何のために生きている?

と問われれば、もっと幸せな人間社会が見たいから

なぜわたしが「日本」発祥のころの話に

こだわるかと言うと、明治以降の日本の「支配イデオロギー」というか、「支配体制」を考えるには、この時代のことをしっかり踏まえておく必要があるからです。

 

日本人は「歴史」を鏡として、今一度、自分の顔を見つめなおすときが来ていると思います。

 

こうやって「異論」、大胆な「仮説」を思い切って提示することで、官製の偽歴史を暴いて行けたらとも、考えているわけです。

?(^^;)

 

ということで、

 

持統天皇というのは不思議な人です。

草創期の日本にとって最も大きな事跡を残したにも関わらず(制度変革によってこの国を変え、天皇制を確立した)、その仕事の成果は他の天皇(天智、天武など)のものにして、自分はひっそりと歴史の影に半ば隠れるように地味な存在に徹している。

日本書紀の記述もとても少ない。

まるで、自分に焦点が当ることを恐れているように・・・

 

・・・653年、倭のひとりの僧が仏教を学ぶために唐に渡ります。(しばらくこの僧のことを「倭僧」と呼んでおきます)

この倭僧は父親が蘇我氏で史料の編纂に携わっていたというくらいですから、倭に関する知識も豊富に持っていた、と考えられます。

 

この倭僧=倭から来た留学僧に目をつけたひとりの女性がいた。

655年に高宗の皇后となった武照=武后です。

 

武后はこの倭僧に破格の待遇を与えます。

玄奘三蔵と同じ寺で学べるようにし、やがては玄奘と同室で起居できるようにまで、引き立てたのです。

インドから多くの仏典を持ち帰り、その翻訳をしていた玄奘は、当時すでに伝説的存在で、どんな高僧でも軽々に会うことなどできないほどでした。

そんな玄奘三蔵に、(辺境の)倭の留学僧が同室を許されるというのは本来ありえないことで、皇后の意向あってのものだったでしょう。

 

皇后は同時にひとりの女の子を連れてきて、その子に倭の言葉を教えるように倭僧に命じます。

その女の子が生まれたのは645年ですから、655年ですと10歳ですね。

 

武后はその女の子のことを親戚の娘だ、とかなんとか言ったことだろうと思いますが、実は武后の娘です。

しかし、その子が自分の子どもだとは口が裂けてもいえない事情が武后にはありました。

 

645年といえば貞観19年。まだ太宗の治世です。

このとき武后=武照は太宗の後宮にいました。

つまり太宗の「妾」(しょう)だったわけです。

 

この頃、太宗は高句麗遠征の準備で忙しく、たびたび宮殿を留守にしていましたが、644年から645年の末にかけては、宮殿を皇太子の李治(後の高宗)に全く任せてしまって、遠征に出ます。

この間に武照が生んだのがその女の子です・・・

 

ちょっと(かなり)ヤバイですねえ(^-^;)

 

649年に太宗が死んで、李治がその後を継いで高宗となるわけですが、太宗の死後、尼となっていた(後宮の女性は皇帝の死後はすべて尼になることが強制されていた)武照と高宗がヨリを戻したのも、その「女の子」の存在があったからではないか?とも考えられます。

 

ともあれ、父親の後宮の「妾」を息子が自分の後宮に入れることなど、当時の中国でも異例中の異例です。

当然批判は浴びます。

高宗と武照は、「太宗は武照に手をつけなかった」(ウソつけ~(笑))だのと「純愛」を強調してその批判を乗り越えようとしますが・・・

もし645年生まれの娘の存在がバレれば、高宗も武照も一巻のオワリ、となってしまうわけで、

その女の子はふたりにとって「爆弾」のような存在だったわけです。

 

へたをすれば殺されかねない子でしたが、武后の愛情は強かった。

親戚に育てさせ、やがて10歳くらいから倭僧に倭の言葉を教えさせ始める。

このあたりが、アタマがいい、というか、武后の見通しのきくところなんですねえ・・

 

660年(前後?)倭僧が帰国する。

その際、武后はその僧に自分の名=照を与える。「道照」です。

(いまの歴史書では「道昭」となっていますが、元は「道照」)

 

その道照と一緒に、あるいは少し遅れて、「女の子」も倭にやってくる(おそらく新羅経由。上陸場所は山陰あたり?)。

女の子は15歳、ないし16歳です。

倭にやってきた目的は「婚姻」。

武后が注目していた熱心な仏教徒=アマ氏に娘を「輿入れ」させようとしたのです。(アマノタリシヒコ(聖徳太子?)は大陸の仏教徒の間でも人格者としてそこそこ知られていた)

もちろん自分の娘であるということは秘密。皇后の親戚の娘?ということだったでしょう。

 

しかし、唐の皇后の肝いりですから、東海の辺境=倭、のいち「藩主」?アマ氏にとってはたいへんなことです。

たぶん、婚姻相手の選択権はその女の子にあった、と思うのですが、「王家の兄弟」の中から女の子が選んだのが、オオアマ、後の天武天皇です。

ここで、女の子の正体がわかりましたよね。後の持統天皇です。

このときの名前はわかりませんが、後付でウノノサララとか、ついてますけど・・・

 

しかし、驚いたのは「選ばれた」オオアマだったでしょう。

年齢が(たぶん)親子ほど離れているし、何より、オオアマには妻子がありました。

 

それでもオオアマには「拒否権」はない。

けっきょく「女の子」の結婚相手はオオアマとなり、女の子が17歳になった662年には男の子ができます。これが草壁皇子です。

 

この間、道照は「女の子」に影のように付き従っていたことでしょう。

 

唐から遠く離れた倭の地で、熱心な仏教徒一族に嫁いで、これで安心、一件落着、と思いきや、

 

ナント、663年、倭の大王家=蘇我氏が唐に敗れ、664年には(女の子の)「父ちゃん」=高宗がやってくるわけです。

(このとき武后は、自分の廃后工作に失敗して倭に渡った高宗について、どう考えていたか?・・・このころの武后は凄かった?・・・)