何のために生きている?

と問われれば、もっと幸せな人間社会が見たいから

年寄りや障害者、貧者といった社会的弱者を

(経済的)悪者・邪魔者扱いして差別、社会から排除しようとするような最近の日本の政治、社会は、どうにも困ったものですな。

 

歴史を見ても、そういう国は一時的には強国に見えても、長続きした例はありません。

 

「日本」が長続きしてきたのは、「建国」の当初から(実際はともかく)「フォア ザ ピープル」の観念が仕込まれていたからです。

日本書紀」や「続日本記」を見ても、政治は「社会で最も恵まれない階層のものを無視すべきではない」という理念がところどころで述べられています。

 

古代社会の「最弱者」として位置づけられているのが「鰥寡」(かんか)。身寄りの無い老人です。鰥(かん)は男のやもめ、女性のやもめが寡(か)です。

日本書紀や続日本記には、飢饉のときなどにこの鰥寡に米(稲束)を支給した記事がよく載っています。

 

後の徳川家康なども、「「鰥」を基本においた政治をせよ」などと言っています。つまり、社会的弱者をしっかりと支えられるような政治を目指せ、と言っているんですよね。

「鰥」だけになっているのは男のやもめのほうが悲惨だったからでしょう(笑)

ちなみにこの言葉は大塩平八郎が乱を起こす根拠ともなりました。

 

古代から江戸時代までの社会では「鰥寡」が最弱者とされましたが、明治以降、現代にいては「最弱者」の観念、実際はまた違ったものになっているでしょう。

 

しかし、政府やそれに同調するウヨといわれる人たちが、弱者を差別、攻撃して、それがまかり通っているような社会は困ったものです。

明治以降の日本は急速に「短命国家」化しているように思います。

 

明治以前の日本にも人民いじめの「領主」などはかなりいたようですが、

ただ、(国の)支配政権でそこまで悪質なのはなかったようです。

 

この点については、古代の政治状況と明治政権の「関係」に関連して述べたいと思っています。かなり先のほうになりそうですが(笑)

 

ということで、これまでの話を進めたいのですが、いま、ちょっと足をとられているのが「法隆寺」の問題です。

最初は単純に考えていたのですが、少し足を踏み入れると、次から次へと謎と矛盾が出てきて、頭が混乱。すっきりした解決点が見出せません。

 

まず、

f:id:hibi333zakkan:20180705140035j:plain← この人はどなたなんでしょう?

いわずと知れた救世観音ですが。「救世観音」というのは後世につけられた名前で、製作当初は何と呼ばれていたかわからない。

 

一般的には「聖徳太子」の等身大像と言われていますが、わたしには、どうもそうとは思われない。

わたしは聖徳太子=(基本)アマノタリシヒコと考えていますので、

彼の「位置」(倭の大王ではない)、とその性格(仕事では実際的でありつつ、謙虚な仏教信者。インテリ)からして、このような形で自分の「像」を残そうとは思わない、と思うんですよね。

 

また、「聖徳太子の怨念を鎮めるため」などと言われてもいますが、これも「熱心な仏教徒聖徳太子」からは出てこない話です。

 

では「誰か?」

最近強くなった説のようですが、わたしも「蘇我入鹿」ではないか?と思います。

この説に関連して、「聖徳太子蘇我入鹿」なんていう説も出ているようですが、これは明らかに違う。

しかし、この「救世観音」が聖徳太子の「旧住居」といわれる夢殿に安置されているのは事実なので、これも「謎」です。

 

ということで、頭を悩ましつつ至った結論が、

①「法隆寺はもともと蘇我氏のお寺だった」

もしくは、

②「(法隆寺は)蘇我氏、とりわけ非業の死を遂げた蘇我入鹿蘇我蝦夷の慰霊、あるいは怨霊封じのお寺である」

(あるいは①+②)

 

前者はともかく、後者はかなり可能性が高いと考えています。

 

明治まで布でぐるぐる巻きにして封印され、厄除け?のお札まで貼られていたという「救世観音」。

 

あと、法隆寺聖霊会で奉納される舞楽「蘇莫者」(そまくしゃ)も気になります。

f:id:hibi333zakkan:20180705144636j:plain 「白髪」を振り乱して乱舞します。

その横で聖徳太子はひたすら(鎮魂の?)笛を吹き続けます。

 

「蘇莫者」は有名な舞楽で、やはり聖徳太子ゆかりの寺、四天王寺聖霊会でも奉納されます。

 

蘇は蘇我氏の「蘇」、「莫」には「無い」という意味がありますから、「蘇莫者」を「(いまは)無き蘇の者」と考えて、「白髪」から、(滅ぼされた当時)老人であった蘇我蝦夷が「蘇莫者」である、と想定することもできるのではないでしょうか?

 

とすると、法隆寺蘇我入鹿蘇我蝦夷を「慰霊」している、と考えられるわけです。

 

興味深いのは、この「蘇莫者」は「唐楽」ですが、番舞(つがいまい)として高麗楽(こまがく=高麗楽百済楽新羅楽の総称)の「蘇志摩利」(そしまり)がワンセット?で演じられることです。

(番舞というのは別々の演目が左右の舞台で演じられること。この場合、唐楽である「蘇莫者」が左、高麗楽の「蘇志摩利」が右の舞台です)

 

「蘇志摩利」は高天原を追われたスサノオの苦難を現した舞楽です。

 

わたしは、スサノオのモデルを、アマテラス=天照大神つまり武后(武照)によって高天原(=唐の朝廷)を追われた「高宗」と考えているので、

蘇我氏の滅亡を現した??「蘇莫者」と蘇我氏を滅ぼした「(スサノオ=)高宗」の苦難を表現している「蘇志摩利」が番舞になっている・・・などと、いろいろな想像をしてしまうわけです。

 

しかしわたしは、この「聖霊会」における「蘇莫者」に、さらに解けない謎を感じています。

 

まず第一に、聖徳太子の命日に行われる「聖霊会」になぜ、この「蘇莫者」が演じられるのか?

蘇莫者において、聖徳太子は完全に脇役、というか舞台の隅でただ笛を吹き続けるだけです。

主役は明らかに、白髪の老人?

しかも、聖徳太子は「唐冠」を被り、白髪の老人(蘇我蝦夷?)の面は「猿」を現しているのです。(物語からきているということですが)

これで慰霊になるのでしょうか?

 

布でぐるぐる巻きにされ、まともに「供養」されていなかった「救世観音」といい、「ちょっと何かが違うぞ?」

という気がするのですが。

 

また、法隆寺といえば、五重の塔の上に置かれているという「鎌」の「謎」もあります。

「鎌」といえば藤原鎌足をどうしても思い出します。

蘇我氏を実際に滅ぼしたのは鎌足です。

 

この鎌足を思い出させる「鎌」が法隆寺五重の塔の上に置いてある。

 

これは雷除けとして、この五重の塔が建てられたときから置かれているらしい。

雷除けというのは、天智九年に法隆寺が全焼したという記事があって、その原因が落雷であった、というところからきているようです。

 

とすると、「雷」というのは蘇我氏父子の祟り?

 

もうひとつ不思議なことは、日本書紀法隆寺全焼の記事があるのに、その「再建」の記事がまったく無いこと。「続日本記」にもありません。

 

わたしは法隆寺を再建したのは天武天皇だと思いますが、日本書紀はこのほかにも天武天皇の行った大きな「事業」のいくつかをすっぱり切り捨てて書いていないのです。

 

このあたり、日本書紀の製作に大きく関わった藤原不比等の(天武系統への)「ある」意志が感じ取られるのではないか、と思います。

 

ちなみに、蘇莫者でひたすら笛を吹く「聖徳太子」は天武天皇でしょう。聖徳太子には天武天皇のキャラクターが反映している部分もあると思います。

天武天皇のアマ氏と蘇我氏の関係は(縁戚関係などを通じて)密接ではなかったか?と思います。

 

長くなりました。

ほんとうに、法隆寺は謎が多く、かつ深い・・・