何のために生きている?

と問われれば、もっと幸せな人間社会が見たいから

どうもはっきりとしない空模様が

続きますねえ。

今日は全国的に雨の一日だそうで、東京では気温も下がり、日中でも上着が必要なほどの肌寒さなのだとか。

 

わたしには、この空模様と、日本や世界の(権力をめぐる)空模様が似たもののように思われて、厚く雲に覆われた空を見上げては、ため息をつく毎日です。

 

そんな日々の中で、一昨日の6月18日には大阪中心部を震源とする震度6弱の大きな地震があり、(今のところ)5人の死者まで出してしまいました。

報道を見て感じたことは、日本のインフラ整備がおろそかになっているのではないか?という疑問です。

はたして国や自治体は99%を占める庶民の生活と安全・安定のために、しっかりとお金を使ってくれているのでしょうか?

「小さな政府」を目指す「自治体」の筆頭ともいうべき大阪で起きた地震による死者であるだけに、よけいにそのことを考えてしまいました。

 

わたしは、この国には「小さな政府」は合っていない、と思っていますのでね。

 

また、(災害を金儲けの好機ととらえる)「ショックドクトリン」で大もうけ?なんてことがないようにお願いしたい。(そういう発想は邪悪そのものだと思いません?)

 

もし、この厚い雲の裏に権力をめぐる争いがあるのなら、

どうか、われわれ人民(の命と生活)を大切にしてくれる勢力の皆さまが勝ってくださいますように

と、梅雨空にお願いしておきまして、

 

やはり、厚い雲に覆われた感のある「歴史」の世界へ (^-^)

 

日本書紀というのは読み方によってはたいへん面白くて、「裏に隠された」史実を(それとなく)語っている部分があったりします。

 

今回の「唐(高宗)による倭の占領」の話の関連では、たとえば、「斎明元年」に

 

「夏五月 ~ 空中に竜に乗れる者あり、貌(かたち=容貌)、唐人に似れり。

青き油笠を着て(被って?)葛城嶺より馳せて胆駒山(いこまやま)に隠れぬ。

午時(うまのとき)に及至(いた)りて、住吉の松嶺の上(丘?)より西に向ひて馳(は)せ去ぬ」

とあるのは、相当以前から、唐が倭に密偵を忍ばせて、国内の様子を探っていたということではないでしょうか?

 

また、「斎明七年七月二十四日に斎明天皇は朝倉宮で崩御」、八月一日に皇太子が柩(ひつぎ)に付き添って磐瀬宮(いわせのみや)に帰るのですが、その日

 

「この夕に、朝倉山の上に、鬼ありて大笠(おおかさ)を著(き)て、喪の儀(よそおい)を臨(のぞ)み視(み)る。

衆(ひとびと)、みな嗟怪(あやし)ぶ」

とあるのも、それ(内偵)を示唆しているのではないでしょうか?

 

ちなみに、天武ー持統朝(武后派)の影響の下で作られた「日本書紀」は基本的にアンチ高宗(天智天皇)の立場ですので、こうしてポロポロと「秘密の漏洩」みたいなことをやっています。(^^;)

 

ところで、これまでわたしは「倭」が占領された年を663年から664年の間、としてきましたが、朝鮮半島で最近発掘された史料などを見ると、660年、あるいは661年に一気に倭も占領されてしまったのではないか?

とも考えるようになってきました。

 

その頃に、「倭王」が唐によって捕らえられた、ということを述べた「史料」が出てきたためですが、

そういえば、前回にも触れた「新唐書」で

(660年)「~ 左衛(中)郎将の王文度を熊津都督と為す」

「(王)文度、海を渡りて卒す」

とある部分ですが、この熊津(クマナリ)都督は「海を渡って卒す」、卒す、というのは「死んだ」という意味ですが、ここでは

「王文度、海を渡りて卒(いくさ)す」と読みかえたほうがいいように思います。

 

実際、「熊津」(当時の百済の首都)というのは現在の韓国・公州市ですが、地図を見てもわかるように、ここから「海を渡って」、どこへ行くというのでしょうか?

「倭」に渡って「卒(いくさ)す」としたほうが、ただ「死んだ」、とするよりはるかに理にかなっているような気がします。

 

日本の学者さんのこれまでの「定説」は「(王文度は)海を渡って百済に行って、熊津都督になって、死んだ」という解釈のようですが、

「唐から百済に行くのにナンで、“海を渡る”の?」という疑問が起きてきますし、何より文章の順序からして、「百済に来て後、海を渡った」としか読めないのではないでしょうか?

 

ともあれ、この660年には唐の王朝でも大きな出来事がありました。

高宗が「壊れた」ため?(笑)、武后が「政を執る」ことになったのです。

 

資治通鑑」には、こう書かれています。

 

「(顕慶五年=660年)【武后、政を執る】

冬十月。天子(高宗)はかねてから風眩(ふうげん=めまい)に苦しみ、頭は重く、目はものをよく見ることができず、百司(官僚)がことを発する際に、天子は皇后にこれを決せしめることがあった。

后(武后)は、性質が明敏で、文史を渉猟し、ことを処するのにみな旨に適(かな)った。

そこでこの月より政事を委(ゆだ)ねることとし、(武后が)人主(じんしゅ)なみの権力をもつこととなった」

 

高宗、典型的な「仮病」の症状を並べていますよね(笑)

顕慶五年十月、高宗は「体調不良」を理由に后(=武后)に政事を委ねたのではなく、「唐からいなくなった」のだ、とわたしは考えます。

日本的な言い方ですと「旅に出た」というところでしょうか?(笑)

行き先はもちろん、百済、倭。

 

「いや、それは違う。だってその後も高宗は(武后に操られるような形ながらも)唐にいた、というのが史実ではないか」

という声が聞こえてきそうですが、

 

たしかに、高宗は史料にも見るとおり、唐の都にいました。

ただし、

それは、高宗の「影武者」。

このことは、その後の武后と高宗(影武者)の関係を見れば、けっこう「あからさま」ではないか?と思うのですが・・・

 

いずれにせよ、「660年十月以降の唐にいる「高宗」は影武者である」可能性が高い、ということは頭の片隅に入れておいてほしい、と思います。

 

 

・・・やはり「大友皇子」のところまでは行き着けませんでした ヽ(^^;)

ということで、また。