何のために生きている?

と問われれば、もっと幸せな人間社会が見たいから

8世紀初頭、「日本建国」に際しての,

「歴史」創作の時を除いて、

日本史上最も歴史の改ざん、隠蔽、抹殺が、行われているのが「明治~現代」のこの時代でしょう。

 

油断もスキもあったもんじゃない(笑)

というのは、少しでも歴史を掘り下げた人なら誰でも感じることだと思います。

 

明治時代、「日本の歴史」を隠蔽、改ざん、抹殺する役目を担ったのが東京帝国大学で、日本統治時代の朝鮮の史書の改ざんをやったのが京都帝国大学なのだそうです。

 

わたしが日本の古代史を調べるときに、朝鮮の史書をあまり重要視しないのはこのことが頭の隅にあるからです。

 

その反面、朝鮮の古墳、古跡から出てくる遺物は非常に重要だと思います。

 

最近、

朝鮮の墳墓から、百済と倭が唐と戦っている頃に倭の大王が唐に捕らえられて、唐に連れて行かれた、というようなことが書かれた墓誌が出土した、

という記事がネットに載っていたらしいので、このあいだからずっと探しているのですが、見つかりません。

 

わたしは倭の大王が唐によって捕われた、というのはかなり可能性の高い話だと思っているので、是非その墓誌だか墓碑銘だかの文章を知りたいのですが・・・。

 

倭の大王が捕われた、ということについて、日本書紀で気になるのが、このブログで前にも触れた「斉明天皇七年」(661年)の「大笠を着た鬼」の記事です。

この年の7月に斉明天皇は朝倉宮で亡くなるのですが、

→ 『八月の甲子(かふし)の朔(一日)に皇太子(ひつぎのみこ=中大兄皇子)、天皇の喪(みも=柩(ひつぎ))を奉徒(うつしまつ)りて、還(かえ)りて磐瀬宮(いはせのみや)に至る。

是(こ)の夕(ゆうへ)に、朝倉山の上に、鬼有りて大笠(おほかさ)を着て喪の儀(よそほひ)を臨(のぞ)み視(み)る。

衆(ひとびと)、皆(みな)磋怪(あやし)ぶ。』

(八月一日に、皇太子(中大兄皇子)は(斉明)天皇の柩(ひつぎ)に付き添って、磐瀬宮に帰り着いた。その夕方、朝倉山の上に大笠を着た鬼が現れて、喪儀を見つめていた。

人々はみな怪しく不思議に思った。)

 

わたしは、この斉明記の終章に出てくる「大笠を着た鬼」というのが、百済から渡ってきた王文度(=のちに藤原鎌足)ではなかったか、と思うのです。

そして、皇太子(=中大兄皇子)は王文度の唐軍によって捕らえられたのではないか?

 

おそらく、このときの中大兄皇子蘇我入鹿です。

(もしかしたら、捕らえられた倭の大王というのは父親の蘇我蝦夷だったかもしれません。)

 

この頃、百済では唐と新羅の連合軍と百済軍の激しい戦闘が行われていた、と、旧・新の「唐書」は書いているのですが、この百済軍というのは、百済と倭の連合軍であったはずです。

百済国内で続いた激しい戦闘に倭軍の存在が無いのは不自然です。)

 

日本書紀」や旧・新の「唐書」では白村江の戦いで倭と百済の軍が敗れた事が倭の決定的な敗因であるとなっていますが、その前からずっと激しい戦闘が行われていて、その結果、百済も倭も滅びたのです。

白村江の戦いについては、今の段階では、あったともなかったともいえません)

 

その結果、百済は亡国、倭は無条件降伏?ということになって、

進駐軍とともにやってきた皇帝=高宗の断によって、倭の次の大王たる蘇我入鹿は処刑された、ということなのだと思います。

 

 倭の大王を殺し、この国の絶対的な支配者となった高宗が、天武・持統時に確立された「日本」の歴史を作るにあたって、「中大兄皇子天智天皇」になりすまされることになったわけです。

 

天智天皇(高宗)の「内大臣」であるカマタリ(熊津(クマナリ)都督=王文度)は内大臣に近いニュアンス(?)の中臣氏の出自ということにしました(=中臣鎌足)。

昔からこの国にいたよ、ということでないとマズイですから(笑)

したがって、カマタリ氏(=王文度)の系統は藤原氏になりましたけど、中臣氏が藤原氏に変わったわけではないわけで、旧来の中臣氏が繁栄したということではないんですね(笑)

 

現在の「歴史」の「常識」?からすると、荒唐無稽の説のように思われるかも知れませんが、案外かなりの部分が当たっているんじゃないか?とわたしは思っています。

少なくとも、いま公で語られている「歴史」よりは矛盾点が少ない、というか、中国の歴史書などに照らし合わせても整合性があるんじゃないかと。

 

ちなみに、この「大笠を着た鬼」のいた朝倉山は九州北部の山だと考えています。

 

ここで、天智天皇こと、高宗のことなんですけど、

わたしはこれまで高宗は唐に帰ったのだと思っていました。

王文度(中臣鎌足藤原鎌足)が暗殺されたことで、「もはやこれまで」、

この国にいることは危険と判断して、迎えの船に乗って帰ったのだと。

 

古い言い伝えに、天智天皇は馬に乗ってどことも知れず走り去ったという話があります。

おつきの人が後を追ったのですが追いつけず、後(あと)には天智天皇の靴だけが残された。

そのまま天智天皇は帰ってこなかったので、天智天皇の墓には、靴だけが納められている、というものです。

天智天皇の墓は靴墓と呼ばれています)

 

しかし、唐でその後も続いた武照皇后による「垂簾の政」(大人の皇帝に垂簾の政はないでしょう。唐にいた高宗は明らかに、実権のない影武者です。)、天智天皇の「最後の年」に来て比知島(巨済島南西の比珍島といわれる)に停泊していた唐の大船団(郭務悰の率いる47隻2千人の船団)のふるまい(日本書紀)、などを見ると、どうも、高宗が唐に帰ったとは考えにくいんですよねえ・・・???

 

 武照皇后が皇帝になるとき、

 武照皇后のパートナーといってもいい存在だった李勣の孫の李敬業が反乱の兵を挙げます。

そのとき、檄文を各州県に送付するのですが、その檄文の概略が11世紀に書かれた歴史書資治通鑑」に載せられています。

 

その檄文の中には

『君(高宗)を弑(しい)し』

と、武皇后が高宗を殺したということが、当たり前のように書かれているのです。

 

この檄文はなかなか穿っていて、

他にわたしが気になった部分としては

 

『先帝(太宗)との私事(秘密の行為)を隠匿(いんとく)し、~ わが君(高宗)を禽獣(きんじゅう)の醜行(しゅうこう→父と子が同じ女性と交わること)に陥れた』

 

というのもあります。

当時「太宗は武照に手をつけなかった」とされていた(のちの正史の歴史書でもそうなっている)ことが違っていることを暴露しています。

 

わたしはBIGちゃんねるの「日本史スレ」に、持統天皇は太宗の子どもである可能性もある、と投稿していたのですが、それはこの檄文を読む前だったので、思わずニヤリとしてしまいました(笑)

 

ともあれ、唐の影武者が殺されたかどうかは別として、この国にいた高宗(天智天皇)は暗殺された可能性が高いのではないか?

と、わたしは考えています。

 

 

・・・しかし、こう書いていても、ドロドロ不条理なものを感じるばかりですっきりしませんねえ・・・

たぶん、ほんとうの歴史というのはそういうものなんでしょう。

 

ただ、権力内部ではいろいろあったとしても、武照皇后(即位後は「聖神皇帝」。最初の元号は「天授」)の政治は庶民にとっては善政でした。

 

(武照皇帝の「酷吏」(=こくり→ムゴイお役人)は有名ですが、この「酷吏」は権力内部を取り締まったもので、庶民を取り締まるものではありませんでした。

この点、日本の「酷吏」=官僚・公務員さんとは正反対ですね(^^;)

財・政・官・メディアみんな仲良くして庶民をやっつけましょう、弱者虐待しましょうというようないまのニッポンの状況はイヤです(笑))

 

武照皇后が皇帝になったのと同じ年に日本で天皇に即位した持統天皇も唐の制度、思想を取り入れて先進的な改革を行いました。

 

「人民にとっていい政治をしてくれた権力者がいい権力者」という観点からすれば、武照皇帝も持統天皇も、どちらかといえばいい権力者だったと、わたしは評価しています。

 

なんだか、だらだらと長くなりました。

次回はもっと整理して読みやすいものにしなければ、と反省しています。