何のために生きている?

と問われれば、もっと幸せな人間社会が見たいから

前回のブログで唐の使者が倭の

王ともめて怒って帰国したことに触れましたが、旧唐書によるとこの唐の使者(=新唐書では高仁表、旧唐書日本書紀では高表仁)ともめたのは「王子」となっていますから、これは蘇我入鹿ですね。

 

このとき(631年=日本書紀では舒明3年)の蘇我氏の当主(大王)は蘇我蝦夷です。

 

蘇我入鹿はかなり性格が強かったのか、次の(日本書紀)「皇極天皇記・元年」には

蘇我「臣?」蝦夷を以(も)ちて大臣(おおおみ)とすること、故(もと)の如(ごと)し。

大臣の児(こ)入鹿(またの名は鞍作(くらつくり))自(みずか)ら国政を執(と)りて、威(いきおい)父に勝(まさ)れり。

是(これ)に由(よ)りて、盗賊(ぬすびと)恐(おそ(れ))摂(お)じて、道に遺(お)ちたるを拾(ひろ)わず」

とありますが、この記述が事実そのままかどうかはわかりません。

 

なにせ、蘇我氏の主要人物の名を、「馬子」「蝦夷」「入鹿」としている点がもう(笑)

いずれも「人間」扱いでない名前であることに注意、ですよ。蝦夷の「蝦」もムシ篇です。

 

滅んだ、あるいは滅ぼした王朝の王に蔑称に近い名前を与えて、歴史上も「その名」だったことにする。これは初期の「唐」がよくやったことです。

たとえば、隋の煬帝だって唐による後追いの名前です。(煬帝という名には、「人民をいじめる者」と言う意味がありますからね)。煬帝というのはおそらく唐の太宗による贈名です。

 

また、中国の王朝は自分たちの支配外にある異民族にはケモノ篇、ムシ篇の名前をつけるのが通例でした。

「馬子」「蝦夷」「入鹿」という<贈名>には、中国の伝統が色濃く漂っています。

 

ちなみに蘇我入鹿の本来の名前としては、「家伝」(蘇我氏の家伝?)に「宗我大郎」というのがあるようです。大郎、いまの「太郎」さんですかね・・・?

蘇我大郎、いかにも大王=「蝦夷」の長男にふさわしい名前だと思います。

 

この蘇我氏が滅んだのが645年、大化の改新の年とされていますが、わたしは、これも違っていると思います。

 

蘇我氏が滅ぼされたのは664年ですよ。

その前の年、663年に蘇我氏(倭)は唐(と新羅の連合軍?)の戦いに大敗し、その戦力のほとんどを失っている。(663年は白村江の戦いの年ですが、白村江の戦いが本当にあったかどうかはわかりません。あるいは、もっと九州よりの場所であったかも・・・?)

そして、664年(663年?)唐の占領軍が上陸してきます。

 

このとき、蘇我氏は恭順の態度を示した、と思います。

そうすれば、唐の属国扱いになったとしても、倭の大王家である蘇我氏そのものは存続するであろうと。

 

ふつうはそうなるはずでした。(従来の唐の方針では)

しかし、唐には唐の「思惑」があった、というか「事情」があった。(唐の事情というより、当時の唐の「皇帝」の事情ですけどね)

 

やがて、その唐の皇帝=高宗がじきじきに倭に乗り込んできます。

倭を占領した唐軍の中心は皇帝直属の近衛軍で、それを指揮していたのは近衛軍の将軍に次ぐナンバー2の左衛中郎将・王文度(※)です。

王文度はその地位と、高宗との距離の近さ(最側近)からみても、おそらく、高宗の最初の皇后であった王皇后の親族(おそらく兄)だったと考えられます。

この王文度がのちの藤原鎌足です。

そして、高宗は日本書紀など後の歴史書では「天智天皇」にすりかえられます。

(こう「推察」すると、藤原家が「皇后」を出し続けた謎も解けるのではないでしょうか?)

 

では、なぜ唐の皇帝である高宗が直々に倭に乗り込んで、蘇我氏を滅ぼさなければならなかったのか?

・・・高宗が唐に居辛い事情があったんですよね。

 

この664年、唐では高宗の陰謀というか、則天武后の廃后を目論んだ「上官儀」事件が発覚、高宗に廃后の文書を書かされた上官儀など、「陰謀」に関わった高宗関係の官僚、文化人(上官儀は当時の唐第一の詩人)が一斉に逮捕されました。

 

「いいや、こうなりゃ唐は則天武后たちにまかせて、オレは倭に行くもんね」

とまでは考えなかったでしょうが、とにかく、高宗はこの国にやってきた。

 

「居辛かった」だけではなく、高宗には「倭滅亡後のこの国」における「思惑」があったのです。

それは、則天武后の台頭によって唐で居場所のなくなった自分の息子たちなどの国を作ることです。

 

ところが、「持統天皇」の存在によって、それも「誤算」に終わってしまう・・・

 

・・「あれ?ずいぶんとヘンな方向に行っているぞ」

と思われるかも・・・

ともかく、続きます  ヽ(^-^)

 

(※)中国の史書での王文度の記述は多くありません。

「左衛中郎将である王文度が百済の「占領軍司令官(トップ)」として赴任した」

という意味の文章があって、その次は「卒す」とあるだけ。

つまり、「行った、死んだ」。それだけ(笑)

 

だいたい、皇帝直属の軍のナンバー2が百済の占領司令官として、はるばるやってくるというのもおかしいですしね。

(倭と百済の連合軍を打ち破って百済を支配していたのは廃皇太子・李忠(則天武后が皇后になったため、皇太子を廃された、高宗の長男)の母親の実家である劉氏。実際、ずっと百済占領軍のトップにあったのは劉仁軌などの劉氏)

来て「即」死んじゃう、というのも・・・(笑)

 

皇帝とともに軍を率いて倭に上陸した、と考えるほうが合理的だと思うのですが・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

いやあ、日本史というのは「虚偽」と「隠蔽」に

満ちていると言うか、何がどうなっているのか?何が真実なのか?突っこめば突っこむほどわけがわからなくなってしまいます。

 

江戸時代の天才町人思想家、富永仲基も、日本の文化というか特質は「隠す」ことだ、みたいなことを言ってませんでしたっけ?

 

まあとにかく、隠すごまかす書き換える。

これ、どうやら「現代」まで続いているようなんですよね。

 

「だから安倍首相みたいな人が出てくる」?????

 

閑話休題(それはさておいて)

そいうことが行われ始めたのはいつか?

というと、これがどうも、「日本」ができたとき以来のようなんですね。

日本初の公式史書である日本書紀からして、もう・・・、(執筆者、編者はつじつまをあわせるのに相当苦労したでしょうね)

 

これからそのことについて語っていこうとしているわけですけど・・・

 

前回で「倭」の大王家=蘇我氏の滅びについて少し触れました。

蘇我氏こそが倭の頭領だったわけで、日本書紀における「天智天皇」以前の「天皇(とされている)」はすべて蘇我氏の大王です。

これは「隋書」で、遣隋使を送った(聖徳太子のモデルのひとり)アマノタリシヒコの名前からもわかります。

 

近畿地方に大きな勢力を有していたアマ氏ですが、トップの大王家というわけにはいかなかった。

アマノタリシヒコの最後の「ヒコ」(=彦)というのは、三国志をはじめとした中国の史書をみてもわかるとおり、その地方の大官=長官(中国から見て)が名乗る称号で、日本的に言えばその土地(地方)の領主です。

徳川政権時の例で言えば「藩主」といったところでしょう。

だから日本書紀でも聖徳太子を「天皇」にはしきれなかったんですよ。

 

ちなみに、わたしはアマノタリシヒコはオオアマ(天武)の祖父にあたるのではないか?と見ています。(もしかしたら曽祖父?)

 

前にも書いたとおり、対隋、対唐に関してはアマ氏が倭の「王」として交渉の窓口になっていました。(アマ氏は新羅から来た「騎馬民族」の王族で、そのルーツは鮮卑族です。これは、応神天皇陵や藤ノ木古墳などの出土品からもわかります)

そして「日出ずる処(ところ)の天子、書を日没する処の天子に致(いた)す。恙(つつが)無きや ~」の国書が蘇我氏からのものだったことも前に述べました。

 

蘇我氏(倭)は呉の太伯(呉を作った人)の子孫を自称するくらいの古い歴史を誇り、とりわけ中国南部の王朝とは密接な関係を持ってきましたから、鮮卑族の王朝などに素直に頭を下げることができなかったのでしょう。

「日出る処の天子」 = 蘇我氏の大王です。

 

この二重構造は唐の太宗の時代にも露呈しています。

→『唐の太宗の貞観5年(631年)、日本国は使者を派遣して唐に入朝させた。太宗は、日本からの距離が遠いのに同情 

~(中略)~ 

また ~ 高仁表(こうじんひょう)を遣(つか)わし、日本国王に勅諭(ちょくゆ)を伝えさせようとしたが、高仁表は日本国王儀礼の問題でいさかいを起こして立腹し、天子の命を読み上げることを拒否して国へもどった。』(新唐書

というのが、それです。

「使者を派遣」したのはアマ氏。

唐の使者と儀礼の問題をめぐっていさかいを起こしたのが、蘇我氏の大王、もしくはその一族の人でしょう。

新唐書」には続けて

『しばらくして、日本はあらためて新羅の使者に託して上奏文を送呈してきた』

と書かれていますが、これはアマ氏からのものです。「新羅の使者に託して」という部分に注目ですね。

 

ほんとうはこの時代はまだ「倭」だったのですが、新唐書が書かれた時代には「日本国」という名前が定着していたので、「日本」と表記したのでしょう。

しかし、正確とは言い難いですよねえ。

 

ともかく、この隋、唐との実質的「断絶」が数百年~一千年(?)続いたプライド高き?東アジアの名門大王家=蘇我氏の滅亡を招くことになりました。

 

 

 

 

これまで先人が築いた業績を台無しに

してしまう。

この自民党公明党政権は日本史上最悪クラスではないでしょうか?

 

もちろん、最悪は戦争のきっかけを作った、戦争を始めた政権ですが、こういった自民党公明党による政権も戦争準備に着々、という風に見えます。

政府関係者や官僚公務員から「平和」という言葉を聞くこともなくなりました。当然、平和への努力もなされていません。

 

いったい「改憲」を目指すというけれど、国連の「敵国条項国」である日本が、敵国条項をそのままにして「平和憲法」を改憲すれば、どのような状況におかれるか?

散々利用された挙句、国を滅ぼされるのがオチではないでしょうか?

(それを隠して改憲しようとしている)

 

同時に、日本国民・民衆への締め付けも、真綿でクビを絞めるようにじわじわと進行中です。

「人権」「平和」「民主主義」の破壊。

内部でも民衆はそれらを奪われることによって、人間としての「尊厳」を奪われつつあります。(日本の内部破壊)

 

それでも「いま生きていればいい。いまなんとかなっていればいい。自分さえよければいい」といった様子で、おとなしく「破壊者」と化した権力者に従う国民大衆。

 

想像力の欠如したエゴイストであるのはトップから下々(しもじも)まで、共通した国民性になってしまったのかな?ニッポン人。

 

「歴史」を語っている場合じゃない?

うーん、たしかに、でも、江戸時代までの日本と明治10年以降敗戦までの日本、1980年代後半から現代までの日本は異質なものと考えられますので、やはり「歴史」は重要なのではないか?と思います。

いまは日本にとって「異質」な時代なのです。

 

戦後日本を支配した米国によって与えられた「自由」「人権」「民主主義」「それらに基づく平等性」

これらは、たしかに完全なものではなかったが、「形」は整っていました。

戦後少したったころの映像で、お年寄りが「日本人は戦争に負けて、はじめて自由を知ったんです」と語っているのを見たことがありますが、それは偽わらざる実感だったでしょう。

 

「占領軍」によって与えられた、その民主主義の「形」を取り上げていこう、としているのが今の安倍自民党公明党政権です。

その背景には「占領軍」=アメリカの「変質」があると思います。アメリカも変わったのです。

 

変わったというか、ズバリ「劣化」した。

劣化してその国是であるデモクラシーまでもが怪しくなってきている?

 

問題は、その劣化、衰退があまりにも早く来た、ということです。

おかげで日本もおかしくなっている、という状況でしょう。

 

いま「おかしな」連中によって危機に瀕している日本国憲法の理念は優れたものです。これをしっかり根付かせ、充分に使いこなせていければ、日本の将来はけっこう先のほうまで明るかったと思います。

 

実は大昔にも、日本では「アジア太平洋戦争」敗戦後のような状況があった、と見るのがわたしの「日本史観」なのです。

 

その大昔の「状況・状態」とは何か?

ズバリ、当時の世界帝国・唐によって蘇我氏(=倭の大王家)が滅ぼされたあとの「占領」状態にあった「倭」です。

 

当時も「占領軍」がやってきてこの国の政治全般を取り仕切りました。

この前の「占領時」と同じように、国内には占領軍にしたがってその補佐を行う勢力がありましたが、それが近畿大王家であったアマ氏で、当主は「オオアマ」(=後の天武天皇)です。

 

ここで、もう、従来の「日本史」とは大きく違ってきているので、若干補足しますと、

 

なるほど、天武(=歴史の教科書ではオオアマ皇子)は出てきた。

では「蘇我氏」を滅ぼしたという「天智天皇」(日本書紀では当時は中大兄皇子とされている)はどこに行ったんだい?

と疑問に思われるでしょう。

 

蘇我入鹿を「処刑」し、その父の蘇我蝦夷を攻め滅ぼした「天智天皇」らしき人物はたしかにいます。

しかし、それは中大兄皇子ではありません。「天智天皇」でもありません。

それらの名称は日本書紀など後の歴史書による「すりかえ」によるものです。

(ちなみに○大兄皇子(王子)という名称は(この次に)「大王」になるべき人物につけられた名称ですから、あるいは蘇我入鹿が○大兄皇子(王子)であったかも知れません)

 

ここで「?」となるかもしれませんが、

だいたい、当時まで倭を支配していた蘇我大王家を滅ぼすことのできる勢力がこの国に存在していたでしょうか?

天皇家」も、確立した「中央集権」もなかった時代の事なのです。

天皇に近い存在がいるとしたら、それは蘇我氏の大王です。

 

もちろん、オオアマ=近畿大王家が滅ぼしたわけでもありません。

蘇我氏とアマ氏は仏教信仰で共通の統治理念がありましたし、縁戚関係でも固く結びついていましたから。そして、何より武力面では蘇我氏のほうに主導権がありました。

 

では、そんな倭の大王蘇我氏の当主?(入鹿)とその父(蝦夷)を滅ぼしてしまったのは誰か?

 

もうわかりますよね。

蘇我氏の軍を打ち破って上陸してきた占領軍、つまり「唐」です。

その(占領軍)トップ(のちに天智天皇とされた人物)とナンバー2(トップの最側近=のちの藤原鎌足)によって入鹿は「処刑」、蘇我氏は滅亡させられたのです。

 

ここから先は次回以降で。「歴史」が長くなりそうです。。

 

今日、ここで言っておきたいことは、倭あるいは日本の敗戦後、その占領政策は唐、アメリカともに優れたものでした。

しかし、その後の歴史を見ると(アメリカ占領後の歴史はまだ70年ちょっとですが)、アメリカよりも唐のほうがずっとうまくやった。

何より「当初の理念」を長くこの国に根付かせ、世界的にも高いレベルの政治体制を維持させた、という点では比較にならない。

 

「当時としては最高レベルの政治理念」

を長く維持した日本(=たとえば源頼朝室町幕府徳川家康における貞観政要の重視とか)、

 

しかし今回は、今でも「理想」のはずの「平和」「人権」「民主主義」の理念をあっという間に、踏みにじり、捨て去ろうとしている日本の政権、あるいは捨てさせようとしているアメリカ。

 

これは日本の滅びへの道であるとわたしは見ています。

日本は本当の意味での「再生」「再復興」に失敗しようとしているのです。

 

なんだか結論めいたことを言ってしまいましたが、とりあえず、「日本史観」の見直し、は必要なので、続けます(延々と?(笑))

 

 

 

 

 

歴史について②

前回アマノタリシヒコと隋の煬帝について触れましたが、いまの安倍自公政権を見ていると、少し煬帝の政策と似通ったところがあるように思います。

 

富の一極集中というか、隋はたいへんな資産、富を所有していました。

その富を使ってやったことのひとつが、大運河の建設。

ご存知のごとく、江南地方と首都長安を結んだ2500キロメートルに及ぶこの運河は壮大なもので、その後の中国の経済、政治に大きな影響を与え、今なお利用されています。(世界遺産

 

しかし、このような隋の国家優先による人民の負担は大きく、民衆の隋への恨みが積み重なっていきます。

そのような人民の苦しみ、困窮に気を留めることもなく、煬帝は強大な権力、軍事力にものをいわせ、さらに高句麗を征服しようと軍を起こしました。

ここで簡単に高句麗が征服されていれば隋はもう少し続いたのかも知れません。

 

ところが、このころの高句麗は強かった。

少し時代は遡りますが、倭と百済の連合軍もボロクソにやられました。(高句麗好大王碑参照)。

このとき逃げる倭の軍を追ってきた高句麗軍によって百済はその首都まで占領されているほどです。

 

隋もこの高句麗相手に苦戦を強いられました。

ほとんど戦果の上がらないまま、戦費と戦死者だけが増えていく。

 

苦役、経済的圧迫・困窮、戦争禍。

人民の我慢が限界に達し、ついに反乱がおきます。

反乱はあっという間に中国全土に拡大。手のつけようのないほどになります。

 

煬帝もやがて宮殿にいられなくなり、拠点を点々と移動せざるをえなくなります。

そして、ついには皇帝直属の近衛兵までが皇帝に背きます。

 

煬帝の最後はアワレなものでした。

それまで自分を守っていた側近たちによって処刑を宣言されるのですから。

人民に対する罪状を読み上げる側近に対して、煬帝はこう言います。

「なるほど、朕はたしかに人民を裏切った。しかしお前たち(側近)は優遇してやったではないか」

 

しかし、煬帝の言葉に心を動かされる者はなく、「罪状」を読み上げると、兵たちはまず、煬帝にすがりついて泣き続けていた12歳になる煬帝の皇子を斬り殺す。

血しぶきをあびた煬帝に兵が刃を振り下ろそうとすると、煬帝はそれを押しとどめ、

「皇帝を斬り殺してはならない」

と言って、自分が身に着けていた布を兵に渡します。

 

煬帝はその布によって縊り殺されました。

 

・・・富の一極集中、貧富の格差の拡大、低賃金、不安定な非正規労働の拡大、労働強化、劣悪な住環境・労働環境、富の海外へのバラマキ、逆進課税(消費税)増税、特権・既得権益層優遇、大企業優遇(民衆の犠牲による)、(正規採用の)官僚・公務員優遇(毎年給与増額)、社会保障・福祉削減(毎年)、年金生活者(老人)虐待(年金の毎年削減)、最貧者(生活保護受給者)切捨て(殺人的行為)、憲法無視、戦争推進路線、取り巻きお友だち大優遇、人民への攻撃(ネトウヨ、ネトサポ、メディア、財務省国税)、厚生労働省(奴隷・殺人省)、、、、まだまだ書ききれない!。。けど長くなりすぎるのでココまで。

 

これが、千数百年後の東海の島国=日本の姿・・・

「コノ国なら朕は左団扇で皇帝をやれるぞい」by煬帝

 

と、それはともかく、この煬帝の最後に強い衝撃を受けたのが、このとき反乱軍平定のために駆け回っていた隋の重臣(唐の初代皇帝)の息子である李世民

この李世民はのちに唐の二代皇帝(太宗)として貞観の治として有名な善政を施し、唐帝国の基礎を固めるのですが、その善政は煬帝を反面教師としたものでした。

 

この太宗と臣下の言動を集めて十巻四十篇に集録したのが「貞観政要」で、この貞観政要こそが、平安時代から江戸時代にかけての日本の(指導者の)政治の教科書というべきものになりました。

とりわけ影響を強く受けたのが源頼朝北条政子から始まる鎌倉幕府徳川家康徳川幕府です。

また、天皇への進講も1006年の一条天皇以来、数多く行われてきたことが記録に残っています。

 

ちなみに、「貞観政要」の著者は唐で国史編纂に携わっていた呉競でしたが、その最初の完成本は中宗(太宗の孫)に捧げられました。

つぎに玄宗(太宗の曾孫)に捧げられたのですが、情勢の変化により、その内容は一部変えられています。

この二冊は中国では早くに失われたようで、元の時代に中国で出版されたものが近代まで伝承されてきましたが、原本にたいして誤脱の多いものでした。

 

なぜそれがわかったかというと、玄宗皇帝に上進されたものの写しが、日本の藤原南家と菅原家に伝わっていたからです。

また、北条政子貞観政要をひらがなに訳させて読んでいたのですが、史家から馬鹿にされてほとんど無視されていたこのひらがな本が、中宗皇帝に献上されたものの写しだったことがわかって、専門家を驚かせたそうです。

 

とにかく、この本が日本の歴史と深く関わっているということを知っていただきたい、と思います。

 

本日の最後に、「貞観政要」の第一巻、第一章、最初の一節

 

→ 貞観初、太宗謂侍臣曰、 

貞観(じょうがん)の初(はじめ)、太宗、侍臣(じしん)に謂(い)いて曰(いわ)く

為君之道、必須先存百姓。

(君(きみ)たるの道は、必ず須(すべから)く先(ま)ず百姓(ひゃくせい)を存(そん)すべし)  

若損百姓以奉其身、猶割脛以啖腹。

(若(も)し百姓を損(そん)じて以(もっ)て其(そ)の身(み)に奉(ほう)ぜば、猶(な)を脛(はぎ)を割(さ)きて以(もっ)て腹に啖(くら)わすがごとし)

腹飽而身斃。

(腹(はら)飽(あ)きて身(み)斃(たお)る)

~(以下略)~

 

→<貞観の初年に太宗が左右の臣下たちに語って言われた。

 「君主であるものの道は、まずもって、必ず、是非とも、人民をあわれみ恩恵をほどこすことである。

もし(重税などで)人民を苦しめその身を損なうことによって君主の身(支配者のゼイタク等)にあてるのは、自分の足の肉を裂いて自分の腹に食わすのと同じである。

満腹したときには、その身は死んでしまう。

~ >

 

以下にも現代日本の支配者さんの耳に痛いことが書いてありますよ(笑)\(^○^)

安倍首相やその裏の人たち、とりあえず、この第一章だけでも読んでみましょうよ。

え?まったく理解できない?

 

・・・そうでしょうねえ。。。

 

 

あと、この私観「歴史」を語っていくにあたって、(当時?)この太宗に送られた「賛辞」に「聡明神武」という言葉があるので、それを覚えておいてください。(先々触れると思います)  

神武・・・    八紘一宇    ・・・(^。^)

 

 

 

 

 

 

前回のブログでちょっと触れた

わたしの「日本」史観。

これまでにない、かなりユニークというか奇妙なものなので、理解し辛かったと思います。

でもまあ、これがわたしの「日本」についての歴史認識なので、いちおう基本的なアウトラインを述べていきたいと思います。

 ↓

 

まず、「倭」は「日本」のような中央集権的「天皇制」国家ではなかった、ということ。

倭はこの列島における支配勢力で、対外的にも強力な勢力でしたが、それを支配していたのはいくつかの「部族」をまとめた「大王」です。

 

この大王家には二つの大きな勢力のものがあって、ひとつが北九州を拠点とする蘇我氏。もうひとつは山陰~近畿地方を支配した「アマ」氏です。

 

蘇我氏はB.C.10世紀頃から日本に移住してきた、揚子江河口周辺(蘇州あたり)の稲作&漁業民族の流れで、北九州を中心に日本に大きな支配権を築いていきました。

 

 それに対して「アマ」氏というのは、紀元後「鉄器」と「騎馬」をもって「新羅」から渡来、近畿地方を中心に支配を広げていった勢力で、そのキーパーソンは応神天皇陵に葬られている人物です。

天武天皇」はこの系譜です。

 

この二大勢力、大陸の勢力図から見れば、蘇我氏は中国の南方系、アマ氏は北方系で、本来、水と油の関係ではないか?と思うのですが、蘇我氏の「末期」のころは妥協が成立していて、ともに「倭」国を支える関係が成立していました。

 

この「妥協」というか協力関係を可能にしていたのが「仏教」なんですね。

二大勢力とも仏教を信奉していました。

ただし、蘇我氏の仏教は百済経由のものでアマ氏の仏教は新羅の系譜です。

 

中国大陸が北は北魏、南は南宋と二分されていたときの日本の支配大王家は蘇我氏です。

蘇我氏百済と密接な関係にあった。

いっぽう、新羅というのは(大陸からの)難民・移民によって形成された国家であって、言葉も文化も百済とは大きく違っていて、その領土はもともと百済のものでした。

庇を貸して母屋をとられた形の百済新羅は「不倶戴天」の関係にありました。

 

「倭」と「百済」はこの新羅をめぐって高句麗と衝突。

百済とともに高句麗まで攻めあがって敗戦を喫し、高句麗好大王碑に刻まれた「倭」というのは蘇我氏です。

この強国=高句麗との対抗上、南宋と関係を密接にして高句麗を背後からけん制しようと使節を派遣していたのが「倭の五王(=蘇我氏の大王)」です。

 

このときのアマ氏(近畿大王家)は表面上は蘇我氏百済勢力に同調し(従い)つつも、裏では本来の「出自」たる新羅と通じていた、という立場でしょうか。

 

ところが、その南宋北魏(鮮婢族の王朝)によって滅ぼされてしまう。

蘇我氏の悲劇というか滅びへの道はここから始まるんですね。

 

北魏もいったんはなくなりますが、やがて北魏の重臣だった人物が中国を統一する。これが隋です。

隋と蘇我氏は接点がない。

隋と通じることができたのは鮮婢族との関係が深いアマ氏です。

応神天皇とされている人物の陵からは鮮婢族の王が使っていたのと同じ「馬の鞍」が出土しています)

 

倭としては中国を統一した王朝との関係を無視するわけにはいかないので、アマ氏が表に立って隋との関係を良好なものに保とうとする。

 

遣隋使を送ったのはアマ氏なんですよね。

この遣隋使を送るにあたって、倭の側が隋の煬帝に、例の「日出るところの天子~」なる、中国皇帝に対しては非礼ともいえる文書を送ったことは有名ですが、これは、蘇我氏が「強要」して使節に持たせたものでしょう。

このとき、あくまでも倭の主導権は蘇我氏にありました。

 

その「非礼」に驚いた煬帝は、すぐに、その意を質さんとする使者を送ってきた。

このとき、使者を応対したアマ氏の大王であるアマノタリシヒコは、「自分は無学な野蛮人で・・・」などと平謝りしましたが、使者は倭の体制が二重構造であることを知り、そのことを隋の皇帝に報告したと思われるのです。

(これが隋の後継王朝である唐(=隋の重臣が起こした、やはり鮮婢族による王朝)による、蘇我氏滅亡に結びついていくわけです)

 

ここで出てくるアマノタリシヒコは聖徳太子のモデルのひとりです。

この人は政治家というより、ほとんど僧侶といっていいくらいの宗教者で、遣隋使を送った目的も、隋の仏教を学ばせるためでした。

そして当時の隋の仏教といえば、天台大師=智顗(ちぎ)による天台宗で、皇帝煬帝も智顗の弟子として菩薩戒を受けています。

アマノタリシヒコはそれを知っていて、文書では煬帝を「菩薩天子」とあがめている。

とても「日出るところの天子~」といった態度ではないわけです(笑)

 

このとき、蘇我氏とアマ氏の間には隠然とした緊張関係があったはずですが、それが内乱などに至らなかったのは、このアマノタリシヒコの、権力に執着しない、宗教者的な性格によるものではなかったでしょうか?

ただ、日本書紀によると、聖徳太子の子息一族は蘇我氏によって滅ぼされたことになっていますが、このあたりの真偽は不明です。

 

・・・なんだか、だらだらとわたしの「私見」=日本史「仮説」を述べていますが、これ、いちおう書いておかないと、「近~現代日本」の問題とも関係していますのでね。

次回以降も続けて、わたしなりの「日本史観」の大要は述べておきたいと思います。

(長くなるかなあ・・・?)

 

 

 

昨日5月17日の東京新聞の

「大波小波」という(文芸系の?)コラムの記事が“一歩踏み込んだ”面白い内容だったのでここに抜粋、紹介しておきます。

 

→『白井聡の最新刊「国体論 菊と星条旗」(集英社)を興味深く読んだ。

 戦前の天皇に代わる国体とはアメリカであるという論も新鮮だが、分析が精緻かつ鋭利で説得力がある。

戦前の国体が、「天皇の国民」から「天皇なき国民」そして「国民の天皇」へと変化したように、戦後の国体もまた、「アメリカの日本」から「アメリカなき日本」そして「日本のアメリカ」という最終段階に到達している、と著者は指摘。その先には破滅しか待っていないことも戦前同様である。

パックス・アメリカーナ(アメリカによる平和)が八紘一宇(はっこういちう)としてとらえられているという現状は恐ろしい。

日本人は奴隷であることを否認する本物の奴隷になっているのだ。

さて、ここまで著者の認識には首肯できるが、一点大きな疑問がある。

今上天皇の「お言葉」についてである。

お言葉は「アメリカを事実上の天皇と仰ぐ国体において、日本人は霊的一体性を本当に保つことができるのか」と問いかけているという。が、天皇が日本という共同体の霊的中心であるという言説には賛同しがたい。

先に内田樹天皇主義者を名乗ったのも衝撃だったが、まさか「永続敗戦論」の白井聡から、この見解が示されるとは。白井よ。お前もか。   (皐月)  』

 

私はこの白井聡さんの本を読んだわけではないので、いいかげんなことは言えませんが、この文章を読む限り、いい論点というか、なかなか今の日本の本質に迫っているのではないか?と感じます。

 

「国体論」の「国体」が「国の支配体制」のことであることは、この文章からも明確に理解できると思います。もともと「国体」というのは“ナショナリティ”の訳語だったんですけどね。「国体」と訳したとたんに日本ではこうなっちゃった(笑)

 

戦後、アメリカが戦前の天皇の位置に納まったというのも、いまの日本の現状を見れば充分に頷けます。

 

本自体を読んでないので、確かなことではないですが、

白井聡さんが(現?)天皇を日本という共同体の「霊的中心」としたのは、アメリカは日本の支配者ではあっても「霊的中心」にはなれていない、ということが言いたかったのかもしれませんね。いわば「不完全な天皇」=アメリカ。

 

一部の日本の保守(右翼)政治家や官僚、戦後「右翼」=ウヨにとっては(アメリカが)「霊的な中心」でもある「天皇」かもしれないですが。

 

ただ、わたしも天皇を「霊的中心」とする見方とは、意見を違にします。

わたしは天皇を日本の「歴史的中心」あるいはそれに近いもの、としてとらえていますから。

 

そしてわたしは、その日本の歴史的中心であった天皇(あるいは天皇制)は明治時代以降、まったく「変質」してしまった、と思っています。

 

ここからは、まったくのわたしの「私見」、「歴史認識」になってしまうのですが、わたしは「日本」より先に「天皇」があったと考えています。

これはもちろん、日本書紀古事記の神話のことを言っているのではなくて、歴史的事実のことを言っています。

 

この国がもともとは「倭」と言っていたことは誰でも知っていますが、それでは、その「倭」が「日本」になったのはいつのことか?

こんな重要なことが(故意に)あいまいにされているのがこの国なんですよね。

 

なぜあいまいにされているのか?

(・・・たぶん何か不都合なことがあるんでしょうね(笑))

そこらへんのことはわたしの「私見」でおいおい述べていくことにして、

日本がこの国の「国号」を「日本」としたのは、持統天皇の時代です。

そして、日本が国号を「日本」とする前に、持統天皇はすでに「天皇」だったのです。(あるいは天武天皇も「天皇」であったかもしれない)

 

しかし、持統天皇は初代天皇でなく、「天皇」の初代は「天智天皇」です。

ただし、天智天皇は日本の「天皇」ではない。

当時、世界帝国であった「唐」で「天皇」を名乗っていた人物です。

では、なぜ持統天皇が唐の「天皇」から天皇号を譲り受けることができたか?(「天皇」を名乗ることができたか?)

それは、持統天皇が唐の「天皇」の娘だったからです。

持統天皇が100%の中国人女性であったことはもはや隠れた歴史的常識といっていいのでは?)

 

ずいぶんとヘンなことを言っているようですが、かつて、わたしは某マイナー掲示板の日本史スレで、中国の古書の記述などを引きながら、このことを延々と述べていました。

少しでも、この「私見」を理解してもらうには、また同じような説明が必要だと思いますので、このブログでも要点だけ、追々述べていこうと思っています。

 

いま、ここで、結論的じみたことを言えば、「天皇制王朝」(天智(天武)持統~)は、もともとは(倭に対する)「征服王朝」だったということです。

そしてこの「征服王朝天皇制国家」が「日本」を作った、ということなのです。

 

いま「日本」の「存立の危機」に際して、この経緯、歴史を振り返ることはかなり重要と考えて、この先、折に触れて、このことは述べて行きたいと思います。

 

ともあれ、いま目の前にある危機は、アメリカ(あるいはアメリカをも越えるもの?)による日本支配。「ダメになっていく(なった?)アメリカ」の問題で、日本は史上最大級の難所にさしかかっているといえるでしょう。

 

わたしは、この難局を乗り越えるカギのひとつが、「日本国憲法の精神」を生かそう、実現しよう、とする市民運動だと考えているのです。

これまで人類が積み重ねてきた「よりよい世界」を目指す営み。その先にしか日本が生きる道はないだろう、と思っています。

 

ちなみに、「天皇」の問題について一言しておけば、日本に天皇制をもたらせた「体制」は当時(千数百年前)の世界最先端、最高レベルの「思想」が背景にあったということです。

だから天皇制が確固として、永続したんですよ。

 

あの「意見書」だけを見ると

岩倉具視氏ひとりが(庶民から見て)悪党になってしまうので、とりあえず、わたしの乏しくおぼつかない知識、私見でフォロー?しておきます(笑)

 

まず、この明治15年というのは、西南戦争で勝利した長州閥がその支配体制を確立し(伊藤・山縣体制)、国内の締め付けを始めた年です。(軍人勅諭戒厳令制定、集会条例など。この意見書が書かれる直前には福島事件(自由民権運動)も起きています)

 

西南戦争のときの岩倉具視の立ち位置は、政府軍側に身をおきながらも、西郷軍とは対話を通じて事の収束を図ろう、とする立場でした。

これは西郷軍も承知の上で、桐野利秋ら西郷軍幹部も、「そのうち岩倉公が勝麟(かつりん=勝海舟)を(和解の)使者として寄こすだろうよ」と言っていたといいます。

そして、そのとおり、岩倉具視勝海舟に使者を依頼する。

しかし、勝海舟はこういってその役目を(事実上)断っています。

→「オレ(勝)と西郷に政治のすべてをまかせるなら行くさ。しかし、そうでないのなら行かない」

たぶん勝は状況が絶望的であることを読んでいたのでしょう。

 

結果、政府軍は強硬姿勢で臨み、西郷軍は滅んで、西郷も死ぬことになる。

 

そういったいきさつを見ると、開拓使事件で岩倉が薩摩人脈(閥)のカタをもった気持ちも理解できないではない。

裏には、(権力を確立した)長州閥(伊藤、山縣、井上など)一党のほうがはるかにあくどい事をやっているではないか、という気持ちもあったでしょう。

(ちなみに岩倉具視の娘さんのひとりは長州の某超大物によって強姦されたそうです???)

 

あと、この時期は憲法制定前であり、権力内部での支配権をめぐる綱引きも激しかったと想像します。

わたしは、岩倉具視憲法制定にも立憲主義にも反対の立場だったと思います。

対して、憲法制定、立憲主義の立場が伊藤博文

 

岩倉が(おそらく)(立憲主義憲法制定)に反対していたのは、天皇の(何ものにも縛られない)絶対的権力化を目指していたからでしょう。

公家として生まれ育った岩倉には天皇のみを絶対の存在とする「一君万民制」が理想の体制として頭にあったのではないでしょうか?

 

それに対して、伊藤博文は西欧流の立憲君主制を推進しようとしていた。

伊藤は憲法の目的、立憲主義をよく理解していました。

伊藤が憲法を制定する理由を問われて

天皇の(無制限の)権力を縛るため」

と答えたのは有名な話です。

しかし、西欧の立憲主義と違うのは、天皇権力を縛るのが人民(市民)ではなく、自分たち薩長閥官僚制の側にいる者たち、だということ。

どちらにしろ、日本の一般の人民(国民)は「(憲法下での主役としての)市民」ではなく、「下民(げみん)」だったのです。

 

また、(当時の)西欧流の体制を受け入れるということは、「階級制」を受け入れるということでもあります。日本を階級性社会にするということ。

これは一面、江戸時代の士農工商制度よりキツイ差別が(大多数の)人民を襲うということですよ。(経済による差別というのは・・・)

実際、明治・大正・昭和(戦前)を通じて貧富の格差は拡大、階級化が進んでいきました。(ごく一部の者たちだけに富が集中)

(一君万民制なら天皇以外の「万民」は原則すべて平等。西郷たち尊王の志士たちがそこに理想を見ようとしたのはよく理解できます。

しかし、それは「(資本主義体制が確立した)世界」から見ると過去の遺物的な思想として、実現不可能なものだったのかもしれません)

 

それ(階級化)が一時的にストップして、日本人が一時的に「(自由な)市民」の幻想を得たのが「戦後」ではないでしょうか?

 

いままた、戦前回帰の「改憲」体制、ということで、社会の階級化も急激に進んでいますが、これ、立憲主義否定の階級化・改憲の動きなんですよねえ。

 

どうなんでしょう?

世襲政治家、(ポチ)政治家、学閥官僚、資本家(財界)、大資産家といった支配層が、

国にあるお金のほとんど、司法(検察・裁判所)・立法(国会・地方議会)・行政(各省庁、地方自治体)を完全に握り、

警察・自衛隊海上保安庁厚労省のマトリ、といった実力(武力)組織を従え、

テレビ・新聞・雑誌などのマスコミ、インターネットを駆使して国民への情報を操作する(洗脳、マインドコントロール=教育も)、

ことによって、(明治時代よりもはるかに強力な)万全の支配体制を構築。99%の国民、市民に顧慮する必要もなくなったことで、支配層がかって気ままに好きなことができる体制になったということなのでしょうか?

(彼らにとって99%の日本人は今なお「下民(げみん)」なんですよねえ)

 

現代ニッポンはさらに、そういう傾向が徹底化されつつあります。

ただ、民主主義を基本とした立憲主義日本国憲法は、まだ存在しています。

われわれ99%の日本の人民が、「下民」となるのか、「市民」として民主主義社会を進展させていけるのか?重要な分岐点にさしかかっているのではないでしょうか?

 

でも、ニッポンの「市民」は頑張っている!!

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わたしたちは「市民」だぞー!

なめるな!馬鹿にすんなー!!!!♪アベ政権下での改憲絶対反対ー!国民切り捨てる政治はヤメローーー!!!

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ちなみに岩倉具視の孫娘は共産党員の疑いで警視庁に逮捕され、自殺していますね。どんな思いがこの孫娘さんにはあったのでしょうか?