何のために生きている?

と問われれば、もっと幸せな人間社会が見たいから

前回触れた「雄略天皇」ですが、

日本書紀を読むかぎりでは、残酷な行為の数々と、死を前にした、人民を思う心との落差に驚かされます。

 

しかし、歴史を見てみると、自分の周囲の者たちに残酷な行為を行った支配者が、必ずしも人民にとって残虐な支配者ではなく、むしろ、人民にとっては「善政」であった、「善政」を行った、という例は結構多いようなのです。

 

たとえば、「貞観の治」という中国史上屈指の善政を行なった唐の太宗は自分が皇帝になる際には、父親を引退させ、兄弟を殺しています。

また、日本でも源頼朝は弟(義経)を殺していて、「判官びいき」という言葉を生むほど、後の(ひょっとして明治以降?)イメージは悪いのですが、源頼朝の行った政治はたいへんな「善政」です。

また、頼朝の子どもを殺して政権を奪ったとしてやはり(明治以降の)評判が悪い鎌倉政権も、前半は大変な善政で、頼朝から続くこの武士政権の善政は世界に誇るべきものであった、とわたしは考えています。

 

(歴史においては)他にも、こういった例は枚挙にいとまがないくらいなのですが、こういった「残酷行為」を行ったにも関わらず、(人民にとっての)「善政」を行った「支配者」には共通の傾向があって、それは

「残酷と思われる行為を行った対象が、自分の親族や重臣、家臣などの、権力に預かる人たちであった」

ということです。

 

いっぽう、本人は「いい人」というか、自分の親族や「周囲」に対しては、非常に優しく、その権益も充分に満たしてやりながら、人民の生活を圧迫し、人民の怨嗟を招いて国に「乱」を招いた、という支配者も数多くいます。

 

で、いまのこの国の政治、支配体制は?

 

後者ですよね。

そしてまたこの「安倍政権・首相周辺」というのが、利権特権支配層を形成していて、

 政治家・財界(経団連など。超大地主なども超富裕層も含む)・官僚界・メディア支配層・外国情報工作機関、などががっちりとスクラムを組んでいましてね、

かつてない「奴隷状態」を日本人にもたらせているようです。

 

・・・(意図的に)分断されてしまった人民はなすすべがない。

どうも、あまり良い時代とは言えないですね。

(人民の最も弱い部分からいじめる、切り捨てていく政治なんて、歴史的にも最低、最悪ですよ)

 

もっとも世界を見ても「生存権なき奴隷制度の時代」「(支配層の)ターゲットは一般民衆」、という感じですから、日本だけが特別、というわけでもないのでしょうが、それでも日本の「凋落」が目立つ今日この頃です。

 

(ついこのあいだの政治でも ー 自公だけではなく、国民を裏切る「維新」とか「国民民主党」とか、人民にとって「さかしま」であればあるほど「権益」が保障される、というんですから困ったものです。「似非」が公然と大手を振る時代でもあります(似非野党)ー「定額働かせ法」「TPP」「改憲」。日本国憲法は「歴史」の評価に耐えうるものだと思うのですが、それをも「暴政」が亡き者にしようとする時代でもあります)

 

、、、

いやあ、いまの日本を「嘆き」はじめたらキリがないので、これくらいにします(笑)、

ところで、雄略天皇が「フォア ザ ピープル」の大王であったかどうかはともかく、たいへん「元気」というか威勢のいいタイプであったことは間違いないようです。

 

(478年)倭王・武(「雄略天皇」)が「宋」への使者に持たせた文書にこんなことが書いてあります

 

「わが国は遠く辺地にあって、中国の藩屏(はんぺい)となっている。

昔からわが祖先は自(みず)から甲冑(かっちゅう=よろいかぶと)を身にまとい、山川を跋渉(ばっしょう)して、落ち着くひまもなかった。

東は毛人55カ国を征し、西では衆夷66カ国を服させ、海を渡っては北の99カ国を平定した。

~中略~

ところが高句麗は無道にも百済を併呑(へいどん)しようとたくらみ、百済の国境の人民を捕らえて殺害し続けている。

(倭が中国へ)入朝しようとしても道をふさがれていてままならない。

~中略~

わたし武の父「斉(せい)」は、 ~ 高句麗が中国(宋)への道を妨害していることに憤(いきどお)り、弓矢を持つ兵士百万人を揃え、大挙して高句麗と戦おうとしたが、父、斉と兄、興が急逝(きゅうせい)、もう一息だった功業があと一歩のところで成らなかった。

父と兄の喪中は軍隊を動かさず、兵を休めていたので、いまだ高句麗に勝っていない。」

 

文章からもなかなか強気の人だったことがわかりますね。

 

「武」の語った「国内」平定の話は、おそらく蘇我氏の「史書」に記されていて、古事記日本書紀の(「東征」などの)記事に転用というか利用された可能性が高いと思います。

 

ただこの「平定」はそれほど昔の事ではなく、「武」の祖父・曽祖父?である倭王「珍」「賛」くらいの時代ではなかったかと、わたしは考えています。

 

高句麗との戦いに敗れた後、国内を「まとめる」必要があって、行われたものではないでしょうか?

その結果としての「兵、百万」だったと思います。

だから、埼玉県の稲荷山古墳から「ワカタケル」=倭王「武」の銘の入った剣が出てきても不思議ではない、というか当然だと思います。

 

あと、この倭王「賛」「珍」「斉」「興」「武」の名称なのですが、これは「倭」の側が名乗ったものではないと思います。

たぶん元は「姓」も「名」もあるきちんとしたものであったはずです。

それがこのようになったのは、倭の大王たちが名乗った「名」が宋(中国)にとって不都合なのものだったからではないでしょうか?(尊大、あるいは「格上」を感じさせるようなものであるとか)

 

ともあれ、この「宋」という国、倭に対しては「要求」をすべて受け入れるような姿勢を示しながら、裏ではちょっと違うことをやっているような国でした。

たとえば、倭が属国のように言っていた百済を独立国として、倭に与えた「名称(朝鮮全土の支配者を示すような)」と同じものを(倭には内緒で)百済に与えたり、新羅ともつながっていたり。

 

日本が「外交」「権謀術数」に弱いのは、この「倭」=蘇我氏からの遺伝ではないか?

とも思う、         ・・・今日この頃です。