何のために生きている?

と問われれば、もっと幸せな人間社会が見たいから

「売国の右翼、亡国の左翼」ということが

少し前のネットで言われていて、わたしなどは、「なるほど」と感心し納得もしたものですが、思ったほどにはこの言葉は拡散しなかったようです。

少しでも世の中やこの国のことを考えている(支配層以外の)人なら、誰もが感じていることだと思うんですけどね。

 

売国」の右翼勢力の人たちにも、旧態依然、ステレオタイプの左翼の人たちにも「カエルの面に小便」といったところで、この言葉は省みられることもなかったようです。

 

この言葉は言葉自体として「戦後政治」の本質を衝いているわけですが、「右」も「左」もまさにその「枠内」に納まっているわけで、

 

そんなことは「隠然」かつ「当然」のこととして、まさに小便をかけられたカエルのように、「?」「ナニ?それ(笑)」と、右翼蛙からも旧態依然カエルからも「無視」というか、(彼らの)問題意識とさえならずに(言葉が)消えてしまったのは仕方の無いことだったのかもしれませんね。

 

この事態を乗り越えるには、「戦後」だけに捕われるのではなく、「戦中」「戦前」、さらにはそれ以前、「日本」とは何か?何であったのか?というところまで考えを進める必要があるのではないかと思います。

 

市民的といいますか、「在野」の「学」あるいは問題意識においてはそういった方向に進んでいる人たちも少なからずいるわけですが、まだまだ「カオス」あるいは「混乱」の域にあるようにも見えて、「これから」の分野ではないかと思います。

(ただ、既存「左翼」さんにおいても、戦中・戦前にまで遡った地点からの「右翼」政権批判は行っているわけで、これは非常に有意義だと思います。

「右翼」の「創作歴史」に基づいた、妄想「明治」理想化論、戦前・戦中肯定論にはまったくついていけませんが(笑))

 

それにしても、幕末・明治に遡る「薩長閥有司専制政治」と「自由民権運動」の対立についてくらいは、もっと議論がなされていいんじゃないかな?

と思うのですが、それも弱い。

(いま山本太郎参院議員がやっていること(=直接街頭に出て民衆に呼びかける)はそれ(=自由民権運動)のDNAを受け継いでいるのかな?(^^)それにしても民衆の反応が「いまいち」なのが気になります。)

 

ということで、ともあれ?わたしはまた遠い昔から(笑) 

 

このあいだの秋篠宮さんによる

大嘗祭(だいじょうさい)簡素化」発言は「天皇制」の本質に関わる、かなり重大な意味を持つものだったと考えられるんですけど、「政府」からの反応は鈍く、大学教授などの「歴史学者」からの発言もあまり見受けられませんでした。

 

これは、「大嘗祭」について、あまり掘り下げてもらいたくない、という「国」の姿勢の現われでしょう。

 

     と、思ったので、「掘り下げ」てみたくなっちゃいました(笑)

 

大嘗祭」というのは毎年行われる「新嘗祭(にいなめさい)」の大掛かりなもので、新天皇の即位に際して、新天皇天皇位を受け継いだことを「証明」する重大な儀式だと考えられるのですが、

なぜ「新嘗祭」「大嘗祭」が天皇にとってそれほど重要な儀式であるのか?

ということですよね。

 

この問題はわたしの「日本の創建」に関する「私見」からは簡単に「解答」が出ます。

・・・スミマセン(あらかじめ謝って?おきます)(笑)

 

なぜ「新嘗祭」「大嘗祭」がそれほど重要なのか?

 

それは、この儀式が「倭」つまり「天智天皇」以前の大王家(=蘇我氏)と、「日本」天皇家つまり天武・持統天皇以降の「大和王朝」を繋ぐものだったからです。

 

・・・この国に「水穂栽培」、つまり「稲」=「お米」をもたらせたのは蘇我大王家につながる「倭」(倭族)です。

 

おそらく、というより、間違いなく「倭」においては稲作に関する「農耕儀礼」が最も重要な儀式(あるいは「祭り」)として行われていたはずです。

(「倭族」の「農耕儀礼」については、大陸南部や東南アジアの「倭族」を調査した鳥越憲三郎氏の著作に詳しく書かれています)

 

その「倭」の大王家の歴史は、唐=高宗による「倭」の「占領」・「倭の大王家(蘇我氏)の断絶」によって断たれるのですが、

さらにその高宗(天智「天皇」)-李忠(大友皇子)による「皇帝」体制をひっくり返したのが天武・持統の「天皇」体制でした。

 

この天武・持統の「天皇」体制は高宗=天智によって滅ぼされた「倭」の歴史を「日本」の歴史として(取り入れ)つなごうとします。

 

その方針のもとに書かれたのが「古事記」であり、「日本書紀」であった、

わけです。

 

「倭」の歴史を天武・持統から始まる「日本」につなぎ、そしてその始祖を天照大神(=武照(持統天皇の母親))を中心とする「神々」(「日本創建」にまつわる支配層)とすることで、「日本」の「歴史」は完成しました。

 

(卓越した歴史家でもあった新井白石は、日本の「神」(カミ)というのは「上」(カミ)のことだ、という「見解」を述べています。

日本における「神」(カミ)=「上」(カミ)。

頭(=身体で一番上にある)の毛を「カミ」(髪)の毛というのも、それ。

なんてことも言っています。)

 

 

大嘗祭」「新嘗祭」もそれまでの倭の「神」=「上」(=支配層)が行っていた儀式を、新しい「神」(=「日本」の支配者)が、自分たちにあわせて「(内容は)改変」して、引き継いだものと考えていいと思います。

 

「倭」あるいは「倭族」の農耕儀礼というか儀式においては「犠牲」「いけにえ」の存在があったようですから、この点はどうしても改める必要があり、今の「大嘗祭」「新嘗祭」の原型ができたのではないかと思います。

 

そうすると、「天皇」の「継続性」を証明する大嘗祭は、天武・持統時代から行われ始めた可能性が高い、ということになるかと思いますが、

確かに!

大嘗祭」という言葉が最初に現れるのは「天武二年」でした。

 

また、大嘗祭冬至の頃の「卯の日」に行われるのが通例になっていたのですが、この「卯(=ウサギ)」の日というのも「持統天皇」と何らかの関係があるのではないか、と考えています。

 

持統天皇の諱(いみな)はいま鸕野讃良(うののさらら)と書かれているのですが、「兎野讃良」とも書く、と注釈がつけられていることが多いようです。

 

わたしは元々は「兎野讃良」だったのではないか、と考えています。

持統天皇はどうも「兎」(ウ=うさぎ)にこだわっていたように思えるのです。

 

ただ、「兎野讃良」が、どう「大嘗祭」の「卯」の日に結びつくのかは、いまの段階ではちょっとわかりません。

 

ただ、この「卯の日」に大嘗祭を行うという慣例も、明治以降は崩されています。

明治政府というのは、どうもそれまでの「天皇」を「否定」している面があるんですよね。

明らかに「意図的」に。

 

たとえば、明治政府は称徳天皇が「藤原仲麻呂の乱」に際して、当時「天皇」であった人の天皇位と称号を剥奪、その存在を否定して「淡路廃帝」としてしか呼ぶことを許さなかった人に対して「淳仁天皇」という諡号(しごう)を贈り、歴代「天皇」のひとりに加えましたが、これは江戸時代までの政府、天皇家では考えられなかったことです。

 

また「壬申の乱」における「敗者」である「大友皇子」に対しても諡号を贈り、「弘文天皇」としています。

 

まあ、これら明治政府による天皇制の「改変」については後々語って行きたいと思います(けっこうな「問題」です)。

 

 

長くなっていますが、最後に「倭」の「犠牲」「生け贄」について。

 

大陸南部から東南アジア、インド近くにまで及ぶ「倭族」に農耕儀礼としての「犠牲」「いけにえ」があったことは鳥越憲三郎さんの研究に詳しいわけですが、

わたしは、この国でも「犠牲」「いけにえ」の儀式がある時期まで行われていただろうな、と思うのです。

 

稲作民族である倭族が捧げる「犠牲」は稲の「豊作」を願ってのものです。

農耕民族にとって最も恐ろしいのは(凶作などによる)「飢饉」(ききん)ですから、それを避けるためのものでもあったでしょう。

 

そこで、捧げられる「犠牲」とは何か、といえば、「人間の首」だったわけです。

 

「クビ狩族」が首を狩るのは、もともとはこの「農耕儀式」のためでした。

 

「日本人」も元々は首狩族です。

部族間の「戦争」(食糧不足その他経済的、社会的理由での戦争)でも首を狩りますが、捕虜、奴隷といった人たちを生かしておいて、儀式のために首を切るということもあったでしょう。

 

その際、犠牲にされた人たちは、「神?」に捧げられた後に再生すると考えられていましたが、その再生は人間ではなく「蛇」としてでした。

なぜならこの農耕儀礼の対象としての「神」は蛇であって、それに捧げられた犠牲の人も「神」=蛇として(新たな神として)再生するというわけです。

そして、その神によって「豊作」がもたらされる・・・

 

そういった「犠牲」は「日本」の天皇体制によって否定され(たぶん蘇我氏も仏教に帰依したことから殺生を伴う儀式はやめていたでしょう)ましたが、地方では根強くその習慣が残っていたと思われます。

 

スサノウによる八岐大蛇(やまたのおろち)退治の話を古事記が書いているのは、新政権が「犠牲」=人身御供を否定したことを意味しています。

 

ちなみに、わたしは古事記におけるスサノウのモデルを高宗と考えています。

高天原」=当時の「唐」の朝廷と考えるとわかりやすいと思います。

天照大神=武照皇后によって、高天原=唐の朝廷を追われた高宗がスサノウというわけです。

 

ひょっとして高宗は人身御供を行っている人々に対して厳しい態度をとったのかもしれませんね。

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いやあ、こうして話し始めるときりがありません(笑)

中途半端ながら、今日はここで切り上げようと思います。

 

最後に、

わたしは「日本」の始まりを当時の「唐」との関係を中心に話しているわけですが、この国の明治以降の政府、学者、マスコミは、この国に対する唐あるいは中国の影響をなるべく語らないようにしているようです。

 

これはまあ理解できなくもないことで、古代中国との関係を話の中心にすえると、どうしても「中国一元化」の問題が起きてくるのです。

 

古代アジア、東アジアにおける歴史、記録(文書)の分野では「中国」は圧倒的です。

日本や朝鮮にも古くからの歴史、文化があったわけですが、「記録」上ではどうしても中国中心主義、中国一元化に傾いてしまうわけです。

 

だから、明治以降の政府、学者(官立大学)、マスコミ(政・官・財の宣伝機関)が徹底的と言ってよいほどに古代中国からの影響を否定しようとするのはわかるわけですが、

「やりすぎ」ではないか?

というのがわたしの「立場」です(笑)

 

だらだらと長く書いてしまいました。

 

では次回、また。