が、世界や日本の“悲惨”の原因となった、あるいは、なっている、ことは間違いないことだと思います。
しかし、「虚偽」の全く無い「歴史」が可能なのかどうか?
これは難しい問題だと思います。
たとえば、勝海舟は歴史の研究家としても、なかなかのものでしたが、明治「維新」後、「国」によって「歴史」が次々に書き換えられていくのを目にして、
「(その歴史の当事者でもあった)オレたちがまだ生きているのに・・・」
と、呆れ、
「歴史とは難しいものだ」
と、「歴史家」としての感慨をしみじみ語っています。
まあ、時の支配者層による「歴史の書き換え」は不可抗力としても、
われわれ庶民層においてさえ、「有力者」や「住民の大勢」の思惑によって事実が曲げられ、それがそのまま通用して伝えられていくということは、よくあることではないでしょうか?
また、そんな「作為」がなくても、「伝言ゲーム」でもよくわかるように、人々が口から口へと伝え合っているうちに「事実」とは全く違ったものが「事実」となってしまい、それが「歴史上の事実」として残っていく場合もあるかもしれません。
こうなると、もう、「歴史とはなんだー!」と言って目の前の「歴史書」を空中に放り投げたい気持ちになってきますが、
それでも、わたしの、あるいはわれわれ人間のアイデンティティの問題として「歴史」の探求はやめられない。
「歴史」は人間が人間としてある上で、必要不可欠なものなんですよね。
けっきょく、われわれにできることといえば、資料の発掘などを通じて、なるべく「事実」に近いものを探り出していこうとする、「事実」「真実」に対する誠実な姿勢を持つこと(科学的手法?)と、
しっかりした「歴史観」と「哲学」によって、「歴史」を「人間的真実」の面から分析、判断していくこと、でしょうかね?
そういう意味では、「資本主義」の「歴史」の「事実」「真実」を容赦ないほどの「誠実」さ、正確さで明らかにしていったマルクスは、最高の歴史家と言っていいでしょう。
人類史上有数の歴史家ですよ。
しかし、マルクスといえども神ならぬ人間。
しかも、19世紀の人間です。
今では、多くの「修正」「補完」が必要とされるでしょう。
わたしなんかも、学生時代に「マルクス主義者」たらんとした時期があるのですが、
権威を持って教えられたことは、なんでもまるまる覚えこみ、受け入れることのできる秀才系のアタマを持つことのできなかった、劣等生系のわたしには、どうしても理解することのできないことがありました。
たとえば、「プロレタリア独裁」という言葉。
「独裁?えーっ?独裁ってダメじゃん」
ということで、当時行った、ある新左翼系の講演会で、講演者の「マルクス主義の理論家」の人に
「プロレタリア独裁って何ですか?王様やヒトラーの独裁とどう違うんですか?」
と聞いたことがありました。
講演者の人は、(なんでこんなバカがここにいるんだ?)と思ったことでしょうが、やさしく、「プロレタリア独裁とはね、特定の個人の独裁ではなく、プロレタリア総体の独裁のことを言うんだよ」
と教えてくれました。
「ああ、そうですか」
と、そのときは「納得」したのですが、後でよく考えると、
「プロレタリア(階級)総体の独裁?それって独裁というの?・・・独裁??は?」
この疑問は今でも消えていません。※
だいたい、わたしは「プロレタリア」とは何か?
それもよくわかっていませんでした、(これも、今なおわかりません・・・)
「プロレタリア」とは何か?どんな人たちをいうのか?
たとえば、マルクスの初期の著作である「ヘーゲル法哲学批判序説」には、こう書かれています。
→『(~ (資本家&国によって)ラディカル(根源的)な鎖(くさり)につながれた階級 ~
~ 普遍的な苦痛のために普遍的な性格をそなえた階層 ~
自らにうけた不正が、特殊な不正ではなく、不正そのものであるために、いかなる特殊な権利も請求できない階層である。
歴史的な資格に訴えることができず、もはや人間としての資格に訴えるしかない階層である。
すなわち社会の自分以外のすべての階層から自己を開放し、それによってこれらのすべての階層を開放しなければみずからを解放することのできない階層である。
要するに、人間性を完全に喪失(そうしつ)しているために、自己を獲得するためには、人間性を完全に“再獲得”しなければならない階層 ~
このように一つの特定の(抑圧された?)身分として社会を解体する階層こそが、プロレタリアートである』(訳文引用:光文社版)
もちろん、これは19世紀ヨーロッパ(ドイツ)の社会状況を背景にした分析なわけで、
では、21世紀における「プロレタリアート」とは何か?
ということは、マルクスの「原則」を考慮しつつ、21世紀に生きるわれわれが新たに分析していかなければならない問題でしょう。
ただ、(プロレタリアを階層としてとらえた)マルクスの記述のこの部分は、わかりやすいのですが、
後に書かれた「共産党宣言」を読むと、やや「プロレタリア」のイメージが違ってくるんですよねー。(わたしだけかな?)
「共産党宣言」は「共産主義革命」のマニフェストとして、「共産主義」に対する偏見、誤解などに対する明確な回答というか反論などがあるキレキレの内容で、そういったところは好きなのですが、
どうも「ヘーゲル~」におけるより「プロレタリア」の概念が少し狭まっているような気がするのです。
翻訳の問題もあるのかどうかわからないけど(原文を読んだことがないもので・・・)、
こちらでは「労働者階級」というものが強調される。
実際に企業、工場などで資本家に使われている「労働者」が「プロレタリアート」として、「革命」の主体となる。
と書かれているようにわたしには思われるんですよねえ。
実際、そうなんでしょうが、ここで「ルンペンプロレタリアート」なるものが出てきます。
たぶん、「労働者階級」からの「落ちこぼれ」ということで、「労働者階級」のプロレタリアートとは区別され、またその存在のあり方が「否定」というか「批判」されていることで「差別」もされているわけですが、
「ちょっとちょっと、プロレタリアート内部で「差別」してどうするんだ?」
というのが、率直なわたしの感想でした。
このあたり、どうも、マルクスが
(当時のマルクス主義の運動なるものに対して)
『あんなものをマルクス主義というならわたしはマルクス主義者ではない』
と言った、その「マルクス主義の運動なるもの」に妥協した、あるいは「影響された」ものではないかな?
と思えるんです。
この「プロレタリアート内」の「差別」もわたしが今なお納得できていない問題なのです。
その他、「マルクス主義」についていくつかの「疑問」を感じつつも、やはり、貧乏人のわたしとしては「資本主義」よりも「社会主義」のほうがいい(笑)
ソ連が潰れて、いまや全地球が資本主義一色。
そこで資本家がその本性をむき出しているいま、わたしのような貧乏人は当然として、99%の人類は「プロレタリアート」といっていい状態なんじゃないか?
と思うんですけどね。
前回触れた宇野弘蔵さんなんかも、「より高い立場から」
『~ 社会主義の主張は大体正しいと思っていたのは本当だ。
それは人間が自分でつくったものに支配される社会からの開放を求めるというのですから、人間として当然の望みでしょう』
と語っておられますが、
幕末、明治以降の日本の「資本主義(これには当然、「世界」との関係も含まれるでしょう)」の歴史をマルクスなみの誠実さと調査力・分析力でぶち抜いて、現代の日本の政治、体制の正体を明らかにして、社会主義の再興と実現を確固としたものにできるような「歴史家」が現われないものでしょうか?
そんな、日本の社会主義の「再興」を心より願っております。
・・・ともあれ、わたしは、何か役に立ちそうな?「事実」「真実」を求めて、「歴史」の中から落穂ひろい(笑)
『~(プロレタリア階級が)革命によって支配階級となり、支配階級として強力的に古い生産関係(=資本主義的生産関係)を廃止するならば、この生産諸関係の廃止とともに、プロレタリア階級は、~ 階級としての自分自身の支配を廃止する』
とありまして、「プロレタリア独裁」とは、資本主義的生産関係を共産主義的なものに変えるための、一時的な独裁のことだ、と書いてあるわけですが、
それでも、その場合にでも「独裁」には抵抗がありますねー。
また、その「プロレタリア独裁(?)」が解消された後の社会はどうあるべきなのか?どうなるのか?
これもはっきりとはわからない、というか、「理想」が示されていないのです。
「理想」などという観念的なもの自体がナンセンスだ、ということなんでしょうか?
「共産党宣言」には、「資本主義的生産関係」を「変革(革命)」するための指針のような「諸方策」が「10項目」上げられていますが、これを見ても、正直、明るく幸せな世の中は見えてきません(^^;)
しかし、19世紀資本主義社会という、庶民にとって地獄のような労働環境、社会情勢からすれば、それらの10項目の政策(「共産党宣言」(岩波版)P68~P69参照)が実現されれば、「地獄からの開放」にはなったと思います。
現代社会では、その多くが修正を余儀なくされると思いますが。
ただ、項目の①の「土地の国有(国民共有)化」は、いま現在の資本主義国日本においても、早急にやるべきことのように思いますね。
「所有権」を「使用権」に変えるとかして。
「空き家」や「国民の住環境」の問題その他もろもろ、国の存亡に関わる喫緊の課題だと思うんですが・・・