何のために生きている?

と問われれば、もっと幸せな人間社会が見たいから

今日、読ませていただいたこちらのブログ

http://uekusak.cocolog-nifty.com/blog/2020/01/post-22a2f1.html

 

わたしが漠然と思っていることを明快に述べてくださってます。

ほんとうに優秀かつ立派な方ですなあ。

 

こういう人を国のために生かせない、むしろ圧迫を加えるなんてことをやっているから、この国は没落していっているのでしょう。

 

まったく、この国の支配層はどうしようもない。

 

どうしようもない、といえば、一般民衆もねえ・・・

 

生活保護バッシングにおける想像力の欠如。自ら生活の底(保障)をぶち抜く愚(おろ)かさ。

こんなことは他国ではちょっと考えられないんじゃないかと思います。

 

想像力の欠如といえば、このあいだ新聞を見ていたら、死刑の存続に関するアンケートのの結果が載っていて、

 

それによると、

 

死刑を肯定する、つまり、死刑存続派が80%、で、死刑廃止派はわずか9%なのだとか。

 

これも、この国以外では考えられない数字でしょう。

 

これまで幾多のえん罪処刑、不当処刑と思われるものがあったにも関わらず、

 

またさらに、あの、事件そのものをもみ消したなんていわれているオウム真理教幹部の大量処刑の記憶も新しい、とあっては・・・もう言葉もありません。

 

「人間の尊厳」「人間の生命」に対する想像力を欠いた国民性?

 

やばいですねえ。

そりゃあ、死刑は必要ですわ、日本人には。

コワイコワイ。

 

それでも、古代にはこの国で死刑を廃止した人がいるんですよね。

 

嵯峨天皇

 

わたしは「皇統」が変わった光仁天皇以降の天皇では、この方が最も偉大な天皇だと思っています。空海を特に重用したのもこの天皇ですね。

 

このあたりのところは、またこのブログで触れるかと思います。

 

ともあれ、嵯峨天皇以降、350年の間、この国では死刑が廃止されていました。

今からは想像もできませんよね。

 

だから、結局は指導者、支配層の問題なんですな。

 

生活保護バッシングにせよ、死刑賛成にせよ、

指導者、支配層が国民をそのようにしているんです。

 

こういう、想像力の欠如による差別、国家暴力は明治以来のニッポンの伝統でもあります。

 

いま、歴史をまともに見ようとしている人たちの間で、薩長政権に対する再検討の動きがあり、

 

わたしもまったくその方向性に賛成なのですが、

 

ただ、それだけではないぞ、ということに最近気づきました。(かなりの人がとっくに気づいていた?)

 

明治以降の政治の重要なファクターは薩長だけではないんですよね。

 

目立たなくされた?重要なファクター。

 

それは、公家(くげ)。お公家さん。

 

お公家さんといえば、真っ先に岩倉具視が思い浮かびますが、岩倉具視は公家の中ではそれほど高位ではありません。

 

維新の功労者ということで、岩倉具視は右大臣になりましたが、

太政大臣三条実美左大臣有栖川宮で、こちらのほうが位(くらい)は上です。

 

いまの日本の官僚、世襲政治家、サラリーマン政治家、独占資本家などによる酷薄(こくはく)かつ差別的な政治、体制に至る流れの裏には、この公家、つまり、貴族(貴族主義)の存在も重要なファクターとして見る必要があるのではないかと思っています。

 

たとえば、明治6年の政変で西郷隆盛板垣退助たちを「追放」したのは、三条実美らを中心とした公家ですよね。

西南戦争の背後にあったのもそれ。

 

「公家」という要素を入れることで、これまで謎だった明治以降のこの国の流れがよく見えてくるようです。

 

映画「ラストサムライ」では、西郷隆盛を滅ぼした張本人を伊藤博文(と思われる人物)と見ていたようですが、それもちょっと違うんですよ。