何のために生きている?

と問われれば、もっと幸せな人間社会が見たいから

前回のブログで唐の使者が倭の

王ともめて怒って帰国したことに触れましたが、旧唐書によるとこの唐の使者(=新唐書では高仁表、旧唐書日本書紀では高表仁)ともめたのは「王子」となっていますから、これは蘇我入鹿ですね。

 

このとき(631年=日本書紀では舒明3年)の蘇我氏の当主(大王)は蘇我蝦夷です。

 

蘇我入鹿はかなり性格が強かったのか、次の(日本書紀)「皇極天皇記・元年」には

蘇我「臣?」蝦夷を以(も)ちて大臣(おおおみ)とすること、故(もと)の如(ごと)し。

大臣の児(こ)入鹿(またの名は鞍作(くらつくり))自(みずか)ら国政を執(と)りて、威(いきおい)父に勝(まさ)れり。

是(これ)に由(よ)りて、盗賊(ぬすびと)恐(おそ(れ))摂(お)じて、道に遺(お)ちたるを拾(ひろ)わず」

とありますが、この記述が事実そのままかどうかはわかりません。

 

なにせ、蘇我氏の主要人物の名を、「馬子」「蝦夷」「入鹿」としている点がもう(笑)

いずれも「人間」扱いでない名前であることに注意、ですよ。蝦夷の「蝦」もムシ篇です。

 

滅んだ、あるいは滅ぼした王朝の王に蔑称に近い名前を与えて、歴史上も「その名」だったことにする。これは初期の「唐」がよくやったことです。

たとえば、隋の煬帝だって唐による後追いの名前です。(煬帝という名には、「人民をいじめる者」と言う意味がありますからね)。煬帝というのはおそらく唐の太宗による贈名です。

 

また、中国の王朝は自分たちの支配外にある異民族にはケモノ篇、ムシ篇の名前をつけるのが通例でした。

「馬子」「蝦夷」「入鹿」という<贈名>には、中国の伝統が色濃く漂っています。

 

ちなみに蘇我入鹿の本来の名前としては、「家伝」(蘇我氏の家伝?)に「宗我大郎」というのがあるようです。大郎、いまの「太郎」さんですかね・・・?

蘇我大郎、いかにも大王=「蝦夷」の長男にふさわしい名前だと思います。

 

この蘇我氏が滅んだのが645年、大化の改新の年とされていますが、わたしは、これも違っていると思います。

 

蘇我氏が滅ぼされたのは664年ですよ。

その前の年、663年に蘇我氏(倭)は唐(と新羅の連合軍?)の戦いに大敗し、その戦力のほとんどを失っている。(663年は白村江の戦いの年ですが、白村江の戦いが本当にあったかどうかはわかりません。あるいは、もっと九州よりの場所であったかも・・・?)

そして、664年(663年?)唐の占領軍が上陸してきます。

 

このとき、蘇我氏は恭順の態度を示した、と思います。

そうすれば、唐の属国扱いになったとしても、倭の大王家である蘇我氏そのものは存続するであろうと。

 

ふつうはそうなるはずでした。(従来の唐の方針では)

しかし、唐には唐の「思惑」があった、というか「事情」があった。(唐の事情というより、当時の唐の「皇帝」の事情ですけどね)

 

やがて、その唐の皇帝=高宗がじきじきに倭に乗り込んできます。

倭を占領した唐軍の中心は皇帝直属の近衛軍で、それを指揮していたのは近衛軍の将軍に次ぐナンバー2の左衛中郎将・王文度(※)です。

王文度はその地位と、高宗との距離の近さ(最側近)からみても、おそらく、高宗の最初の皇后であった王皇后の親族(おそらく兄)だったと考えられます。

この王文度がのちの藤原鎌足です。

そして、高宗は日本書紀など後の歴史書では「天智天皇」にすりかえられます。

(こう「推察」すると、藤原家が「皇后」を出し続けた謎も解けるのではないでしょうか?)

 

では、なぜ唐の皇帝である高宗が直々に倭に乗り込んで、蘇我氏を滅ぼさなければならなかったのか?

・・・高宗が唐に居辛い事情があったんですよね。

 

この664年、唐では高宗の陰謀というか、則天武后の廃后を目論んだ「上官儀」事件が発覚、高宗に廃后の文書を書かされた上官儀など、「陰謀」に関わった高宗関係の官僚、文化人(上官儀は当時の唐第一の詩人)が一斉に逮捕されました。

 

「いいや、こうなりゃ唐は則天武后たちにまかせて、オレは倭に行くもんね」

とまでは考えなかったでしょうが、とにかく、高宗はこの国にやってきた。

 

「居辛かった」だけではなく、高宗には「倭滅亡後のこの国」における「思惑」があったのです。

それは、則天武后の台頭によって唐で居場所のなくなった自分の息子たちなどの国を作ることです。

 

ところが、「持統天皇」の存在によって、それも「誤算」に終わってしまう・・・

 

・・「あれ?ずいぶんとヘンな方向に行っているぞ」

と思われるかも・・・

ともかく、続きます  ヽ(^-^)

 

(※)中国の史書での王文度の記述は多くありません。

「左衛中郎将である王文度が百済の「占領軍司令官(トップ)」として赴任した」

という意味の文章があって、その次は「卒す」とあるだけ。

つまり、「行った、死んだ」。それだけ(笑)

 

だいたい、皇帝直属の軍のナンバー2が百済の占領司令官として、はるばるやってくるというのもおかしいですしね。

(倭と百済の連合軍を打ち破って百済を支配していたのは廃皇太子・李忠(則天武后が皇后になったため、皇太子を廃された、高宗の長男)の母親の実家である劉氏。実際、ずっと百済占領軍のトップにあったのは劉仁軌などの劉氏)

来て「即」死んじゃう、というのも・・・(笑)

 

皇帝とともに軍を率いて倭に上陸した、と考えるほうが合理的だと思うのですが・・・