何のために生きている?

と問われれば、もっと幸せな人間社会が見たいから

桜の花が散ればツツジの季節。

わたしが子どもの頃住んでいた田舎も、この季節には山々が赤やピンクや白のツツジで彩られたものですよ。

 

わたしの家の裏山にもけっこうツツジが咲いていました。

誰が植えたというものでもなく、一株づつ点々と咲いているのですが、赤、ピンク、白すべてありました。

 

春の穏やかな太陽光線の下で見る野生のツツジというのは心を豊かにしてくれます。幼いころは、亡くなった母とツツジを見に、よく山に登ったものですが(とても低い山です)、ツツジとともに思い出す母の顔はいつも満面の笑顔でした。

 

東京で見るツツジは植え込みのものしかないですね。色はわたしが田舎で見ていたものと同じですが

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なぜか、花も木も弱々しい感じがします。

田舎で見ていた野生のツツジは花は上の写真のものより小ぶりですが、色がもっと鮮やかで濃く、木全体も生き生きとしていてたくましかった、ように思います。

「野生」と「家畜」の差、というんですかね・・・?

 

今日、歩道の並木で、桜の根元にツツジを植えているのを見ましたが

f:id:hibi333zakkan:20180418033336j:plainいいセンスですよね。

でも田舎育ちのわたしのこだわりは、あくまでも、桜は学校の運動場の周りなど、人の集まるところに植えられているもの、で、ツツジは山に咲いているものなのです(笑)

 

東京では人工的に植えられた花ばかりなので、花を見ても、なかなか「ほんとうに癒される」というところまではいきません。

花を植える人間のやさしさには、ホッとして、花を見ていてやさしい気持ちにはなれるんですけどね。

 

しかし、今のこの国で生きていると、ホッとできるのは一瞬で、生活のほとんどは厳しい現実で占められています。

 

とくに、「人間らしい生活」という観点から見ると、どうなんでしょうかね?みなさん、「人間として」満足すべき、あるいは「納得できる」(住、労働)環境、生活(日常の人間関係・趣味・自己実現的なこと、など)を送れているんでしょうか?

 

わたしは、日本の、とくに庶民階級は「苦しみ」過剰じゃないか?と思っているんですけどね。

 

日本はまだ「経済大国」のようですが、国連発表の「国民の幸福度」では、昨日の「日記」にも書いたとおり、今年(2018年)の世界ランキングで54位です。

 

そしてさらに、今の日本の支配者(政治家・官僚・経団連などの「財」)の皆さんは、経済格差を広げて「階級社会」を目指し、富を支配階級とその周囲だけに集めて、庶民を生活ぎりぎりの奴隷状態にして、「弱者」を「抹殺」しようとしているように見えます。

 

そして、この「日本人庶民奴隷化」政策は成功していて、若者を中心にこの「階級・奴隷」社会に順応していこうという姿勢が大勢となっているようです。

 

そして、自民党を中心とした支配階級はこの体制をより完全な固定化したものにすべく、「人権」「平和主義(平和に暮らす権利)」「民主主義」を廃棄しつつ、民主的憲法の改悪を目指している、といった状況ではないでしょうか?

 

(比喩的な言い方ですが)

自分たちと同じもの(同類のもの)が(役に立たなくなって?)屠殺されている横で、平気で草を食んでいるような状況は、悲しみを通り越して、空しさを感じさせます。

 

それでも、この国で庶民階級が、国を良くしていこう、もっと(みんなが)幸せな生活ができるように国を「チェンジ」して行こう、と思っても、なかなか難しい・・・

 

しかし、このあいだの国会前で見たように、市民としての自覚を持った、人間として一定のレベルに達している人たちも多いんですよ。

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「これから」、どうなるか?

まさに神のみぞ知る。

 

しかし、それを変えることができるのもわたしたち庶民次第なんですよ。

「他人任せ」にしていたらどうなるか?

痛いほどに日本人はそのことを思い知らされているわけですから。

 

「日記」ではないけど、「聖書」の言葉から。。。

旧約「ヨブ記」21(章)からの拾い書き

 

→〔なぜ、神に逆(さか)らう者が生き永(なが)らえ、歳(とし)を重ねてなお、力(ちから)を増し加えるのか〕

 

〔その家は平和で、何の恐れもなく、神の鞭(むち)が彼らに下ることはない〕~〔その子らは踊り跳(は)ね、~ 歌い ~ 楽しむ。

彼らは幸せに人生を送り、安らかに陰府(よみ)に赴(おもむ)く。〕

〔悪人が災いの日を免(まぬか)れ、怒りの日を逃(のが)れている ・・

誰が・・その歩んできた道を暴(あば)き、誰がその仕業(しわざ)を罰(ばっ)するだろうか。

彼は葬式の行列によって運ばれ、その墓には番人(ばんにん)も立ち

谷間(たにま)の土(つち)くれさえ彼には快(こころよ)さそうだ。

人はみな彼の後(あと)に続き、彼の前にも、人は数えきれない。

 

それなのに空(むな)しい言葉で

どのようにわたしを慰(なぐさ)めるつもりか〕

 

・・・旧約聖書中の「ヨブ記」というのは、ヨブという、まったく正しい信仰を持って実行している、「神」のお気に入りの人物を、悪魔が神の許しを得て、その「信仰」を試す、という物語で、

理不尽で悲惨な境遇に陥らされたヨブが発する「問い」の数々は、キリスト教にとっては大きな問題のようです。

 

わたしは無宗教者なんですが、こういった、「信仰を持ちつつ(あるいは正しいことを行いつつ)理不尽な境遇に陥った、ヨブの問いかけ」には心を惹かれます。

 

ただ、「難問」とされているこういった「問いかけ」を「無宗教者」(無神論者ではありません)として考えると、

・・・その「回答」は「歴史」のなかにあると思うんですよね。

 

西洋にしろ東洋にしろ、歴史の中で素晴らしい「思想」が現れ、それを実現しようとする人間の努力の積み重ねがあった。

その結果として、現在生きているわたしたちがいるんじゃあないでしょうか?

 

それは、「理不尽なもの」「残酷なもの」「不公正なもの」「野蛮なもの」などを克服しようとする、人間の「歴史」だったと思うんです。

だから「反動」というのは、「悪」なんですよ。

 

いまの日本国憲法の「前文」にも、そのことは書かれているのではないでしょうか?

 

 

ということで、「絶望」や「虚無感」に陥ることなく、少しでもこの国や社会、わたしたちの人生が良く(まともに)なるよう、自分のやれることをやっていきましょうよ。

「天は自ら助くる者を助く」という格言もありましたっけ ヽ(^-^)