を読み終えることができました。
他の本との併読ということもあったのですが、そう厚くない文庫本にもかかわらず、約1ヶ月かかってしまいました。
なんせ目の調子が悪い。
「レンズ屋虫めがね」というレンズの専門店さんで買ったこのルーペがなければ、もっとタイヘンだったのではないかと思います。
倍率2倍で開閉もできるスグレモノ。
それが、お店の「経営」大丈夫なの?と余計な心配をしてしまうほどのお値段でした。
重宝してます。
大資本に抗してがんばっている最近のニッポンの個人商店はありがたいところが多いようです。
われわれ貧乏人だけではなく小資本経営も圧迫する消費税は絶対反対!
(国民総体の購買力、消費力を上げましょう!)
全国の小資本経営者、個人商店ガンバレ。
また国会前に行きまっせ(笑)
選挙でも消費税(そのもの)に反対している政党に投票しましょう!ヽ(^-^)ノ
(「ナニこのスローガンの羅列みたいなのは?」 て、?
すいませんねえ、最近フラストレーションが溜っているもんで、やや情緒不安定気味。。?
東京で堂々と大声が出せるのは今のところ国会前の集会だけなので、今度は「消費税」に対する抗議行動、よろしく(笑)
地方の皆さんも、思いっきり大声の出せる「抗議の場」を創出してゆきましょう\(^^)/
何事も「内攻」(「内向」?)ばかりでは心身の健康に良くありませんからねえ。)
ということで、
本を読んだ感想なのですが、
著者の松下圭一さんはナショナルミニマム(→国家が国民に対して保障する生活の最低限度水準)に対して、
シビルミニマム(→都市化する社会において、官治主義の国家ではなく、市民と自治体が協同で最低限必要な生活基準を定める)
を提唱したことで有名な学者さんです。
日本の政治への影響としては、旧社会党の右派といわれた江田三郎さんの系統が基本的にこの考えに沿っています(江田「構造改革」路線)。
「考え」としては非常によく練られていて、
「官治主義」「官僚内閣制」である日本の政治を「市民」主導の政治へと変えていく、
《「国家社会」主義から「市民社会」主義へ》
という主張も、理念としてはまったく納得で、その通りだと思うのですが、
その実現への道となると、そう簡単ではない。
まず、「市民社会」主義とは言うものの、この国にどれほどの「成熟した」市民がいるのか?という問題にぶつかります。
もうひとつは現代世界を席巻(支配?)している「資本主義グローバリズム」。
1%の利益派である国際独占資本が人類の99%を支配・搾取、奴隷化して行っている、という現実があります。
そこでは大衆としての?「市民」の成長どころか、「市民」自体が消されて行きます。
日本などでは、「市民」以前に、貧しい層から順々に「国民」「人民」までが「消され」つつあるように見えます。
(「日本では貧困層は家族も子どもも持てないから、貧困の連鎖はない」BY自民党の国会議員さん?)
この「資本主義グローバリズム」は松下圭一さんが克服の対象としている「国家社会主義」ともむしろ正反対の位置にあるのではないでしょうか?
小泉政権(小泉純一郎元首相)が、言葉としては同じ「構造改革」をもって登場、「ナショナルミニマム」を破壊し、それを「資本家」の利益へと転換していったのは記憶に新しいところです、
というか、今も同じ路線上にあるといっていいのではないでしょうか?
(途中、民主党に政権が移りましたが、管ー野田政権は消費税を増税、「資本主義グローバリズム」の路線をとりました)
かつて、グローバリズムによって失脚させられた東欧のある指導者が
「国が守らなければ誰が国民を守るというのだ」
と言いましたが、これがまさに現代の「課題」ではないでしょうか?
ただ、こういったからと言って、わたしが松下圭一さんの論に否定的だというわけではありません。
「国家社会主義」も、日本のような「国家主義」も、「資本主義グローバリズム」も、“超エリートによる独裁的支配”ということでは共通していて、何よりそれが問題なのだろうと思います。
(わたしはアホな庶民として、この中から一つ選べ、と「強制」されたら、「国家社会主義」を選んじゃいますけどね(笑) ←ファシスト?
(松下さんによれば、旧ソ連や中国、日本の「「新左翼」も含めた既成左翼も「国家社会主義」の一種になるようです) ・・・(^^;))
松下圭一さんの「市民社会」主義はそれ(=超エリート支配)の「克服」ということでは、まったく「正統」な道筋を示していると思います。
この「容易ではない」道への「基礎」として、松下さんやその系統の旧社会党の人たちが「護憲」を主張していることは正鵠を得ていると思います。
日本で国民を守りつつ、市民の成熟を促(うなが)すには、現行日本国憲法の理念を実現して行くことが最も有効だし、今のところそれ以外には方法がないように見えますから。
(でも・・・今はとにかく国=国民を守る(ナショナルミニマム)、ということだと思うんですよね。
日本の資本家、官僚、多くの政治家たちは明らかにそれを破壊しようとしていますから。
だからわたしは今、共産党や山本太郎さん(あるいは共産党や山本太郎さんが入った野党共闘←これが今のベスト)を支持しています。)
それにしても、「政治」関係の本を読むのは疲れます。
現実との乖離に絶望的な気分にもなりますしね。
この松下圭一さんの「ロック『市民政府論』を読む」の中で、わたしの気持ちが最も惹かれたのはこの部分
↓
『自然法とは何かといえば、お互いにオオカミなものですから、俺が食われたくないように俺もお前を食わない、だから仲よくしようという個人相互のルールです。
このルールは『マタイ伝』(新約聖書)の
「されば凡(すべ)て人に為(せ)られんと思うことは人にも亦(また)その如(ごと)くせよ」
という、古来からの「普遍宗教」がもつ《黄金律》ではありませんか。
この《黄金律》が市民社会の理性ないし倫理、したがって《近代》の<自然法>の原型なのです。』
ここで、孔子の
〈おのれの欲せざるところは、人に施(ほどこ)すなかれ〉
という言葉と、
「昔、二人のユダヤ教の大学者がいて、ある人が、ユダヤ教をひと言で説明してほしいと乞うたことがあった。
そのとき、ひとりの学者は、ユダヤ教はひと言で説明できるものではない、と回答を拒否したが、
もうひとりの学者は
「“人からしてもらいたいことを人に為せ”ユダヤ教はそれに尽きる」と解答した。」
という逸話(まさに上記の「マタイ伝」の言葉)。
この二つを思い出して、
「なるほど」
と思った次第。
けっきょくは、そういうことだと思うんですよね。
この国の資本家や政治家や官僚のみなさんも、
「国民に痛みを与えろ、もっとこき使え、締め付けろ、弱者など淘汰してしまえ」
などと言わず、
どうかこの《黄金律》をふまえてわれわれ庶民に対してもらいたいものだと思います。(無理?)