何のために生きている?

と問われれば、もっと幸せな人間社会が見たいから

いやあ、この頃なんだか身の回りがごたごた

していて、なかなか記事が書けないでいます。

 

実は、わたしがここで述べようとしている「歴史」は、「BIGちゃんねる」という掲示板の「学問 - 日本史」スレに、わたしとお仲間が書き込んでいたもののダイジェストに近いものなのです。

 

まだその掲示板は見れるようなので、わたしの記述が遅れている間、そちらのほうを読んでいただけたら、と思います。

 

「倭」を滅亡させ、この国を、武照皇后体制で唐帝国に居られなくなった自分?と長男のための新帝国にしようとした唐の皇帝=高宗。(長男は元皇太子の李忠)

 

後に書かれたこの国の「歴史」では、高宗が天智天皇に、李忠が大友皇子になりすまされてしまうわけですが、

その高宗ー大友皇子による帝国の夢が、武照皇后の長女である「持統天皇」と、近畿地方から山陰にかけての大王であったオオアマ(天武天皇=先祖は新羅から渡ってきた鮮卑族につながる王族)によってひっくり返され、天武ー持統体制でこの国は「日本」と国号を改め、唐の武照皇后が理想とした「仏教国家」を目指すわけです。

 

その天武ー持統体制の最後の天皇孝謙称徳天皇だったわけですが、その死とともに起こされた藤原氏のクーデターによって、天武、持統の血統は一掃され、再び天智天皇(高宗)系の天皇の体制になり、この「天智系」の系譜が現代まで続くことになります。

藤原鎌足が何者であるかは、過去のこのブログでも触れています)

 

そこまでのことが、「BIGちゃんねる」の「学問ー日本史」スレに書かれています。

今でも、それほど大きな修正の必要は感じていないので、「フーン」と言う感じで、軽く読んでいただけたらいいな、と思います(^^;)

 

このブログでも、新たな内容を付け加えつつ、ダイジェストというか、話の筋を追いつつ(掲示板を読んでもらえるかどうかわからないので(笑))

その、

天智天皇=高宗、大友皇子=唐の元皇太子=李忠、持統天皇=高宗と(太宗の後宮にいた)武照の間に(太宗在位中(645年)に)できた長女(形式上は不義密通?の子供)、そして天照大神=武照皇后』説

を進めていきたいと思っています。

 

ただ、そこでほとんど語られていないのが「明治維新」の問題です。

こちらも、「日本」建国と同じくらいの大事件で、ある意味これで「日本」が「日本」ではなくなった、という見方もできるくらいなのですが・・・

これもいずれ、本格的に取り組んでいくつもりですが、今日はほんのさわりのようなものをを一つ二つ。

 

わたしは「明治維新」は「元祖グローバリズム」といいますか、東インド会社に乗っかった欧米資本主義国列強による開国要求によるものであり、これは必然、というか、(体制の変革は)行われるべくして行われたものだ、とは思っています。

(「開国」要求のペリー艦隊は東インド会社の所属です。)

 

もし、徳川幕府が続いていたとしても、明治維新のようなブルジョア革命は(形は違え)行われていたのではないでしょうか?

(このとき、徳川幕府の後ろにフランス、薩長の後ろにイギリスがいた、というのは有名な話です)

 

まあ、この話も、(戦後との関係も含めて)おいおいやっていくとして、きょう触れておきたいのが孝明天皇

f:id:hibi333zakkan:20181026214252j:plain 暗殺。について。

 

幕末における「尊王攘夷」の「尊王」とは孝明天皇のことなんですよね。

 

明治以降、意図的にイメージが変えられたのかどうかわかりませんが、案外そのことが忘れられていて、いまでは幕末の尊王明治天皇であるかのようなイメージをいだいている人が多いようです。

 

尊王攘夷」運動に見られるように。孝明天皇東インド会社を中心とした欧米資本主義国列強に対する全面的開国に危惧あるいは懸念を抱いていたことは事実だと思います。

 

孝明天皇は非常に優れたというか、英明な天皇だった、と言われています。

 

当時の幕府もそうですが、皇室も天皇もバカじゃありません。

海外の情勢も、資本主義列強の性格、本性もよくわかっていたと思います。

 

その上で、孝明天皇は「開国」に懸念を抱いていたわけです。

おそらく、欧米列強の言うなりになれば、国が危うい、あるいは国が無くなる(植民地支配も含めて)恐れがあると考えていたのではないでしょうか?

 

そうでないと、インドを植民地支配していた東インド会社、プラス欧米列強国といった、当時(から)の世界支配勢力に対して、抵抗の意志を見せるはずはないと思います。

 

幕末時、日本の精神的中心はすでに天皇孝明天皇に移っていました。将軍も天皇に対して従う意志を持っていたというか、臣下としての立場を明らかにしていました。

 

この天皇の存在は欧米列強にとっては手ごわい存在と思えたでしょう。

この先の交渉などでも邪魔になってくる・・・

 

ということで、王様処刑の歴史を持つ欧米資本主義(ブルジョア)列強と薩長による、「孝明天皇暗殺」計画が作成された、と、わたしは考えているわけです ヽ(^皿^)

 

かなり以前(10年以上前?)、わたしは、今は無くなってしまった掲示板に、「孝明天皇暗殺の真実」を投稿していたことがありました。

 

その内容は

孝明天皇はお手洗いに行った際、縁の下に隠れていた暗殺者によって刺されて死んだ』

というもので、その根拠となる資料は、歴史家・歴史小説家の村雨退二郎さんの随筆と、もうひとつ別の文献(名前は忘れました)で、孝明天皇の側近として仕えていた人の目撃証言と、死亡の際よばれた医師の証言によるものだったと思います。

そのとき、孝明天皇は激しく出血。廊下を血だらけにしながら自分の寝室に帰り、そこで息絶えたといいます。

医師がその刺傷痕を見て驚いていると、次の部屋との間の襖がスッと引かれて女官が顔を出し、ニヤリと笑ったとか・・・。

 

このときの投稿のテーマは、“暗殺者は消されるのか?それとも権力者への道を歩むのか?”ということで、

その、天皇の暗殺者が日本の初代首相になったのではないか?、というものでした。

 

初代首相、それはいうまでもなく伊藤博文です。

伊藤博文はもともと「利助」という優秀な忍者で、暗殺の技術も抜群でした。

 

わたしは、当時の長州には相当数の忍者がいたと考えていて、それが情報戦で幕府を上回ることのできた要因だと考えています。

その忍者は関ヶ原の戦いで破れた勢力に属していた人たちで、「利助」の系譜は真田忍者の流れではないか?と推測しました。(詳しくはまた・・・)

 

ともあれ、御所のトイレ近くの縁の下に潜んでいて、手を洗おうとした孝明天皇を刺したのが伊藤博文(このときは伊藤俊輔)だということで、

根拠となる資料は上記のものなどに加えて、

「自分は孝明天皇の仇も討ったのだ」と裁判で叫んだ、伊藤博文暗殺犯(?と言われている)安重根に関するエピソード、等、でした。

徳川幕府支持のアンチ明治政府だった(併合前の)朝鮮では、孝明天皇暗殺に関する情報が語られていたのではないでしょうか?

 

この話はそれっきりになっていたのですが、このあいだたまたま手にとって見た本に、それとほぼ同じ「孝明天皇刺殺説」が書かれてあって驚きました。

犯人も暗殺時の状況もほぼ同じでしたが、その話のルーツは将軍から孝明天皇暗殺の調査を命じられた幕臣、ということでした。

その幕臣も襲撃されて暗殺されかかったということですから、恐ろしい話です。

 

ただ一点、この本の著者さんの推測として、暗殺に使われた凶器は(今も残っていて人を斬った脂の残る)伊藤俊輔の忍者刀ではないか?ということでしたが、

これは、わたしが見た資料によって掲示板に書き込んだとおり、「手槍」(てやり)(=短い槍)、でしょう。

 

伊藤俊輔は手槍の使い手でもありました。

縁の下から突き刺すには、忍者刀は不向きです。また、そんなものを持っていれば逃走の際、不便です。

その点、手槍だと、急所を深く刺すことができますし、長さの調節ができて、帰りには分解して隠すこともできますから。

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ともあれ、この事件の調査をした幕臣の証言が残っていたと言うのは驚きでした。

(・・・ということは、徳川慶喜はそのことを知っていた?

徳川慶喜という人もたいへんなタヌキだったのかもしれませんねえ・・・

                              ヽ(°○°)ノ)

 

こうしてみると、明治以降の日本の支配層には天皇への尊敬など無かった。

天皇を絶対化したのは、自分たちの権力・利権、支配体制を絶対化して国民を押さえつけるためだった、ということがよくわかるんじゃないでしょうか?

 

(明治維新については、明治6年の「政変」以降の反動の過程(裏切られた革命?)も、しっかりと見ていかなくてはいけない、と思います)

 

その薩長官僚支配体制が今も続いている、ということなんでしょう。(いまの世の中を見れば・・・明治以降は天皇もお仲間???とりわけ、昭和天皇薩長天皇といっていい存在ではなかったでしょうか?)

 

ともあれ、とても面白い本だったのですが、(その部分の話の内容に釘付けになって??)本の題名も著者も忘れてしまいました!

著者はかなり有名な人だったように思いますので、この本を読んだ方も多いんじゃないかな?とは思うのですが・・・

 

長くなりました、          また。