何のために生きている?

と問われれば、もっと幸せな人間社会が見たいから

28日のブログに書いた霊園散歩は

楽しいだけではなく、いろいろなことも考えさせられて有意義なものになりました。

江戸時代から現代までの墓石の数々を見て歩いていると、歴史とその人たちの生きた時代に思いが及びます。

 

芥川龍之介の墓の前で手を合わせながら、わたしは「将軍」を読もうと思っていることを「報告?」したような形になりましたが、(28日のブログ)

乃木希典をモデルにした「将軍」は芥川龍之介の小説の中では評価の分かれる作品で、昔の評論家からは厳しい評価を受けていたものです。

たとえば、わたしがいま読んでいる昭和44年初版発行の、角川文庫版の「藪の中・将軍」の「作品解説」では、国文学者の三好行雄氏がこう書いています

 

『~・・・これもよかれあしかれ、いかにも芥川龍之介らしい短編である。旅順戦の勇将乃木希典は ~ 今日の感覚では想像できぬほど偉大な英雄であった。その至誠・尽忠・誠実・仁愛などという典型的な武人の通念をさまざまなエピソードによってはぎとってゆくわけだが ~ 寄木細工ふうな構成がわざわいして、全円的な人間像の肉付けには失敗している。

殉死の前に写真をとった将軍と自殺した友人との対照だけが妙に白々しく浮き上がって、作品の印象をやや浅はかに・・・~以下省略』

 

この批評は、「将軍」という短編が当局の検閲によって小説・作品といえないくらいに「削除(××××)」されていることにまったく触れていません。

要はこの作品を「否定」しているんだと思います。

これを評価して芥川龍之介のイメージが変わることを恐れたか?さらにはまた、この作品を「評価」することのできない評者自身の立ち位置のためか?

いかにも、「体制維持」を至上目的とする東京大学系の学者さんらしいスタンスだとは思いますが(^^;)チガッタラゴメンナサイ

 

いっぽうこういう見方もあります。2014年に学研から出た「怪奇事件の謎」(小池壮彦・著)、と書けば、「え?オカルト?怪談本?」なんて言われそうですが、この本、なかなか穿った面白い本なんです。

この本には芥川龍之介の「将軍」についてこう書かれている

 

『~・・・

 芥川龍之介天皇の問題を念頭に置きつつ「将軍」という小説を書いた節がある。

近代日本の二重基準、すなわち王政復古と欧化売国という欺瞞的な体制のなかで、芥川は天皇資本主義を見限り、社会主義に傾いた。だが、最後まで傾ききれずに自殺した。

~・・・

しかし、芥川の評価を体制内に組み入れておきたい人々の思惑もあって、彼の社会主義的傾向にあまり触れないような空気がこれまでにはあったのではないだろうか。』

 

また、こんな一節も

明治神宮の創建にまつわる話題が世上をにぎわした当時 ~・・・

(この「将軍」という小説は)乃木将軍をダシにして、明治神宮創建による明治天皇の神格化に釘を刺したものとも受け取れる』

 

芥川龍之介は当初歴史学者を目指していた、というほど、歴史をしっかり学んでいたようですから、「歴史的欺瞞」を見抜く目は確かだったでしょう。

同書によると芥川は別の「金将軍」という小説の末尾にこう書いているそうです

 

『・・・~ しかし、歴史を粉飾するのは必ずしも朝鮮ばかりではない。日本もまた小児に教える歴史は、- あるいはまた小児と大差ない日本男児に教える歴史はこういう伝説に充ち満ちている。』

 

今でこそ「なるほど」と、普通の人も頷ける言葉ですが、当時(明治体制下の日本)でこう書くのは(暗に官製歴史を批判)、かなり勇気のいることだったのではないでしょうか?

 

この「怪奇事件の謎」という本、裏表紙に

『この世は「フィクション」で成立している』

とあるように、明治 ~ 現代における日本政府・日本支配層による「フィクション造り」にかなり「肉薄」していて、

 

明治時代の薩長閥官僚体制によるフィクション造り以来の、(再びの)フィクション作りの時代に生きているわたしたち日本人に、

 

「考える」ためのいい材料を提供してくれていると思います。

 

じつはわたしも、これまで芥川龍之介といえば、「河童」や「侏儒の言葉」だったりしたのですが、この小説家さんは、まだまだ奥が深いようです。

 

ともあれ、(明治時代から続いている)政府、日本の支配層、大メディア、御用学者、学校(教育)などが作り出すフィクションに無防備に洗脳・マインドコントロールされるというのは、恐ろしいことです(日本の戦前~敗戦のように)。

 

わたしたち庶民は自分たちの生きているリアルな現実を対象化することによって、そういった(わたしたちの生命、生活を危うくする)フィクションに対処していかなければなりません。

いま、日本の多くの人たちが参加して声をあげている市民運動なども、そういったもののひとつでしょう。

 

(たとえば、「フィクションを基にした改憲」に対する護憲。わたしたち庶民にとっては、自民党・エセ右翼がやろうとしている改憲よりも護憲のほうがはるかにメリットが大きい。

わたしたちの「生命」「生活」を基準にして見ればわかりきったこと、一目瞭然じゃないですか!)

 

まだまだ書きたいことは尽きないのですが、長くなりましたので今日はここまで

(^-^)

わたしは5月3日の憲法記念日には有明防災公園の集会に参加します!

みなさんもぜひお近くの「護憲集会」に足を運びましょう!わたしたちの生きている、生活している立場から、声をあげましょう!

おー!

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では、また