何のために生きている?

と問われれば、もっと幸せな人間社会が見たいから

もーいーくつ寝ると除夜(じょや)の鐘(かね)~

なんて書きましたが、東京に来て以来、除夜の鐘なんて聞いたことはありませんなァ。

 

それでも、鐘のあるお寺の近くでは聞けるようですが、

 

?・・・現代ではその除夜の鐘が社会問題?にもなっているようで、

 

【 地域住民から「除夜の鐘」に抗議・・・世間を覆(おお)う禁止拡大の波。】

 

なんてニュースが。

 

田舎にいたころは毎年、町の中心部にあるお寺から聞こえてくる除夜の鐘を聞きながら家族で年越しソバを食べるのが通例で、

 

低音のその音色に癒されていたわたしにとっては、

ちょっと信じがたい話題ではありました。

 

しかし、

【 檀家が減り、地域住民の寺への思い入れが薄れ、寺院の行事は見直しを迫られている 】

なんて記事を読むと、「なるほどなあ」と、半分は納得できるような気がします。

 

日本社会も、日本人の生活も変わりましたからねえ。

 

わたしも個人的には除夜の鐘が早い時間帯に移動してもそれはそれでいいのではないか?と思っています。

 

ただ、お寺というか仏教界にとっては深刻な問題ではないでしょうか?

 

少し前までは日本人なら仏教徒であるのが当たり前で、死ねば先祖からの宗派のお寺のお坊さんにお経をあげてもらう、というのが普通のように考えられていたのが、

違ってきているわけですから。

 

わたしでさえ仏教の宗教としての力がなくなってきているというか、宗教としての生命力自体が弱っているんじゃないか、

なんて心配しているくらいですから。

 

日本人と仏教の関係を一度見直す時が来ているのではないでしょうか?

 

ということで、このあいだから「行基 鑑真」(吉川弘文館)を読み始めました。

 

多くの日本人にとって意外かもしれませんが、日本では仏教伝来以来ある時まで民衆に対する布教が厳禁されていました。

 

仏教はあくまで天皇と貴族だけのものだったのです。

 

そこでは、僧侶と人民との接触もほぼ禁止に近い制限を受け、僧侶は厳しい監視下に置かれていました。

 

国家が神経質なくらいに僧侶と人民の接触を禁じていた理由はいろいろ考えられるでしょうが、

わたしはそれを、僧侶によって「日本建国にまつわる」あるいは「日本初期の朝廷」の秘密、情報が人民に伝わることを警戒していたからだ、と考えています。

 

この、仏教を支配者階級の宗教とし、厳しい国家管理のもとに置く体制に真っ向から立ち向かったのが行基です。

 

それまで、民衆救済は儒教に拠るとされ、仏教は支配者のものとされていたのを、行基は仏教は民衆を救済するものと位置付けて、公然と禁令(僧尼令)を破り、民衆に布教していったのです。

 

当然、国からは弾圧を受ける。

それは行基集団を取り締まる役所が作られるほど徹底したものだったのですが、行基はひるまず、民衆に深く浸透し、信者を増やし、大規模な社会事業を次々と行っていくわけです。

 

禁令を犯しているにも関わらず、行基が大きな事業を成し遂げていけたのは、「日本発足」の当初から、潜在的にあった二つの路線の対立、

つまり国の統治原理に関する、儒教派と仏教派の対立があったため、ではないでしょうか?

 

儒教派は国の統治原理に仏教を入れることに否定的であり、仏教派は儒教よりも仏教を優先させるという。

 

わたしは、この対立を

 

儒教派 = 天智天皇 - 大友皇子 - 藤原氏

 

仏教派 = 天武・持統天皇 - 聖武天皇 - 孝謙(称徳)天皇

 

の対立、としてとらえているのです。

 

老年までずっと弾圧の対象であった行基聖武天皇の代に一気に僧侶として最高の地位についたこと(初代大僧正)の背景にも聖武天皇が仏教派であったことが大きいと思います。

 

ただ、行基が大僧正になったのは、それだけではない、とわたしは考えている※のですが、この話は次回に。

 

(※ 聖武天皇も当初は行基に対して厳しい姿勢をとっていましたからね。)

 

ともあれ、行基現代日本の仏教界の間に断絶を感じるのはわたしだけでしょうか?

 

なんといっても、日本の仏教は入った当初から大乗仏教です。

 

大乗仏教とは何か?ということを現代の仏教界は今一度振り返って考える必要があるのではないでしょうか?

 

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わたしはどうやら今年も除夜の鐘は聞けそうもないので、「行基 鑑真」の本の中にある

 

大乗菩薩戒のひとつである「摂衆生戒」の略説十一種を大みそかに読みながら、大乗仏教現代日本について思いを巡らせてみたいな、と思っています。

 (難しい言葉や文章は省き、現代的に変えることができる部分は勝手に書き直しましたが、まだムツカシイですねえ。(^^;))      ↓

 

① 衆生の行動にことごとく同調し、その伴侶となる。

和合(人間関係?)や争訟(そうしょう)、財産管理の問題、世間の幸福の問題の相談相手となる。

 

② 人々の苦しみや悩み事の相談相手となる。

  貧者を助け導き、迷っている者には路(みち)を示し、聾者(ろうしゃ)には指で教え(手話?)、足の悪い人は背負ってあげる。

 

③ 衆生のために世間法出世間法を説き、あるいは方便(ほうべん)をもって智慧(ちえ)を得させる。

 

④ 恩を知り恩を報ずる。

 

⑤ 衆生をさまざまな恐怖から救護する。

経済的な困難を解決して、それらの苦悩から離れさせる。

 

⑥ 貧窮困乏【ひんきゅうこんぼう)者に対しては、飲食、湯薬(医療?)、灯明(光熱費?)、車乗(交通)、補助者、財物、舎宅(住居)などのものを必要に応じて給与する。

 

⑦ むさぼりのない心をもって説法をなし、人々が必要なものを供給する。

もし自分がそれらのものを持たないときは、信心深い富者から求めて、これを与える。

(宗教活動から得た)自分の衣食、湯薬、房舎などはともに共有し、決して自分の所蔵とはしない。

 

⑧ 進所行動は自分のためではなく、正しいものに従ってする。

もし安んじないことがあれば、これを遠ざける。

 

⑨ 功徳(くどく)ある人はこれを称揚賛嘆(しょうようさんたん)して悦(よろこ)ぶであろう。  (?)

 

➉ 過(あやま)ちや悪ある者は、慈心(じしん)をもって呵責(かしゃく)し、その罪を折伏(しゃくぶく)して、これを改悟(かいご)せしめる。

 

⑪ 神通力(じんつうりき)をもって地獄を示現し、これを恐怖せしめることによって高慢(こうまん)心を捨てて、正信に至らしめる。

~(略)~

・・・痴者には慧を、というように、一切の行を成就(じょうじゅ)して衆生を利益(りやく)せしめる。

 

 

これは地持経系のもののようですが、菩薩戒にもいろいろあるようです。

 

なんにせよ、仏教が大きな曲がり角(危機?)を迎えている今日(じつは最も大きな曲がり角は明治維新だったわけですが)、日本の仏教界も今一度大乗仏教の基本というべき菩薩戒、菩薩の思想を現代との関わりのなかで見直すべきではないでしょうか?

 

と、

「菩薩」さまに救いを求める衆生の立場から一言(ひとこと)。

 

 

おろかなる 犬吠えており 除夜の鐘    山口青邨

 

おろかなる 男吠えており 除夜の鐘    わたし(^^;)