満ちていると言うか、何がどうなっているのか?何が真実なのか?突っこめば突っこむほどわけがわからなくなってしまいます。
江戸時代の天才町人思想家、富永仲基も、日本の文化というか特質は「隠す」ことだ、みたいなことを言ってませんでしたっけ?
まあとにかく、隠すごまかす書き換える。
これ、どうやら「現代」まで続いているようなんですよね。
「だから安倍首相みたいな人が出てくる」?????
閑話休題(それはさておいて)
そいうことが行われ始めたのはいつか?
というと、これがどうも、「日本」ができたとき以来のようなんですね。
日本初の公式史書である日本書紀からして、もう・・・、(執筆者、編者はつじつまをあわせるのに相当苦労したでしょうね)
これからそのことについて語っていこうとしているわけですけど・・・
前回で「倭」の大王家=蘇我氏の滅びについて少し触れました。
蘇我氏こそが倭の頭領だったわけで、日本書紀における「天智天皇」以前の「天皇(とされている)」はすべて蘇我氏の大王です。
これは「隋書」で、遣隋使を送った(聖徳太子のモデルのひとり)アマノタリシヒコの名前からもわかります。
近畿地方に大きな勢力を有していたアマ氏ですが、トップの大王家というわけにはいかなかった。
アマノタリシヒコの最後の「ヒコ」(=彦)というのは、三国志をはじめとした中国の史書をみてもわかるとおり、その地方の大官=長官(中国から見て)が名乗る称号で、日本的に言えばその土地(地方)の領主です。
徳川政権時の例で言えば「藩主」といったところでしょう。
だから日本書紀でも聖徳太子を「天皇」にはしきれなかったんですよ。
ちなみに、わたしはアマノタリシヒコはオオアマ(天武)の祖父にあたるのではないか?と見ています。(もしかしたら曽祖父?)
前にも書いたとおり、対隋、対唐に関してはアマ氏が倭の「王」として交渉の窓口になっていました。(アマ氏は新羅から来た「騎馬民族」の王族で、そのルーツは鮮卑族です。これは、応神天皇陵や藤ノ木古墳などの出土品からもわかります)
そして「日出ずる処(ところ)の天子、書を日没する処の天子に致(いた)す。恙(つつが)無きや ~」の国書が蘇我氏からのものだったことも前に述べました。
蘇我氏(倭)は呉の太伯(呉を作った人)の子孫を自称するくらいの古い歴史を誇り、とりわけ中国南部の王朝とは密接な関係を持ってきましたから、鮮卑族の王朝などに素直に頭を下げることができなかったのでしょう。
「日出る処の天子」 = 蘇我氏の大王です。
この二重構造は唐の太宗の時代にも露呈しています。
→『唐の太宗の貞観5年(631年)、日本国は使者を派遣して唐に入朝させた。太宗は、日本からの距離が遠いのに同情
~(中略)~
また ~ 高仁表(こうじんひょう)を遣(つか)わし、日本国王に勅諭(ちょくゆ)を伝えさせようとしたが、高仁表は日本国王と儀礼の問題でいさかいを起こして立腹し、天子の命を読み上げることを拒否して国へもどった。』(新唐書)
というのが、それです。
「使者を派遣」したのはアマ氏。
唐の使者と儀礼の問題をめぐっていさかいを起こしたのが、蘇我氏の大王、もしくはその一族の人でしょう。
「新唐書」には続けて
『しばらくして、日本はあらためて新羅の使者に託して上奏文を送呈してきた』
と書かれていますが、これはアマ氏からのものです。「新羅の使者に託して」という部分に注目ですね。
ほんとうはこの時代はまだ「倭」だったのですが、新唐書が書かれた時代には「日本国」という名前が定着していたので、「日本」と表記したのでしょう。
しかし、正確とは言い難いですよねえ。
ともかく、この隋、唐との実質的「断絶」が数百年~一千年(?)続いたプライド高き?東アジアの名門大王家=蘇我氏の滅亡を招くことになりました。