故」「災害」がすべてといっていいほど「納得」のいかない、
「仕方なかったよね」では済まされない、済ましてはいけないものばかりじゃないでしょうか?
はたして
「日本人に対する「神」の怒り」か?
それとも「現代科学を駆使して日本を滅ぼそうとしている陰謀エリート集団の仕業」なのか?
「あるいは・・・?」
まあ、こういうことも、現代日本の有様を「歴史」の俎上に乗せることによって、分かってくる部分もあるかと考えています。
この「ブログ」と「日記」で少しずつでもそういう作業をやって、わたしなりに納得のいく結論を得たい、と思います。
お暇があれば、わたしの「日記(hibi333zakkan)」と、お仲間ブログである「osantati12345-われら庶民主義」も見ていただければ、幸いです。
今は「古代日本史」への思考が一時中断していますので、
今日は、オウム真理教事件で7人を同日処刑した上川陽子法相といまの日本政府について少し考えてみたいと思います。
だから、形としては、クリスチャン=カトリック信者である上川法相がヨガ系仏教集団のオウム真理教の教祖と幹部、計7人を同日処刑したということになるわけです。
キリスト教といえば、死刑には否定的で、キリスト教徒の多い国々では死刑を廃止している国がほとんどですので、意外に思ったのですが、よく考えたら、これは「キリスト教徒がキリスト教徒を殺すこと」を否定しているからではないでしょうか?
「汝、殺すなかれ」
ですよ。
これはユダヤ教も同じで、
反対に国内で死刑をバンバンやっている印象のあるのは「イスラム教国」「仏教国(とくに日本)」「共産主義国」です。
こう考えると、上川法相が一日に7人も処刑できたのは、相手が「仏教徒」だったから、といえるかもしれませんね。
ユダヤ教徒にしてもキリスト教徒にしても、国内の「同胞」に対する「殺人」は否定しても、他国の「異教徒=異邦人(ゴイム)」はせん滅的に殺したりしますからね。
ただ、「シオニズム」というのは「宗教」であれば、多少の差はあれ、どの宗教にもあるものでしょう。
(イスラム系、仏教系、共産党系の国々では、「同胞」もへったくれもなく国家体制からはみ出せば、抵抗なく処刑しちゃっていますが、それでも「他国」に対してはシオニズムなんですよね)
ちなみに、シオニズム云々に関係なく、わたしは「平気で死刑執行」国家は嫌いです。死刑廃止国家はすべて尊敬します。
宗教に関係なく、人間の生命は最も尊重されるべきだと思っていますから。
しかし、オウム真理教がここまでの目にあったのは、「世界」と「日本」の状況認識に甘いところがあったからではないでしょうか?
この世界に「陰謀論」があることをわたしがはじめて知ったのは、
1995年のオウム事件の際、都内某駅前で、オウム服を着た人からオウム真理教の無実を訴えるパンフレットを(けっこうな量)もらって、それを読んだ時です。
部屋に帰って、コーヒーを入れて
「どうせ、くっだらねーこと書いてあるんだろうなー」
なんて思いながらパンフレットを開いたところ
「え?」「ナニ?この世界、この内容」といった感じで、目が引き付けられてしまいました。
それまでわたしの知らなかったことばかりが書かれていて、正直、新鮮というか、そこらへんの本よりずっと面白かったのを憶えています。
と言っても、その当時は「凶悪犯罪組織」の「空しい抵抗」くらいの認識でしたけどね。(マスコミとかすごかったから。オウム真理教に同情したら国賊といった感じ)
いま言われている「陰謀論」をかなり、というか、ほとんど「先取り」したような内容でしたよ。
それなりの「組織(宗教)」として「陰謀論」にのめり込めばどういうことになるか?
(破滅したのは(させられたのは))オウム真理教だけではないですよね?
あと、国内でいえば、
「自分たちは「仏教」だから安全だろう」あるいは「国からもある程度受け入れられるだろう」
なんて考えて安心していなかったか?(甘えていなかったか?)
日本は「仏教国」ではないんですよね。
その点、他の仏教教団同様、オウム真理教も間違えていた。
明治以降のこの国は、政府としては仏教を「否定」した国です。
いったい、明治時代に政府主導で行われた「廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)」を日本の仏教教団はどう考えている=「総括」しているんですかね?(笑)
今も日本政府は仏教信仰を薦めてはいませんよ。
教団にとっては、ただ、日本国憲法の「信教の自由」あるのみ。
「優遇」されているように見えるのは、権力者の「利権・利益仲間」として利用し、利用される関係だからですよ。
したがって、政府、権力者に逆らえば、すぐに潰されます。
まさにオウム真理教がそれ。
初期の創価学会もやばかったけど、こちらは「時代」がよかったから潰されなかっただけ。いまは他の教団同様の「お仲間」になっちゃっていますね。
(ただ、まだ他の(大多数の)仏教教団より少しマシな印象があるのは「昔」の名残(なごり)?
公明党が自民党と訣別すれば、また評価は変わってくると思います(笑))
昔では浄土真宗なども似た経過をたどっていますが、
・・・要は、みんな同じで、時がたてば・・・の世界(笑)
最近の新宗教は、最初から権力に擦り寄ろうとするウヨ宗教が多いようです。
あと、オウム真理教で気になったのは、キリスト教の要素も取り入れようとしていたように見えることですね。
ただ、その「キリスト教」は仏教的思考での「キリスト教」理解ではなかったかと思います。
それは別に悪いことではないと思うのですが、ただ、仏教的思考(だけ)でキリスト教を理解しようとすると、やはり、どこかに「穴」が生じてしまうように思います。
たとえば。「イニシエーション」と称して、アサハラ氏の「血」を飲む、といったような行為(儀式?)があったようですが、
ひょっとして、それはキリストが最後の晩餐で「このワインはわたしの血であり、パンはわたしの肉である」といったことにヒントを得たものかな?と思いましてね。
(仏教で「血」を飲む儀式というのは聞いたことがありません)
そのことに関しては、日本きっての碩学だった和辻哲郎氏が考察をしていて、
これは「バラバ」というユダヤ教の密議からきていて
Barabbas(バラバ)とはBar Abbasであって、「父の子」を意味する、と。
そして、古代ユダヤ社会においてはこの「父の子」を「犠牲」とする祭りがあったそうです。
そこで、「父の子」は「世界の罪を贖(あがな)うために」殺され、その「父の子」の血と肉にあずかる(を食べる)のが「聖餐(せいさん)」であった、ということです。
そしてさらに「古代」ではこの「父と子」を「イエス・バラバ」と言っていたことで、和辻氏はキリストの最後の晩餐におけるキリストの言葉は「この儀式」に基づいているのではないか?と推測されるわけです。
(ただ、わたしの拙い「私見」を言わせていただくと、Barというのは、キリスト教などの神ではなく、「異教」の「偶像崇拝」の神ではないでしょうか?
もしそうだとすれば、「犠牲者の血を飲み、肉を食べる」、「悪魔教」の起源とも考えられるのですが・・・?)
ともあれ、麻原氏の残した映像などを見ると、キリスト教の影響も強いようなので、そのあたりが気になった次第です。
・・・う~~ん、こう書いていると、きりがないですねえ・・・
次回も、こういった話になるのかな?
早くショックから抜けて、「古代日本」の歴史に戻りたいんですが・・・
それにしても、安倍政権、上川法相・・・酷いなんてものではないですよ・・・
あー、また寝苦しい夜(笑)
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