何のために生きている?

と問われれば、もっと幸せな人間社会が見たいから

間違いなく日本史上の大汚点の

ひとつとなるであろうオウム真理教の開祖&信者7人の同日大量処刑、から今日で17日になるわけですが、いまだに嘔吐感に近い不愉快感が抜けきらなくて困っています。

 

今回の安倍晋三自公政権上川陽子法相の所業は世界的に見ても(歴史的に見ても)最悪の部類に入るでしょう。

 

それにしても、この国はいつからこんな国になってしまったのか?

 

「死刑」をとってみても、「日本」はその始め(天武朝~)から否定的な態度で、悪人といえどもその生命を重く見ていました。

 

だから機会があるごとに、「恩赦」「大赦」を発して死刑囚の命を救っていました。

 

とくにそういった恩赦に熱心だったのが持統天皇聖武天皇で、しばしば恩赦を発し、死刑囚のほとんどを救っている、といった状態だったようです。

 

→「~詔(みことのり)したまはく

天下に令して、繋囚(とらへびと)の極刑(しぬるつみ=死刑)は、本罪(もとのつみ)一等(ひとしな)を減(おと)せ。

軽繋(かるきとらへびと)は皆(みな)赦(ゆる)し除(や)めよ」

(=極刑(=死刑)の囚人は本罪一等を減じ(て命を助け)よ。軽罪の囚人はみな釈放せよ)  <持統二年六月の詔>

 

というような内容の記事が「日本書紀」や「続日本記」にはしばしば出てきます。

聖武天皇は「死刑」に際しては三度天皇に報告させていました)

 

この持統天皇聖武天皇の血統は断たれましたが、その後、「平安京」を確立したといわれる嵯峨天皇によって国の制度としての「死刑」は廃止(停止)、それが338年間続きました。

(豪族などの「私刑」としての「殺人(死刑)」は行われていました)

 

そのころは、いまの政府・体制とはまったく違う考え方によっていた、ということがよくわかりますが、これは「仏教」を国の根幹に置いていたからでしょう。

 

天武天皇持統天皇聖武天皇が目指していたのは「仏教国家」です。

この系統の最後の天皇である称徳天皇は、天皇制による支配から「(仏教の)法王」制による支配体制に移行させようとしましたが、藤原氏によって阻まれました。

 

それでも、それ以後の天皇も熱心な仏教徒であり、嵯峨天皇空海最大の庇護者となり、ついには死刑を廃止(停止)したわけです。

 

しかし、当時すでに仏教は世界的に衰退傾向にあり、日本でも「末法思想」が流行り、それを「再興」すべく鎌倉仏教が起きたわけですが、その後は徐々に宗教的な力を失い、「神仏習合」などの制度に頼って、権力に依存するようになって行きます。

 

それでも、代々の日本の支配者は仏教を大切にしてきました。

 

それが、まったく違った「事態」に直面するのが明治政府の行った「廃仏毀釈」です。

このとき、驚くほど抵抗がなかったのは、仏教界全体が権力と結びつき、権力の一翼を担う、「行政教」のような存在になっていたからでしょう。

 

この傾向は今もあまり変わってはいません。

(だから、国家神道とも簡単に結びつくことができるんですね)

 

ま、政府権力・国家体制との関係で悩み苦しむわれわれ庶民にとっては(格差、貧困、生活苦、などなど)、気休めくらいの意味しかないような存在、と見えなくもないですね(笑)

 

しかも、明治以降の日本の「支配体制」の行ってきた「戦争」の数々の結果、いまの日本は「半植民地」のような状態です。

国民も「奴隷化」「家畜化」が進行していて、総フヌケ状態。。

政治家・官僚は「植民地監督官」のようなもの、になっているようです。

 

これじゃ、先行きがおぼつかない、ということで、オウム真理教なんてのが出てきたんじゃないでしょうか?

 

彼らが目指していたのは「仏教の「再興」」であったように見えます。

少なくとも「仏教による」「救済」を唱えていたことは間違いないでしょう。

しかも、かなり本質的な部分での。

 

それが国家・社会(さらにはは植民地宗主国(CIA?))との衝突によっておかしな方向に行った、あるいは行かされた?

ように見えるのは、やはり、その組織、教義に大きなあるいは多くの矛盾があったからではないでしょうか?

 

ただ、わたしは彼ら(処刑された人たち)が「仏教修行者」=「僧」であったことは確かだと思います。

とくに「シヴァ」神にまで行った麻原氏は相当なレベルまで行った修行者ではなかったでしょうか?(社会的な意味ではなくあくまで「個人の修行者」として)

 

それを、幾多の疑惑にフタをしたまま「処刑」した現政権は「異常」だと思います。人間として異様・異常というか、頭に穴が開いているとしか、わたしには思えない、見えないのです。(あるいは動物以下)

 

しかも、仏教の修行者をキリスト教徒の上川陽子法相に処刑させる。

これはどういうことなんですかねえ?

下手をしたら、国内に「宗教的憎悪」を生じさせかねないやり方ですよ?

 

この国、国民をバラバラにして滅ぼそうと考えているんですかね?

少なくとも「建設的」な方向に向かっているとは思えません。

 

ともあれ、明治(とくに明治六年)以降の日本は日本ではない「(変質した)日本」(≠日本)なのです。

基本的人権の尊重、平和主義、民主主義(=日本国憲法の基本原則)を否定すれば、それは完全に日本ではなくなるのです)

そのことを、「歴史」から「証明」していきたいと考えています。

 

ちょっと長い道のりですが。