何のために生きている?

と問われれば、もっと幸せな人間社会が見たいから

現代ニッポン「差別」考  其ノ壱

とまあ、

一度こういう題名を付けてみたかったー(笑)

ということで、わたしなりに現代日本の「差別」について考えてみたいと思います。

 

かなり大きなテーマですので、「其ノ弐」「其ノ参」と、断続的に続いていくことになると思います。

 

この「差別」ということについて、今回を起点として取り組もうと思ったのは、

お仲間ブログの『おっさんやじいさんが過激に語り合うブログ』の11月29日の記事を読んだから。

 

ひとりの「庶民」・「弱者」の苦労、悩みのなかには、その人が生きている時代の「差別」が凝縮されている、

と感じたんですよね。

 

あと、わたしはその記事を読んで、差別には「二種類」あることに気づいたんです。

 

ひとつは部落差別や在日朝鮮人差別に見られるような、ひとつの大きな(あるいは権力を握っている)<集団(=支配階級)>からの、ある<集団>に対する身分的、社会的、経済的(職業)差別。

 

そして、もうひとつは「孤立した」あるいは「分断された」個人に対する差別です。

 

『おっさんやじいさんが過激に語り合うブログ』で語られているのは、この「個人」に対する差別の典型例のひとつではないかと思います。

 

じつは現代において深刻なのはこの「分断」され、「孤立」させられた「個人」に対する差別のほうではないか?

 

部落差別や在日朝鮮人差別に対する差別に対しては、その属性にいる人たちの団結が実現していますから、その「運動」によって将来への展望が開けているのではないかと思いますが、

「孤立」した「個人」に対する差別に対しては当人たちにはなすすべがなく、絶望的な状況下にあるのではないでしょうか?

 

その中で、今もっとも「暗黒」の差別にさらされている人々というのは、

分断され孤立した貧しい人々(経済的弱者)と身寄りのない人たちではないかと思われます。

 

そして、それらの人たちを「差別」しているのは、

経済界、政治家、官僚、メディア、そしてそういった支配層に疑問を抱くこともなく従う多数の日本人大衆であって、

その「体制」」から差別され、排除されている人たちにはほとんど「救い」がなく、まさに、「死に至る差別」の真っ只中にいるようなのです。

 

その「差別」の典型例は枚挙にいとまなく、少し前に経済界、自民党・維新の会政治家、官僚、メディアなどによって行われた「生活保護バッシング」は大掛かりにやられた例のひとつであった、といっていいでしょう。

(これは、日本の支配体制が意識的にそういった「差別」を行っていることの明確な証左となりました)

 

その結果、自殺(生活保護受給者など福祉関係の自殺は隠蔽・抹殺されると聞いています)、餓死(栄養の偏りによる死も餓死の一種だと思います)、凍死、悪い生活・住環境による発病、衰弱死が相次ぎ、千葉県では県営住宅の家賃が払えない状態だった母子家庭の母親が、裁判所の執行官によって追い出される直前に、中学生の娘を絞殺したなどという例もありました。

 

ちなみに、その母親は、検察と裁判所による憎悪に満ちた「復讐」とも思える重い刑を受けましたが、その時の千葉県検察のトップは、小沢衆議院議員冤罪事件の指揮をとった特捜部長だったそうです。

小沢衆議院議員といえば、「国民の生活が第一」をスローガンに掲げておられます。

 

その検察幹部は安倍政権でさらに出世したとのこと。

(安倍政権では、生活保護バッシングの片山さつきさんや世耕弘成さんも出世して、安倍内閣の大臣(現職)になっています)

 

ここまで書いてきて、ふと、わたしの背中に冷たいものというか悪寒のようなものが走りました。

そう、「差別」される「個」「個人」というのは、「弱者」の立場に落とされた庶民であって、誰もがそのような「最悪」の差別を受ける立場に落とされてしまう可能性があるのではないか?ということなんですね。

 

ただ、そこからこの問題に入っていくと、恐ろしく広く深いこの国の差別の「海」、構造のなかでおぼれてしまう可能性がある(わたしの能力を越える)恐れが大なので、ここはやはり個別の問題から入っていこうと思います。

 

差別の問題というのはいまのわたしの能力では「総論」で語るのは難しく、「各論」をひとつひとつ積み重ねていくしかないんですね。

 

 

そういうことで、今日は、現代ニッポンにおける、「身寄りのない人」への差別について。

 

いきなりこの人

f:id:hibi333zakkan:20181201175157j:plain どなたでしょう?

 

江戸時代=天保8年(1837年)に

ときの人民の困窮をみかねて、民衆を救う(救民)には、奉行(官)を討ち豪商(財)を焼き討ちしてお灸をすえる以外に方法はない、として「武力蜂起」した大塩平八郎さんですね。

f:id:hibi333zakkan:20181201180015j:plain←「大塩平八郎の乱」を描いた、当時の版画。

 

蜂起にあたって、大塩平八郎は全国の庄屋などに向けて「檄文」を送りましたが、

その「檄文」の冒頭⇒ 《四海困窮致候者永禄永くたへん、小人に国家を治しめば災害並び至と、昔の聖人深く後世、人の君、人の臣たるものを御戒置候故、東照神君も「“鰥寡孤独”において、尤もあはれみを加ふべく候、これ仁政の基」と被仰置候。然るに・・・》

 

=(四海の民が困窮し続ければ永禄(=天禄=天の恵み)が永く絶える、

政治に当たる器ではない小人(しょうにん)に国政をまかせると災害が次々に襲ってくる、

とは、昔の聖人が深く、後世の人の君、臣下たる者にいましめおいたところである。

 

東照神君徳川家康公)も「(世の中でもっとも不利な立場にある)よるべもない“鰥寡(かんか)孤児”などに最もあわれみを加えることが仁政(じんせい)の基(もと)だ」といわれた。然(しか)るに・・・)

 

ここで、“鰥寡孤独”とある、

 

「孤独」とは孤児のこと。

「鰥」(かん)とは、年老いて身寄りのない男やもめのことです。

また、「寡」(か)とはやはり年取って夫のいない女性の事で、今でも「寡婦」などという使い方をしますよね。

 

現代というか明治以降の“財閥官僚資本主義国”ニッポンの体制は、これら社会的にもっとも不利な状況にある人たちをそのまま最底辺として踏みつけ差別し、虐待することで成り立っています。

日本流社会ダーウィニズム=日本流「生存競争」の論理に基づいている、というんですかね。

 

日本の多くの一般民衆の意識にもこの(弱者に対する)「差別」は根付いているようです。

日本人はお上(かみ=財・政・官)による差別をそのまま自分の差別意識として根付かせ、「育て」ますからね。

 

したがってこの国においては「弱者が弱者を差別する」傾向も非常に強いものになり、トップから「末端」に至るまで「差別」の構造が一貫して徹底したものになります。

 

と・・・書いていて、うーん。やはり深い「差別」の海に入り込んでしまうなあ。

日本の支配体制、日本社会、日本人の意識・・・

 

やはり、現代日本の支配体制の問題がいちばん大きいと思うんですけどね。

 

ある意味、日本の歴史は「差別」の歴史ということもいえ、江戸時代の差別もひどいものでしたが、

それでも「最弱者」への配慮については、明治以降現代に至る長州閥&財閥官僚支配体制よりは江戸時代のほうがマシな部分がある?ようです。

 

たとえば、日本の支配体制の特徴ともなっている「保証人制度」「連帯保証人制度」ですが、これも江戸時代にあっては、身寄りのない者などに対して、村の世話人、有力者が「保証人」になるところからはじまったもののようです。

もともとは「弱者救済」の意味から始まったものだったんですね。

(もちろん、それによる「縛り」の面もあったと思います。)

 

それが明治~現代の日本においては、(保証人・連帯保証人制度は)資本家(金融・不動産)の利益と官(お役所)による「縛り」の手段になっています。

 

「保証人」も主にその人の「親族」がターゲットになっているようです。

現代日本の親族、地域コミュ二ティの崩壊に伴って、それを「サラ金」の延長ともいうべき「保証会社」「管理会社(不動産)」などに変えていっているのは『おっさんやじいさんが過激に語り合うブログ』に書かれていたとおりです。

これは「移民時代」に備えたものでもあるでしょう。

 

・・・しかし、日本の「差別」利権・秩序構造は世界を悪くしますねえ)

 

 

 

・・・いやはや、まったくまとまらないというか、

書いていても苦しいんですから、読むほうはもっとタイヘンでしょう・・・

 

日本の「暗黒」面がこれでもかというくらいぞろぞろと出てくる問題なんですから。

「暗黒」面なんて誰も見たくない、目を背けたいですよね。

 

しかし、われわれの直面する「矛盾」「理不尽」「悩み」「苦しみ」の多くがこの「差別」に起因するわけですから、目をそむけてばかりではいけないんですよね。

 

ということで、今回はまとまらないままの尻切れトンボで終わります(ナサケナクモ~笑)

 

いやー、苦しい。辛い。悲しい。。。

でも、続けます。

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負けないぞ!(笑)