何のために生きている?

と問われれば、もっと幸せな人間社会が見たいから

今回のオウム真理教の開祖と幹部、13人の処刑

は日本人の「宗教観」「国家観」を鋭く問うものになりましたが、

 

わたしにおいては、それ以前というか、

「日本人とは何か?」という疑問が濃霧のように思考を覆ってしまって、有効な考えひとつ見出せないまま、空回りする歯車状態。

 

確かにあるのは「不吉な思い」と「不安感」だけ。

ちょっとやばい状態に陥らされています。

 

「日本人とは何か?」と問うたとき、今のわたしの頭に浮かぶのは、具体的な言葉ではなく、「強い日光に照らされた雪」というイメージなんですよね。

あるいは「地上に積もった真夏の雪」

 

やがて「蒸発」するか「溶けて」無くなる運命。

 

今回の事で、わたしには「政権=政府」も「国会議員」も「官僚」(←司法・立法・行政)も「財界人」も「マスコミ人」も、つまり、私たちを「支配」しているものが、わたしのイメージしていた日本人とはまったく「違うもの」だということがはっきりと認識できました。

 

まあ、わたしら庶民がどうすることもできないことですが。

カネと権力と虚栄、私利私欲のエゴイズムによってわれわれは滅んで行くわけですよ。

 

これが、近代・現代の日本人が自ずから選んだ「形態」であるとするならば、それも仕方の無いこと、なんでしょう。

べつにどこの国が悪いとか、そういう問題じゃないと思いますよ。

 

支配層は自分たちだけは生き残ろうと必死なんでしょうけど。

 

庶民も私利私欲、エゴイズムの塊ですからね。

歯止めはないですわ(笑)

 

濃霧に加えて日も落ちて(夕方から夜へ?)真っ暗け。

やがては帰る家もなくなるんでしょうか?

 

オウム真理教かあ・・・

欠陥だらけだったからこうなった、ということもあるんでしょうが、

(組織論、運動論。100%宗教で政治改革を目指したところにすでに無理があったというべきでしょう。「自分たちがやる」というより、「(政治に)大きな影響を与える」ことを目指すべきだった、とわたしは思います)

 

それでも、麻原彰晃氏が「資本主義でも社会主義でもない宗教による国家」を目指す、とあえて言い切ったところは、(大きな意味での)現実無視のきらいはあるといえ、立派な根源的問題提起だったと思いますよ。

 

資本主義も社会主義も人間を幸福にする、している、とはいえないですからね。

 

彼らはおそらく「仏教国家」を目指していたのでしょうが、現代の知識に基づいて、キリスト教の要素も大きく取り入れようとしていたように思えます。

 

それにしても、そういう人たちに対する、限りなく冤罪に近い(陥れられた?)13人の処刑。

よくこんなことができるものです。

われわれから見れば、まさにキ○ガイの所業としか思えません。

 

(いまの安倍首相、上川法相をはじめとした政権関係者=閣僚・官僚(同類の人たち)はみんなサイコパス(精神病質者)やソシオパス(社会病質者)だといわれていますよね。

←カネ、権力、利権、虚栄の世界に生きるには適したパーソナリティ?)

 

せめて庶民の中にひとりでも多く「正気」の人たちが存在するよう祈るばかりです。

 

・・・「仏教国家」といえば、天武天皇持統天皇聖武天皇称徳天皇たちが目指した体制で、その方針の大本にあったのは唐の武后の方針です。

f:id:hibi333zakkan:20180730033520j:plainこの人がたぶんそうですね(武后)

唐では太宗が「仏教に基づく国家は失敗する」として仏教国家を否定していましたが、武后はあくまで仏教国家を目指し、「先道仏後(=仏教より道教の法が上)」の唐の方針を覆し、「先仏道後」のために自ずから「皇帝」になりました。

 

その方針を受け継いだのが、天武・持統・聖武・称徳といった「武后系」の天皇だったわけです。(天武天皇は「出家」したほどの仏教信者。持統天皇は武后の長女)

 

天智(高宗)、藤原鎌足(王文度)は「先道仏後」の国(唐)の方針そのままで「仏教国家」には否定的な立場だったでしょう。

(これは称徳天皇の時代になって、藤原氏との「対決」という決定的な局面を迎えます→称徳天皇の死後、天武・持統系の血統の断絶。以降は天智系の天皇へ)

 

 

(われわれ日本人にとっては、「道」=道教を「神」=神道と言い換えれば、理解しやすいでしょう。つまり、「先神(道)仏(教)後」。明治政府がやったのはまさにこれなのですが、明治政府には仏教否定・弾圧の側面もありました)

 

・・・やはり「歴史」は無意味ではないようです。

気を取り直して、またぼちぼちやっていきます。