ズバリ、倭の大王家の当主だった『蘇我入鹿』(とされている人物)と、唐帝国第三代皇帝=『高宗』、だと考えます。(蘇我蝦夷は高齢であったため、おそらく隠居(引退)していたでしょう)
これ、日本書紀の巻27・天智天皇記をふつうに読んでいても気がつくことだと思うんですけど、
白村江の戦いに大敗した天智2年(663年)8月~9月あたりまでの天智天皇と、その次の年=天智3年の2月に「26官位の制定」を行った天智天皇は明らかに別人です。
前者が「倭の大王」だった蘇我入鹿。後者が占領者としてやってきた「唐の皇帝」、高宗ですよ。
蘇我大王家=倭が滅んだのは、この天智2年(663年)8・9月から天智3年(664年)2月の間でしょう。
そして、天智3年の5月、こんな記事が日本書紀に載る。
→『(天智3年=664年)夏五月(旧暦ですからね) ~
百済鎮将劉仁願(くだらちんしょう りゅうじんがん)、朝散大夫郭務悰ちょうさんたいふかくむそう)を遣(つか)わして、表函(ふみはこ)と献物とを進(たてまつ)る。』
「表函」というのは今で言う密書ですかね?
その百済鎮将劉仁願が前年の8月に大敗した「天智天皇」に表函(密書)を進(たてまつ)る?
これ、けっこうあからさまではないでしょうか?(笑・・)
あと、ここで出てきた郭務悰(かくむそう)という「使者」ですが、この人は倭と朝鮮半島、大陸の間の海を行き来していた唐の軍船団の長です。
この名前は日本書紀のポイントポイントで出てきます。
この郭務悰の軍団はしばらくこの国に滞在しますが、
『冬十月~に。郭務悰等(かくむそうら)を発遣(たてつかわ)す勅(みことのり)を宣(の)りたまふ』
つまり、「もう帰っていいよ」と「天智天皇」が言ったわけです。
そこで、中臣内臣(=中臣鎌足)が郭務悰に人を遣わしてそのことを伝え、物を賜(たま)い、饗応させた(ねぎらった)。
とあります。
たかが敗戦国の臣下にすぎない中臣鎌足がずいぶんと態度がデカイというか、エラソーですねー(笑)
ただ、王文度なら、百済鎮将・劉仁願と(唐の位階では)ほぼ同格です。
こうして(後の歴史では)天智天皇になりすました?高宗、いや、天智天皇(ややこしい(笑))
武后の台頭によって唐での居場所をなくした者たち(あるいは高宗自身)のための「帝国」造りを着々と進めていきます。(王皇后の親族であれば、王文度(中臣鎌足)もまた、唐での安住の地を失った者たちのひとりでした)
そこで問題になってくるのが武后と高宗の間にできた娘である、オオアマ夫人のウノノサララ?姫で、その立場が非情に微妙になってくるわけです
が、
高宗(天智天皇)は、ウノノサララ?が自分の娘であることを知らなかった、と思います。
(もし知っていれば「しめた!」とばかりに高宗はウノノサララ?を殺したのではないでしょうか?。それで、武后と高宗の立場は逆転・・・???ちょっと考えてみてください・・)
武后はウノノサララ?自身にも、彼女が自分の娘であるということは隠していたはずです。ただ、「密使?」を通じて、武后がウノノサララと密接に連絡を取り合っていたことは間違いないと思います。
それを知らない高宗(天智天皇)は・・・
次回へ ・・・いや、とんでもなく長くなってしまうなァ・・・どうしましょ(笑)