何のために生きている?

と問われれば、もっと幸せな人間社会が見たいから

じめじめ、暑くなったり寒くなったり

不快な気候が続きますねえ。

風邪をひいたり、体調を崩している人も多いようです。

わたしもあんまり調子が良くない。昨日は市販の風邪薬を飲んで早めに寝ました。

 

不快といえば、いまの安倍自公政権

いつまで居座るつもりなんでしょうかねえ。

「弱い者いじめ」に徹すれば「長期政権」が約束される、なんて政治は、もうイヤですよ。

庶民やその代弁者が生活の苦しさを訴えれば、すべて「ウソだ」の一言で片付けてしまう「ウソ」が大得意の首相なんて、勘弁してほしい。

きょう御用テレビ?(日テレ=読売テレビ)で「景気がいい」なんて仰っていましたが、それは「1%」だけでしょうが?

(関税と法人税を下げるための)消費税増税を発表した直後の御用テレビ?出演でした)

 

「中間位置」以下の大多数の庶民は地獄の苦しみにのた打ち回っていますよ。

 

いいかげん「人心一新」、少しは暖かな晴れ間を、庶民や弱者に見せてもらいたいものです。

 

ということで、再び「歴史」の世界へ(^^;)

 

前回で天智三年2月以降の「天智天皇」が唐の皇帝=「高宗」のなりすましであることを述べましたが、日本書紀の斎明5年(659年?)7月の記事に、高宗が直々に倭から来た遣唐使を「訊問」したことが載っています。

 

これが公(おおやけ)ではなく、内々のものであったことは、その「訊問」場所が宮廷のある長安ではなく、当時、東京と呼ばれていた洛陽であることからもうかがわれます。

 

このとき書紀はこう書き始め

 

「天子(高宗)相見問訊之、日本国天皇、平安以不」

→「天子相見(あいみ)て問訊(と)いたまわく、「日本国の天皇、平安にますや以不(いな)や」とのたまう」

 

高宗が遣唐使に対して根掘り葉掘り聞いていたことをうかがわせる記事を書いています(書紀では「問答」はほとんど蝦夷についてのものだったように書いてあります。ちなみに、このとき「日本国」はなく、まだ「倭」です。もちろん「天皇制」もありません)

 

驚くのはこの「訊問」があって2カ月ほどした後、この遣唐使のメンバーにが高宗からこんな勅(みことのり)が下ったことです。

→「国家(くに=唐)、来年に必ず海東(かいとう)の政(まつりごと)有(あ)らむ。

汝等(いましたち)倭客(※ここでは(日本ではなく)「倭」になっていますよね。このあたりが(すっとぼけ)「書紀」の「面白い」ところ)東帰(とうき)すること得ざれ」

つまり

「わが国は来年、必ず海東を征討するであろう。お前たち「倭」からの客は帰国してはならない」

ということなんです。

そして、

→「(高宗は)ついに(遣唐使の(訊問)メンバーを)西京(長安)に留(とど)め、(彼らを)別々の場所に幽閉した。

戸を閉ざして塞(ふさ)ぎ、自由に出歩くことを許さず、(幽閉された倭人たちは)長年にわたって困苦した」

と書いています。

 

これ、従来の学者さんの「定説」では、「百済」への征討計画を隠すため、ということになっているんですけど、もうこの年には百済への攻撃準備は(公的に)始まっていますし、何より、「倭」のことを皇帝=高宗から訊ねられた遣唐使のメンバーが幽閉されるということは、

皇帝=高宗の「目的」が「倭」の占領にあった、ということだと思います。

 

そして、この高宗の計画を読めず、百済の占領まで、と考えていたことが倭=蘇我氏の滅亡につながったのではないでしょうか?

高宗の真の目的は朝鮮半島ではなく倭にあったのです。

 

そして翌660年、百済は(唐によって)平定されるのですが、このとき

「郎将の劉仁願に命じて百済城を守らしめ、左衛郎将の王文度を熊津都督(ゆうしんととく)となす」(新唐書

とあります。

前にも書いたように、この熊津都督・王文度が後の藤原鎌足である、とわたしは考えています。

 

新唐書では、このあと

「(王)文度、海をわたりて卒す」

とあるだけです。

 

わたしは、王文度は最初から倭を占領するための高宗のパートナーとして百済に来ていた、と考えています。

王文度がかなりの軍勢を率いていたことは、この後、劉仁軌が「王文度の軍勢」を率いて戦った、などという文章からも明らかです。(白水江で倭の軍勢を打ち破ったときの実戦指揮官は劉仁軌です)

 

あと、鎌足(かまたり)という名前にも注目してもいいかもしれません。

熊津都督・王文度。

熊津というのは当時の百済の首都で、中国読みでは「ゆうしん」ですが倭ではこの熊津を「久麻那利=万葉仮名=くまなり」と読んでいました。

鎌足(カマタリ)と熊津(クマナリ)、ちょっと発音が近いですね。

 

前にも(馬子、蝦夷、入鹿のところで)書いたように、当時の中国では自分の名前に「動物」を使うことは屈辱でした。

そこで、「熊」の替わりに発音の近い「鎌」を使い、「足」は「ナリ」という読み方もあるということで、「鎌足」=「カマナリ」。

で「足」は当然「タリ」と読むほうが多いですから、「鎌足」と書けば、「カマナリ」→「カマタリ」。

 

つまり、「クマナリ」→「カマナリ」→「カマタリ」・・・と、ちょっと苦しいかな?(笑)

でも可能性としてなくはない?(^^;)

ちなみに「鎌」は「レン」の金篇。悪い文字ではありません。

 

・・・

今回は、なんだか細かいところで、長くなってしまったような・・・

 

ホント、底なし沼ですよ。この「日本創成」の頃は・・・「隠された」事実がちらちらと、次々と・・・

次回は唐の廃皇太子=李忠=大友皇子のところまで、行けるかなァ?

 

では、今日はこのあたりで。

皆さまも体調にお気をつけください。

 

 

蛇足:

安倍首相もお身体を第一に考えて、一日も早くごゆっくりなさってください。健康にまさるものはありません(不健康な生活が顔に現れていますよ)。

世の中のしがらみに捕われて、他者(弱者)を苦しめ自分も苦しみ、命を縮めるなんて、バカらしいと思いません? 

一日、一刻も早いご引退を(^^)