何のために生きている?

と問われれば、もっと幸せな人間社会が見たいから

前回触れた「雄略天皇」ですが、

日本書紀を読むかぎりでは、残酷な行為の数々と、死を前にした、人民を思う心との落差に驚かされます。

 

しかし、歴史を見てみると、自分の周囲の者たちに残酷な行為を行った支配者が、必ずしも人民にとって残虐な支配者ではなく、むしろ、人民にとっては「善政」であった、「善政」を行った、という例は結構多いようなのです。

 

たとえば、「貞観の治」という中国史上屈指の善政を行なった唐の太宗は自分が皇帝になる際には、父親を引退させ、兄弟を殺しています。

また、日本でも源頼朝は弟(義経)を殺していて、「判官びいき」という言葉を生むほど、後の(ひょっとして明治以降?)イメージは悪いのですが、源頼朝の行った政治はたいへんな「善政」です。

また、頼朝の子どもを殺して政権を奪ったとしてやはり(明治以降の)評判が悪い鎌倉政権も、前半は大変な善政で、頼朝から続くこの武士政権の善政は世界に誇るべきものであった、とわたしは考えています。

 

(歴史においては)他にも、こういった例は枚挙にいとまがないくらいなのですが、こういった「残酷行為」を行ったにも関わらず、(人民にとっての)「善政」を行った「支配者」には共通の傾向があって、それは

「残酷と思われる行為を行った対象が、自分の親族や重臣、家臣などの、権力に預かる人たちであった」

ということです。

 

いっぽう、本人は「いい人」というか、自分の親族や「周囲」に対しては、非常に優しく、その権益も充分に満たしてやりながら、人民の生活を圧迫し、人民の怨嗟を招いて国に「乱」を招いた、という支配者も数多くいます。

 

で、いまのこの国の政治、支配体制は?

 

後者ですよね。

そしてまたこの「安倍政権・首相周辺」というのが、利権特権支配層を形成していて、

 政治家・財界(経団連など。超大地主なども超富裕層も含む)・官僚界・メディア支配層・外国情報工作機関、などががっちりとスクラムを組んでいましてね、

かつてない「奴隷状態」を日本人にもたらせているようです。

 

・・・(意図的に)分断されてしまった人民はなすすべがない。

どうも、あまり良い時代とは言えないですね。

(人民の最も弱い部分からいじめる、切り捨てていく政治なんて、歴史的にも最低、最悪ですよ)

 

もっとも世界を見ても「生存権なき奴隷制度の時代」「(支配層の)ターゲットは一般民衆」、という感じですから、日本だけが特別、というわけでもないのでしょうが、それでも日本の「凋落」が目立つ今日この頃です。

 

(ついこのあいだの政治でも ー 自公だけではなく、国民を裏切る「維新」とか「国民民主党」とか、人民にとって「さかしま」であればあるほど「権益」が保障される、というんですから困ったものです。「似非」が公然と大手を振る時代でもあります(似非野党)ー「定額働かせ法」「TPP」「改憲」。日本国憲法は「歴史」の評価に耐えうるものだと思うのですが、それをも「暴政」が亡き者にしようとする時代でもあります)

 

、、、

いやあ、いまの日本を「嘆き」はじめたらキリがないので、これくらいにします(笑)、

ところで、雄略天皇が「フォア ザ ピープル」の大王であったかどうかはともかく、たいへん「元気」というか威勢のいいタイプであったことは間違いないようです。

 

(478年)倭王・武(「雄略天皇」)が「宋」への使者に持たせた文書にこんなことが書いてあります

 

「わが国は遠く辺地にあって、中国の藩屏(はんぺい)となっている。

昔からわが祖先は自(みず)から甲冑(かっちゅう=よろいかぶと)を身にまとい、山川を跋渉(ばっしょう)して、落ち着くひまもなかった。

東は毛人55カ国を征し、西では衆夷66カ国を服させ、海を渡っては北の99カ国を平定した。

~中略~

ところが高句麗は無道にも百済を併呑(へいどん)しようとたくらみ、百済の国境の人民を捕らえて殺害し続けている。

(倭が中国へ)入朝しようとしても道をふさがれていてままならない。

~中略~

わたし武の父「斉(せい)」は、 ~ 高句麗が中国(宋)への道を妨害していることに憤(いきどお)り、弓矢を持つ兵士百万人を揃え、大挙して高句麗と戦おうとしたが、父、斉と兄、興が急逝(きゅうせい)、もう一息だった功業があと一歩のところで成らなかった。

父と兄の喪中は軍隊を動かさず、兵を休めていたので、いまだ高句麗に勝っていない。」

 

文章からもなかなか強気の人だったことがわかりますね。

 

「武」の語った「国内」平定の話は、おそらく蘇我氏の「史書」に記されていて、古事記日本書紀の(「東征」などの)記事に転用というか利用された可能性が高いと思います。

 

ただこの「平定」はそれほど昔の事ではなく、「武」の祖父・曽祖父?である倭王「珍」「賛」くらいの時代ではなかったかと、わたしは考えています。

 

高句麗との戦いに敗れた後、国内を「まとめる」必要があって、行われたものではないでしょうか?

その結果としての「兵、百万」だったと思います。

だから、埼玉県の稲荷山古墳から「ワカタケル」=倭王「武」の銘の入った剣が出てきても不思議ではない、というか当然だと思います。

 

あと、この倭王「賛」「珍」「斉」「興」「武」の名称なのですが、これは「倭」の側が名乗ったものではないと思います。

たぶん元は「姓」も「名」もあるきちんとしたものであったはずです。

それがこのようになったのは、倭の大王たちが名乗った「名」が宋(中国)にとって不都合なのものだったからではないでしょうか?(尊大、あるいは「格上」を感じさせるようなものであるとか)

 

ともあれ、この「宋」という国、倭に対しては「要求」をすべて受け入れるような姿勢を示しながら、裏ではちょっと違うことをやっているような国でした。

たとえば、倭が属国のように言っていた百済を独立国として、倭に与えた「名称(朝鮮全土の支配者を示すような)」と同じものを(倭には内緒で)百済に与えたり、新羅ともつながっていたり。

 

日本が「外交」「権謀術数」に弱いのは、この「倭」=蘇我氏からの遺伝ではないか?

とも思う、         ・・・今日この頃です。

 

 

当初、超特急でやるつもりだった「歴史」

=「日本のはじめ」物語が、各駅停車なみの速度になってしまいました。

いやあ、すぐそこだと思っていた「大友皇子=李忠」駅までが遠い遠い(笑)

 

「各駅停車」ついでに、といってはナンですが、昨晩は日本書紀の「雄略天皇」駅に「下車」してうろうろして(読んで)いましたら、これがやたら面白い。

 

雄略天皇」=「宋書」における「倭の五王」の「武」=蘇我氏の「大王」

ということを前提として読むと、引き込まれてしまうほどの面白さ。

 

この「雄略天皇」、「本文」ではほとんど「恐怖の悪王」として描かれています。とにかく人を殺す殺す。

 

まず、「天皇(大王)」即位の直前に、(前の天皇安康天皇)を殺した子供(安康天皇の皇后の連れ子、7歳?)とその子どもを匿(かくま)った勢力の人たちをほとんど皆殺しにしてしまいます。

そうして即位?すると、以前安康天皇皇位を継承させようとしていたライバルの市辺押盤皇子(いちのへのおしわのみこ)を狩猟に誘い、「猪(イノシシ)と間違ったー」といって射殺してしまう。

さらには、遺体にすがって泣き叫ぶ、その皇子の息子まで殺してしまう。

 

この後も、狡猾な人の讒言を簡単に信じて、無実の人を処刑したり、百済王から「贈られた」女性が密通したといっては、焼き殺したり、家臣が天皇の要求にうまく応ずることができないといっては処刑しようとしたり、

まさに「悪王」そのもので

→「国内の居民、みな振(震=ふる)い怖(お)づ」(国内の人民はみなふるえ怖気づいた)「日本書紀

状態だったわけです。

 

書紀にはまた、こんな文章もあります

天皇(すめらみこと)、心(みこころ)をもちて師とし、誤りて人を殺したまふこと衆(おお)し、天下(あめのした)、そしりて言(もう)さく、「大(はなは)だ悪しくまします天皇なり」とまをす」

(=天皇は(常に)自分の判断を正しいとされたため、誤(あやま)って人を殺すことが多かった。天下の人々は(天皇を)誹(そし)って、「大悪の天皇である」と言った)

 

と、まあ、こんな調子で、日本書紀雄略天皇の「暴君」ぶりを描いていくわけですが、これは雄略天皇が「前覇者=蘇我氏」の大王「武」であれば、仕方ない「扱い」なのかもしれませんね。

 

ただ、雄略天皇の「死」に際して、書紀の記述は一転、雄略天皇は「思慮深い」名君となります。

 

雄略天皇の死を前にした言葉(遺詔)

→(現代語訳)「まさに今は天下が家族のようになり、平穏であり、竈(かまど)の煙もはるか遠くまで立ち上っている。これは天意が日本全土を安寧(あんねい)にと願っているからである。

臆病な自分を励(はげ)まし、一日一日を慎(つつし)んできたのは、思うに、人民のためであった。

~(中略)~

今、述べてきたのはわが身だけのことではない。

結局は、ただ人民を安泰(あんたい)に養(やしな)おうとするからである。そのために言ったのだ」

 

う~ん、まったく「別人」(笑)

最後の最後で日本書紀蘇我氏の偉大な大王=倭王「武」=ワカタケルを持ち上げたのは、

蘇我氏を滅ぼしたのは自分たち(天武・持統)の系統ではなく、天智(高宗)・藤原鎌足(王文度)なのであって、自分たちは蘇我氏の敵というわけではないんだよ、ということを主張したいからではないか?と思います。

 

このほかにも「雄略」記には興味深い記事が多くあって、

たとえば、当時「倭」が親密な関係を築いていた「宋」を「呉」と表記しています。

これは、「呉」の太伯の子孫を自称していた「倭」=蘇我氏として、「呉」のあった地を支配している「宋」を「呉」の後継として認識していたためでしょう。

そのため、日本書紀の記述も「日本」(=倭)と宋の関係を「親戚付き合い」のようなもののように描いています。(かなり交流が密だった)

 

この「宋」を滅ぼした北魏は「魏」の後継だったので、まさに「魏」対「呉」。

蘇我氏にとって北魏から出た「隋」「唐」が(潜在的な?)敵としてなじめないものであったのは仕方のないことでした。

 

このほか「雄略」記には、高句麗好太王の時代には同盟関係で、ともに「倭」と戦った高句麗新羅が、このころ敵対関係になった理由(=高句麗新羅占領の意志があることを高句麗将兵新羅の兵にもらしたため?)、なども書かれてあります。

 

ちなみに「浦島太郎」の「出来事」があったのもこの「雄略天皇」の時代だったと書紀に書かれています。

ただ書紀での浦島太郎(浦島子)の話は、助けた亀が女性に「変身」して浦島太郎と夫婦になり、二人で海に入って「仙境」に行った、ということになっています。

これに関しては、書紀のこの部分の「著者」が「浦島太郎(浦島子)」の話に詳しくなかった可能性も?(笑)→(この話は「別巻」(別の本?)にある、とわざわざ注釈をつけています)

どうもはっきりとしない空模様が

続きますねえ。

今日は全国的に雨の一日だそうで、東京では気温も下がり、日中でも上着が必要なほどの肌寒さなのだとか。

 

わたしには、この空模様と、日本や世界の(権力をめぐる)空模様が似たもののように思われて、厚く雲に覆われた空を見上げては、ため息をつく毎日です。

 

そんな日々の中で、一昨日の6月18日には大阪中心部を震源とする震度6弱の大きな地震があり、(今のところ)5人の死者まで出してしまいました。

報道を見て感じたことは、日本のインフラ整備がおろそかになっているのではないか?という疑問です。

はたして国や自治体は99%を占める庶民の生活と安全・安定のために、しっかりとお金を使ってくれているのでしょうか?

「小さな政府」を目指す「自治体」の筆頭ともいうべき大阪で起きた地震による死者であるだけに、よけいにそのことを考えてしまいました。

 

わたしは、この国には「小さな政府」は合っていない、と思っていますのでね。

 

また、(災害を金儲けの好機ととらえる)「ショックドクトリン」で大もうけ?なんてことがないようにお願いしたい。(そういう発想は邪悪そのものだと思いません?)

 

もし、この厚い雲の裏に権力をめぐる争いがあるのなら、

どうか、われわれ人民(の命と生活)を大切にしてくれる勢力の皆さまが勝ってくださいますように

と、梅雨空にお願いしておきまして、

 

やはり、厚い雲に覆われた感のある「歴史」の世界へ (^-^)

 

日本書紀というのは読み方によってはたいへん面白くて、「裏に隠された」史実を(それとなく)語っている部分があったりします。

 

今回の「唐(高宗)による倭の占領」の話の関連では、たとえば、「斎明元年」に

 

「夏五月 ~ 空中に竜に乗れる者あり、貌(かたち=容貌)、唐人に似れり。

青き油笠を着て(被って?)葛城嶺より馳せて胆駒山(いこまやま)に隠れぬ。

午時(うまのとき)に及至(いた)りて、住吉の松嶺の上(丘?)より西に向ひて馳(は)せ去ぬ」

とあるのは、相当以前から、唐が倭に密偵を忍ばせて、国内の様子を探っていたということではないでしょうか?

 

また、「斎明七年七月二十四日に斎明天皇は朝倉宮で崩御」、八月一日に皇太子が柩(ひつぎ)に付き添って磐瀬宮(いわせのみや)に帰るのですが、その日

 

「この夕に、朝倉山の上に、鬼ありて大笠(おおかさ)を著(き)て、喪の儀(よそおい)を臨(のぞ)み視(み)る。

衆(ひとびと)、みな嗟怪(あやし)ぶ」

とあるのも、それ(内偵)を示唆しているのではないでしょうか?

 

ちなみに、天武ー持統朝(武后派)の影響の下で作られた「日本書紀」は基本的にアンチ高宗(天智天皇)の立場ですので、こうしてポロポロと「秘密の漏洩」みたいなことをやっています。(^^;)

 

ところで、これまでわたしは「倭」が占領された年を663年から664年の間、としてきましたが、朝鮮半島で最近発掘された史料などを見ると、660年、あるいは661年に一気に倭も占領されてしまったのではないか?

とも考えるようになってきました。

 

その頃に、「倭王」が唐によって捕らえられた、ということを述べた「史料」が出てきたためですが、

そういえば、前回にも触れた「新唐書」で

(660年)「~ 左衛(中)郎将の王文度を熊津都督と為す」

「(王)文度、海を渡りて卒す」

とある部分ですが、この熊津(クマナリ)都督は「海を渡って卒す」、卒す、というのは「死んだ」という意味ですが、ここでは

「王文度、海を渡りて卒(いくさ)す」と読みかえたほうがいいように思います。

 

実際、「熊津」(当時の百済の首都)というのは現在の韓国・公州市ですが、地図を見てもわかるように、ここから「海を渡って」、どこへ行くというのでしょうか?

「倭」に渡って「卒(いくさ)す」としたほうが、ただ「死んだ」、とするよりはるかに理にかなっているような気がします。

 

日本の学者さんのこれまでの「定説」は「(王文度は)海を渡って百済に行って、熊津都督になって、死んだ」という解釈のようですが、

「唐から百済に行くのにナンで、“海を渡る”の?」という疑問が起きてきますし、何より文章の順序からして、「百済に来て後、海を渡った」としか読めないのではないでしょうか?

 

ともあれ、この660年には唐の王朝でも大きな出来事がありました。

高宗が「壊れた」ため?(笑)、武后が「政を執る」ことになったのです。

 

資治通鑑」には、こう書かれています。

 

「(顕慶五年=660年)【武后、政を執る】

冬十月。天子(高宗)はかねてから風眩(ふうげん=めまい)に苦しみ、頭は重く、目はものをよく見ることができず、百司(官僚)がことを発する際に、天子は皇后にこれを決せしめることがあった。

后(武后)は、性質が明敏で、文史を渉猟し、ことを処するのにみな旨に適(かな)った。

そこでこの月より政事を委(ゆだ)ねることとし、(武后が)人主(じんしゅ)なみの権力をもつこととなった」

 

高宗、典型的な「仮病」の症状を並べていますよね(笑)

顕慶五年十月、高宗は「体調不良」を理由に后(=武后)に政事を委ねたのではなく、「唐からいなくなった」のだ、とわたしは考えます。

日本的な言い方ですと「旅に出た」というところでしょうか?(笑)

行き先はもちろん、百済、倭。

 

「いや、それは違う。だってその後も高宗は(武后に操られるような形ながらも)唐にいた、というのが史実ではないか」

という声が聞こえてきそうですが、

 

たしかに、高宗は史料にも見るとおり、唐の都にいました。

ただし、

それは、高宗の「影武者」。

このことは、その後の武后と高宗(影武者)の関係を見れば、けっこう「あからさま」ではないか?と思うのですが・・・

 

いずれにせよ、「660年十月以降の唐にいる「高宗」は影武者である」可能性が高い、ということは頭の片隅に入れておいてほしい、と思います。

 

 

・・・やはり「大友皇子」のところまでは行き着けませんでした ヽ(^^;)

ということで、また。

 

 

 

じめじめ、暑くなったり寒くなったり

不快な気候が続きますねえ。

風邪をひいたり、体調を崩している人も多いようです。

わたしもあんまり調子が良くない。昨日は市販の風邪薬を飲んで早めに寝ました。

 

不快といえば、いまの安倍自公政権

いつまで居座るつもりなんでしょうかねえ。

「弱い者いじめ」に徹すれば「長期政権」が約束される、なんて政治は、もうイヤですよ。

庶民やその代弁者が生活の苦しさを訴えれば、すべて「ウソだ」の一言で片付けてしまう「ウソ」が大得意の首相なんて、勘弁してほしい。

きょう御用テレビ?(日テレ=読売テレビ)で「景気がいい」なんて仰っていましたが、それは「1%」だけでしょうが?

(関税と法人税を下げるための)消費税増税を発表した直後の御用テレビ?出演でした)

 

「中間位置」以下の大多数の庶民は地獄の苦しみにのた打ち回っていますよ。

 

いいかげん「人心一新」、少しは暖かな晴れ間を、庶民や弱者に見せてもらいたいものです。

 

ということで、再び「歴史」の世界へ(^^;)

 

前回で天智三年2月以降の「天智天皇」が唐の皇帝=「高宗」のなりすましであることを述べましたが、日本書紀の斎明5年(659年?)7月の記事に、高宗が直々に倭から来た遣唐使を「訊問」したことが載っています。

 

これが公(おおやけ)ではなく、内々のものであったことは、その「訊問」場所が宮廷のある長安ではなく、当時、東京と呼ばれていた洛陽であることからもうかがわれます。

 

このとき書紀はこう書き始め

 

「天子(高宗)相見問訊之、日本国天皇、平安以不」

→「天子相見(あいみ)て問訊(と)いたまわく、「日本国の天皇、平安にますや以不(いな)や」とのたまう」

 

高宗が遣唐使に対して根掘り葉掘り聞いていたことをうかがわせる記事を書いています(書紀では「問答」はほとんど蝦夷についてのものだったように書いてあります。ちなみに、このとき「日本国」はなく、まだ「倭」です。もちろん「天皇制」もありません)

 

驚くのはこの「訊問」があって2カ月ほどした後、この遣唐使のメンバーにが高宗からこんな勅(みことのり)が下ったことです。

→「国家(くに=唐)、来年に必ず海東(かいとう)の政(まつりごと)有(あ)らむ。

汝等(いましたち)倭客(※ここでは(日本ではなく)「倭」になっていますよね。このあたりが(すっとぼけ)「書紀」の「面白い」ところ)東帰(とうき)すること得ざれ」

つまり

「わが国は来年、必ず海東を征討するであろう。お前たち「倭」からの客は帰国してはならない」

ということなんです。

そして、

→「(高宗は)ついに(遣唐使の(訊問)メンバーを)西京(長安)に留(とど)め、(彼らを)別々の場所に幽閉した。

戸を閉ざして塞(ふさ)ぎ、自由に出歩くことを許さず、(幽閉された倭人たちは)長年にわたって困苦した」

と書いています。

 

これ、従来の学者さんの「定説」では、「百済」への征討計画を隠すため、ということになっているんですけど、もうこの年には百済への攻撃準備は(公的に)始まっていますし、何より、「倭」のことを皇帝=高宗から訊ねられた遣唐使のメンバーが幽閉されるということは、

皇帝=高宗の「目的」が「倭」の占領にあった、ということだと思います。

 

そして、この高宗の計画を読めず、百済の占領まで、と考えていたことが倭=蘇我氏の滅亡につながったのではないでしょうか?

高宗の真の目的は朝鮮半島ではなく倭にあったのです。

 

そして翌660年、百済は(唐によって)平定されるのですが、このとき

「郎将の劉仁願に命じて百済城を守らしめ、左衛郎将の王文度を熊津都督(ゆうしんととく)となす」(新唐書

とあります。

前にも書いたように、この熊津都督・王文度が後の藤原鎌足である、とわたしは考えています。

 

新唐書では、このあと

「(王)文度、海をわたりて卒す」

とあるだけです。

 

わたしは、王文度は最初から倭を占領するための高宗のパートナーとして百済に来ていた、と考えています。

王文度がかなりの軍勢を率いていたことは、この後、劉仁軌が「王文度の軍勢」を率いて戦った、などという文章からも明らかです。(白水江で倭の軍勢を打ち破ったときの実戦指揮官は劉仁軌です)

 

あと、鎌足(かまたり)という名前にも注目してもいいかもしれません。

熊津都督・王文度。

熊津というのは当時の百済の首都で、中国読みでは「ゆうしん」ですが倭ではこの熊津を「久麻那利=万葉仮名=くまなり」と読んでいました。

鎌足(カマタリ)と熊津(クマナリ)、ちょっと発音が近いですね。

 

前にも(馬子、蝦夷、入鹿のところで)書いたように、当時の中国では自分の名前に「動物」を使うことは屈辱でした。

そこで、「熊」の替わりに発音の近い「鎌」を使い、「足」は「ナリ」という読み方もあるということで、「鎌足」=「カマナリ」。

で「足」は当然「タリ」と読むほうが多いですから、「鎌足」と書けば、「カマナリ」→「カマタリ」。

 

つまり、「クマナリ」→「カマナリ」→「カマタリ」・・・と、ちょっと苦しいかな?(笑)

でも可能性としてなくはない?(^^;)

ちなみに「鎌」は「レン」の金篇。悪い文字ではありません。

 

・・・

今回は、なんだか細かいところで、長くなってしまったような・・・

 

ホント、底なし沼ですよ。この「日本創成」の頃は・・・「隠された」事実がちらちらと、次々と・・・

次回は唐の廃皇太子=李忠=大友皇子のところまで、行けるかなァ?

 

では、今日はこのあたりで。

皆さまも体調にお気をつけください。

 

 

蛇足:

安倍首相もお身体を第一に考えて、一日も早くごゆっくりなさってください。健康にまさるものはありません(不健康な生活が顔に現れていますよ)。

世の中のしがらみに捕われて、他者(弱者)を苦しめ自分も苦しみ、命を縮めるなんて、バカらしいと思いません? 

一日、一刻も早いご引退を(^^)

 

 

 

 

 

 

 

「二人の天智天皇」というのは誰と誰か?

ズバリ、倭の大王家の当主だった『蘇我入鹿』(とされている人物)と、唐帝国第三代皇帝=『高宗』、だと考えます。(蘇我蝦夷高齢であったため、おそらく隠居(引退)していたでしょう)

 

これ、日本書紀の巻27・天智天皇記をふつうに読んでいても気がつくことだと思うんですけど、

白村江の戦いに大敗した天智2年(663年)8月~9月あたりまでの天智天皇と、その次の年=天智3年の2月に「26官位の制定」を行った天智天皇は明らかに別人です。

 

前者が「倭の大王」だった蘇我入鹿。後者が占領者としてやってきた「唐の皇帝」、高宗ですよ。

 

蘇我大王家=倭が滅んだのは、この天智2年(663年)8・9月から天智3年(664年)2月の間でしょう。

 

そして、天智3年の5月、こんな記事が日本書紀に載る。

→『(天智3年=664年)夏五月(旧暦ですからね) ~

百済鎮将劉仁願(くだらちんしょう りゅうじんがん)、朝散大夫郭務悰ちょうさんたいふかくむそう)を遣(つか)わして、表函(ふみはこ)と献物とを進(たてまつ)る。』

「表函」というのは今で言う密書ですかね?

百済鎮将というのは百済占領軍の総司令官です。

その百済鎮将劉仁願が前年の8月に大敗した「天智天皇」に表函(密書)を進(たてまつ)る?

 

これ、けっこうあからさまではないでしょうか?(笑・・)

 

あと、ここで出てきた郭務悰(かくむそう)という「使者」ですが、この人は倭と朝鮮半島、大陸の間の海を行き来していた唐の軍船団の長です。

この名前は日本書紀のポイントポイントで出てきます。

 

この郭務悰の軍団はしばらくこの国に滞在しますが、

『冬十月~に。郭務悰等(かくむそうら)を発遣(たてつかわ)す勅(みことのり)を宣(の)りたまふ』

つまり、「もう帰っていいよ」と「天智天皇」が言ったわけです。

そこで、中臣内臣(=中臣鎌足)が郭務悰に人を遣わしてそのことを伝え、物を賜(たま)い、饗応させた(ねぎらった)。

とあります。

たかが敗戦国の臣下にすぎない中臣鎌足がずいぶんと態度がデカイというか、エラソーですねー(笑)

ただ、王文度なら、百済鎮将・劉仁願と(唐の位階では)ほぼ同格です。

 

こうして(後の歴史では)天智天皇になりすました?高宗、いや、天智天皇(ややこしい(笑))

武后の台頭によって唐での居場所をなくした者たち(あるいは高宗自身)のための「帝国」造りを着々と進めていきます。(王皇后の親族であれば、王文度(中臣鎌足)もまた、唐での安住の地を失った者たちのひとりでした)

 

そこで問題になってくるのが武后と高宗の間にできた娘である、オオアマ夫人のウノノサララ?姫で、その立場が非情に微妙になってくるわけです

が、

高宗(天智天皇)は、ウノノサララ?が自分の娘であることを知らなかった、と思います。

(もし知っていれば「しめた!」とばかりに高宗はウノノサララ?を殺したのではないでしょうか?。それで、武后と高宗の立場は逆転・・・???ちょっと考えてみてください・・)

 

武后はウノノサララ?自身にも、彼女が自分の娘であるということは隠していたはずです。ただ、「密使?」を通じて、武后がウノノサララと密接に連絡を取り合っていたことは間違いないと思います。

 

それを知らない高宗(天智天皇)は・・・

 

次回へ ・・・いや、とんでもなく長くなってしまうなァ・・・どうしましょ(笑)

 

しかし、「対」世界ということで相対的に見て

これほど、日本の支配者・支配層(=政府、官僚、国会議員)が劣悪だったことってあるでしょうか?

 

わたしの亡くなった父親が、犬を飼うとき(わたしはまだ小学生でした)、

「犬はな、小さいときから満腹させて育てるとバカ犬になってしまうから、食べ物を適当にセーブしながら育てる。そうすると賢い犬になる」

というような意味のことを言っていましたが、

たしかにその犬はとても賢く育ちました!

 

人間もゼイタク、満腹に慣れきっちゃうと、多少はバカ化するのかな?

 

と、贅沢三昧のお金持ち首相やダントツ世界一の報酬を得ておられる国会議員や官僚のみなさんを眺めつつ、なんとなく日本の「劣化」に思いをはせる日々です。(当事者はどうせ見てないと思いますんで、もし見て怒ったらゴメンナサイ(笑))

 

劣化といえば、史上有数の偉大な皇帝、賢帝として有名な唐の太宗も長く権力の座にいると、やはり判断力が落ちるのでしょうか?

晩年、太宗はかつての煬帝と同じようなことをやってしまいます。

東征=対高句麗戦争です。

 

前のブログで触れた貞観19年(645年)、太宗は大軍をもって高句麗を攻めます。

しかし、この親征も煬帝同様、失敗に終わります。

最初は破竹の勢い。6月の戦いでは「(高麗兵の)斬首2万余り」という状況でしたが、その後は膠着。

そして、この年は冬(寒さ)が早く来ました。

そのため

「草は枯れ水は凍り、兵と馬も寒さのため留まり難く、かつ糧食も尽きようとする」

といった状態に陥り、太宗の軍は撤退します(9月(いまの10月?))

李勣の歩騎4万に殿(しんがり)をなさしめて、高句麗軍の追撃を防ぎながら撤退したのですが、その途中で激しい吹雪に襲われ、太宗の軍は夥しい死者を出します。

(この李勣(りせき)は武后との関連でまた触れることになります)

 

営州までやっと戻った太宗は営州故城で祭壇を設け、

(戦死者のために)「天子自ら祭文を作ってこれを祭り、臨哭(りんこく)して哀(あい)を尽くし」ました。

 

しかし、高句麗征服をあきらめようとはしなかった。

 

貞観21年に高句麗遠征を再開した太宗に対して、貞観22年、死の病に伏していた宰相の房玄齢が

「群臣が(太宗を)諌(いさ)めようとしない」

ことを嘆いて、

「わたしは気が付いていながら、このまま何も申し上げないでしまったら、責任を残したまま死ぬことになる」

として(太宗に対して)上表して諌めた。

 

この文は有名ですから、書いときますね。

 

老子には「足りることを知れば危うくない」とあります。

陛下は功名威徳の点で、もはや足りておられるのですから、地を拓(ひら)き領土を広げることはこの辺でお止めにになるべきです。

 

且(か)つ陛下は重罪人を処決(死刑と流刑)される際には、たった一人のために必ず三度、五度と覆奏(ふくそう)せしめ(=何度も調べ直させ、報告させる)、処刑の日には、酒肉を断ち、音楽を停止させます。

これは人命を重んぜられるからであります。

 

それなのに、いま無罪の士卒(=兵士)を駆り立て、これを敵の刃(やいば)の下にゆだね、その肝脳を地にまみれさせておられます。

このことは気の毒だとはなされないのですか?

 

仮に、これまで高句麗が臣節を失ってきたとでもいうのでしたら、これを誅(ちゅう)することも可であります。また百姓(ひゃくせい=人民)を侵したとでもいうのでしたら、これを滅ぼすことも可であります。

また将来、中国にとって患(わずら)いとなるような実力があるとでもいうのでしたら、これを除くのも可であります。

 

今この三ヵ条がないのに、ゆえもなく中国を煩(わずら)わせ、これを内にしては前代(隋)のために恥を雪(すす)ぎ、これを外にしては新羅のために仇(あだ=高句麗新羅を攻めたこと=唐の出兵理由になった)を報(むく)いてやるようなことは、得るところ小さく、損するところばかり大きいのではありませんか。

 

どうか陛下、高麗(高句麗)に自由を許し、海外遠征の軍船を焼き、民衆の徴募(ちょうぼ→徴兵)を廃止されますよう。

 

そこで初めて、華夷(かい=中国と他国)ともに喜び信じ、遠いものは慎(つつし)み、近いものは安らかになるでありましょう。 ~(以下略)~ 』

              (平凡社「中国古典文学大系」資治通鑑 より引用)

 

これに対し、太宗は

「彼(房玄齢)はあのような篤い病の中にありながら、なおよくわが国を気づかってくれる」

と述べて、

「自ら臨御して見舞い、手を握って訣別し、悲しみに自ら堪えられなかった」

とあります。

 

しかし、太宗もそれから十ヶ月後(649年)に死んでしまいます。

 

と・・・まあ、歴史に偉名を残した人と、いまの日本の政治家を比べてましてもねえ・・・(^^;)

・・・いまの日本の政治家との比較はやめときます(笑)

 

でも・・・正直、「あんな人たち(←逆向き(笑))」に憲法をいじられるのは嫌ですよ。

 

・・・今回は本筋から少し離れました。

次回は「二人の天智天皇」の話からはじめようと思います。

 

 

 

 

なぜわたしが「日本」発祥のころの話に

こだわるかと言うと、明治以降の日本の「支配イデオロギー」というか、「支配体制」を考えるには、この時代のことをしっかり踏まえておく必要があるからです。

 

日本人は「歴史」を鏡として、今一度、自分の顔を見つめなおすときが来ていると思います。

 

こうやって「異論」、大胆な「仮説」を思い切って提示することで、官製の偽歴史を暴いて行けたらとも、考えているわけです。

?(^^;)

 

ということで、

 

持統天皇というのは不思議な人です。

草創期の日本にとって最も大きな事跡を残したにも関わらず(制度変革によってこの国を変え、天皇制を確立した)、その仕事の成果は他の天皇(天智、天武など)のものにして、自分はひっそりと歴史の影に半ば隠れるように地味な存在に徹している。

日本書紀の記述もとても少ない。

まるで、自分に焦点が当ることを恐れているように・・・

 

・・・653年、倭のひとりの僧が仏教を学ぶために唐に渡ります。(しばらくこの僧のことを「倭僧」と呼んでおきます)

この倭僧は父親が蘇我氏で史料の編纂に携わっていたというくらいですから、倭に関する知識も豊富に持っていた、と考えられます。

 

この倭僧=倭から来た留学僧に目をつけたひとりの女性がいた。

655年に高宗の皇后となった武照=武后です。

 

武后はこの倭僧に破格の待遇を与えます。

玄奘三蔵と同じ寺で学べるようにし、やがては玄奘と同室で起居できるようにまで、引き立てたのです。

インドから多くの仏典を持ち帰り、その翻訳をしていた玄奘は、当時すでに伝説的存在で、どんな高僧でも軽々に会うことなどできないほどでした。

そんな玄奘三蔵に、(辺境の)倭の留学僧が同室を許されるというのは本来ありえないことで、皇后の意向あってのものだったでしょう。

 

皇后は同時にひとりの女の子を連れてきて、その子に倭の言葉を教えるように倭僧に命じます。

その女の子が生まれたのは645年ですから、655年ですと10歳ですね。

 

武后はその女の子のことを親戚の娘だ、とかなんとか言ったことだろうと思いますが、実は武后の娘です。

しかし、その子が自分の子どもだとは口が裂けてもいえない事情が武后にはありました。

 

645年といえば貞観19年。まだ太宗の治世です。

このとき武后=武照は太宗の後宮にいました。

つまり太宗の「妾」(しょう)だったわけです。

 

この頃、太宗は高句麗遠征の準備で忙しく、たびたび宮殿を留守にしていましたが、644年から645年の末にかけては、宮殿を皇太子の李治(後の高宗)に全く任せてしまって、遠征に出ます。

この間に武照が生んだのがその女の子です・・・

 

ちょっと(かなり)ヤバイですねえ(^-^;)

 

649年に太宗が死んで、李治がその後を継いで高宗となるわけですが、太宗の死後、尼となっていた(後宮の女性は皇帝の死後はすべて尼になることが強制されていた)武照と高宗がヨリを戻したのも、その「女の子」の存在があったからではないか?とも考えられます。

 

ともあれ、父親の後宮の「妾」を息子が自分の後宮に入れることなど、当時の中国でも異例中の異例です。

当然批判は浴びます。

高宗と武照は、「太宗は武照に手をつけなかった」(ウソつけ~(笑))だのと「純愛」を強調してその批判を乗り越えようとしますが・・・

もし645年生まれの娘の存在がバレれば、高宗も武照も一巻のオワリ、となってしまうわけで、

その女の子はふたりにとって「爆弾」のような存在だったわけです。

 

へたをすれば殺されかねない子でしたが、武后の愛情は強かった。

親戚に育てさせ、やがて10歳くらいから倭僧に倭の言葉を教えさせ始める。

このあたりが、アタマがいい、というか、武后の見通しのきくところなんですねえ・・

 

660年(前後?)倭僧が帰国する。

その際、武后はその僧に自分の名=照を与える。「道照」です。

(いまの歴史書では「道昭」となっていますが、元は「道照」)

 

その道照と一緒に、あるいは少し遅れて、「女の子」も倭にやってくる(おそらく新羅経由。上陸場所は山陰あたり?)。

女の子は15歳、ないし16歳です。

倭にやってきた目的は「婚姻」。

武后が注目していた熱心な仏教徒=アマ氏に娘を「輿入れ」させようとしたのです。(アマノタリシヒコ(聖徳太子?)は大陸の仏教徒の間でも人格者としてそこそこ知られていた)

もちろん自分の娘であるということは秘密。皇后の親戚の娘?ということだったでしょう。

 

しかし、唐の皇后の肝いりですから、東海の辺境=倭、のいち「藩主」?アマ氏にとってはたいへんなことです。

たぶん、婚姻相手の選択権はその女の子にあった、と思うのですが、「王家の兄弟」の中から女の子が選んだのが、オオアマ、後の天武天皇です。

ここで、女の子の正体がわかりましたよね。後の持統天皇です。

このときの名前はわかりませんが、後付でウノノサララとか、ついてますけど・・・

 

しかし、驚いたのは「選ばれた」オオアマだったでしょう。

年齢が(たぶん)親子ほど離れているし、何より、オオアマには妻子がありました。

 

それでもオオアマには「拒否権」はない。

けっきょく「女の子」の結婚相手はオオアマとなり、女の子が17歳になった662年には男の子ができます。これが草壁皇子です。

 

この間、道照は「女の子」に影のように付き従っていたことでしょう。

 

唐から遠く離れた倭の地で、熱心な仏教徒一族に嫁いで、これで安心、一件落着、と思いきや、

 

ナント、663年、倭の大王家=蘇我氏が唐に敗れ、664年には(女の子の)「父ちゃん」=高宗がやってくるわけです。

(このとき武后は、自分の廃后工作に失敗して倭に渡った高宗について、どう考えていたか?・・・このころの武后は凄かった?・・・)