何のために生きている?

と問われれば、もっと幸せな人間社会が見たいから

人が宗教や占いにはまるのは不運なとき、

というのが相場ですが、このところ宗教や占いにのめりこみ過ぎているわたしも、たしかに不運というか、調子の良くない状況が続いています。

 

いまは前回のブログで触れた「宿曜占星術」なるものに、プチはまっています(笑)

 

麻原彰晃氏の「星回り?」に少し驚かされましたもんね。

あれで見ると、上川陽子氏が法相になった時点で、麻原氏の運命は極まった、ということだったんだなあ、と、それなりに納得がいきます。

 

ただ、師 - 弟子 - 妻が「壊」だったからといって、それが即「凶」ということではないんですね。

この場合、まったく人間的な交流のなかった「法相」と違って、

師・弟子・妻にとっては麻原氏は「安」。つまり安心してお付き合いのできる良い相性の人で、これを「安」-「壊」の関係というそうです。

 

この宿曜占星術の面白いのは、「相性」ということを考えたとき、「双方にとって良い」「双方にとって悪い」というのではなく「片方にとっては良くないかも知れないが、もう片方にとってはその人は良い相性」ということをいっているところです。

(「相性の悪い相手だから夫婦になる。相性が良い同士の結婚はむしろ珍しい」というのは、奥が深いですねえ・・・)

 

だから、「安」-「壊」の関係で言えば、「安」に対して「壊」の人は、「折れる」あるいは「従」えばいいわけです。

(自分にとって「壊」の人は、その人にとっては(こちらは)「安」になるそうです)

 

そこから見ると、麻原氏にとって「師」であるダライラマ十四世との関係は問題なく、「壊」である妻との関係も、「安」である自分(麻原氏)が「折れれば」、うまくいくわけです。

 

ただ、「弟子」である井上氏との関係は、やや難しいものがあったと思いますね。

それでも長年うまくいって、双方にプラスであったように見えるはの、おそらく麻原氏が弟子に対して一歩譲るとか、持ち上げてあげる、という努力をしていたからではないでしょうか?

 

最後の最後で、井上氏の麻原氏に対する「運の力の強さ=優位」が出て、その関係のバランスが崩れた、ということだったのかもしれません。

 

特大級の「不運」は「(不運を)みんなまとめた」かのように襲って来ますからねえ。

 

わたしにもこれまでの人生で一度だけ(何度もあっちゃたまらない)そんな「特大級不運」のときがありました・・・、

 

わずか2ヶ月くらいの間の出来事だったのですが、

可愛がっていた外ネコ(いちおうわたしの飼い猫。性格のいいオスでした)が何者かに切り刻まれるような死に方をしたのを皮切りに、住居トラブルで次の住居も決まらないまま住居を出ることになり(ビジネスホテルなどを転々)、そんな半ホームレス状態のときに母と二人の兄が亡くなり、仕事上の事で警察に引っぱられました(しばしの留置場暮らしで、兄二人の葬儀には出席できませんでした)。

 

当時、身体だけは頑健そのもので、命は亡くしませんでしたが、精神的には打ちのめされ、

一生に一度(?死ぬのを不運というなら、一生に二度かな?)の、まったく身動きのできない、なすすべもない、特大級不運のオソロシサは骨の髄まで沁みました。

 

そのころのわたしは生活が乱れ気味で、行いも感心できるものではなかったので、それが「超不運」を招き寄せたのかな?とも思いますが、

じつは、若い頃、ひやかし感覚で街頭の占い師さん(30歳代くらいの女性)に運勢を見てもらったとき、「その年代」での「大破滅」を指摘されていました。

 

そのとき、その占い師さんは「ハッ」という顔をして、暗い表情でそのことを言ったのですが、「破滅」があるということを指摘しただけで、それを防ぐにはどうすればよいか?などのアドバイスは無し、というか

「避けえぬ運命」というという感じだったんですけど、それじゃあ、占いが当たってもどうにもならない(悲)

 

その不運がやってきて、しばらくたったあとでその「占い」を思い出したのですが、なるほど、当たる「占い」というのもあるんだな、と思いました。

 

そういうことがあるから、

インチキ、詐欺師の「占い師」というのも出てくるんですね。

高額な占い料を要求したり、高価な「災難よけ」グッズを買わせようとするような人は要注意だと思います。

わたしが「たしかに中(あた)った」と実感した唯一の占い師さんであるその女性の「見料」は3000円ポッキリでした。

 

それにしても、「解脱者」「超能力者」といわれていた麻原彰晃氏でさえ?避けることのできなかった「不運」、「運命」とは恐ろしいものです。

 

「どうすりゃいいの?」

って話し。

で、そこに(麻原氏を尻目に?)「宗教」がやってくるんですよねえ(笑)

 

人の不運と宗教は表裏一体のようにも見えます。

 

不運に対する考え方、対処のしかたにはそれぞれの宗教によって違いがあると思いますが、

この「不運」の問題を教義の中心にすえて、「宿命転換」ということを言っている宗派が日本にはあるようで、創価学会顕正会といった日蓮正宗系の「教団」はとくにそのことを強調しているように思います。

 

この「不運からの脱却」「宿命転換?」という「教義?」を教団の中心に据えることは、教団の拡大には大きな力となり、実際、創価学会顕正会などの「宿命転換」をいう教団は勢いもあり、結束も強いようです。

 

ただ、「宿命転換」とはいうものの、それは「タイヘンなこと」だと思うんですけどねえ(外部の者がこんなこと言うと怒られるかな?(笑))

「特大不運にやられた」経験のあるわたしには、なかなか理解し難いというか、承服し難い(笑)話しではあります。

 

それでも、「宿命転換」というか、それに限らず、「宗教」を信じることによって救われた、という人が多いのも事実です。

だから、わたしは「宗教」を一方的に悪者とする考え方には同調しません。

 

わたしの亡くなった父は生前

「自分は無神論無宗教だが(先祖からの宗教を慣習的に継承しているだけ)、宗教を信じている人を悪くは言わない。宗教というのはどこの宗教でも良いことを言って、良いことをしようとしているのだから、尊敬しなくてはいけないんだ」

とわたしに話したことがありますが、

わたしも基本的に父の路線を継承しています(父の話とは関係なく、わたしの考えで)。

 

ただ、戦争の時代を経験した父は生活でも仕事でも、残酷、冷酷というか、厳しい現実を多く体験したために「無神論」になったようですが、わたしは「無宗教」ではあるけれど、「無神論」ではありません。

 

ともあれ、「宿命転換」ということについて、これまでのわたしの人生経験上、「運命」「宿命」は確かに変えることができる、と考えます。

ただ、それは、「お題目をあげる」ということだけではなく、「環境」を変えることによって(「も」と付け加えておきましょう(汗))

 

人間の運命というのは周囲の環境、社会制度、政治などによって大きな影響を受けているわけで、それが変わることによってわたしたち一人ひとりの運命も大きく変わって行くからです。

 

たとえば、もし、資本主義から、共産主義へと政治体制が変わったらどうでしょうか?

私たちの運命、宿命も劇的に変わる、と思いませんか?

そこまで行かなくても、ちょっとした政策の違い=内閣の交代、あるいは政権の交代によってもわたしたちの運命には微妙な違いが生じるでしょう。

 

「環境」に働きかけ、「環境」を変えることによって、わたしたちは「自分の運命」を変えることができる。

いままで「不運」と思っていたものが、じつは「環境」によるものだった。

 

このことを、もっと、わたしたちは考えなくてはいけないと思います。

「ただ、お上の方針で流されているだけでは、不運な人はずっとそのまま」である可能性が強いということです。

そして、それ(大きなものにツブサレルこと)を「運のオソロシサ」と思い込んでいるんですね。

 

現状維持で「不運脱却」「宿命転換」を主張されている宗教団体さんは、「集団の力」でこの社会を乗り越えようとしているようにも見えるのですが、これもまた

そのことによって周囲の)「環境を変えている」ということではないでしょうか?

もちろん、「信仰」ということも大事でしょうが。

 

またまた、とりとめもなく長くなってしまいました。

ともあれ、「宗教」にしろ「占い」にしろ、インチキ詐欺師にはくれぐれもご用心、ということで。

不運なときは、悪いことや悪人も寄って来るんですよ。

ちょっとしたことで「妄信」に陥らないよう、くれぐれも注意してください。

では

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占いは「あたるも八卦あたらぬも八卦」、宗教は「助かることもあれば助からないこともある」

ということで