何のために生きている?

と問われれば、もっと幸せな人間社会が見たいから

歴史について②

前回アマノタリシヒコと隋の煬帝について触れましたが、いまの安倍自公政権を見ていると、少し煬帝の政策と似通ったところがあるように思います。

 

富の一極集中というか、隋はたいへんな資産、富を所有していました。

その富を使ってやったことのひとつが、大運河の建設。

ご存知のごとく、江南地方と首都長安を結んだ2500キロメートルに及ぶこの運河は壮大なもので、その後の中国の経済、政治に大きな影響を与え、今なお利用されています。(世界遺産

 

しかし、このような隋の国家優先による人民の負担は大きく、民衆の隋への恨みが積み重なっていきます。

そのような人民の苦しみ、困窮に気を留めることもなく、煬帝は強大な権力、軍事力にものをいわせ、さらに高句麗を征服しようと軍を起こしました。

ここで簡単に高句麗が征服されていれば隋はもう少し続いたのかも知れません。

 

ところが、このころの高句麗は強かった。

少し時代は遡りますが、倭と百済の連合軍もボロクソにやられました。(高句麗好大王碑参照)。

このとき逃げる倭の軍を追ってきた高句麗軍によって百済はその首都まで占領されているほどです。

 

隋もこの高句麗相手に苦戦を強いられました。

ほとんど戦果の上がらないまま、戦費と戦死者だけが増えていく。

 

苦役、経済的圧迫・困窮、戦争禍。

人民の我慢が限界に達し、ついに反乱がおきます。

反乱はあっという間に中国全土に拡大。手のつけようのないほどになります。

 

煬帝もやがて宮殿にいられなくなり、拠点を点々と移動せざるをえなくなります。

そして、ついには皇帝直属の近衛兵までが皇帝に背きます。

 

煬帝の最後はアワレなものでした。

それまで自分を守っていた側近たちによって処刑を宣言されるのですから。

人民に対する罪状を読み上げる側近に対して、煬帝はこう言います。

「なるほど、朕はたしかに人民を裏切った。しかしお前たち(側近)は優遇してやったではないか」

 

しかし、煬帝の言葉に心を動かされる者はなく、「罪状」を読み上げると、兵たちはまず、煬帝にすがりついて泣き続けていた12歳になる煬帝の皇子を斬り殺す。

血しぶきをあびた煬帝に兵が刃を振り下ろそうとすると、煬帝はそれを押しとどめ、

「皇帝を斬り殺してはならない」

と言って、自分が身に着けていた布を兵に渡します。

 

煬帝はその布によって縊り殺されました。

 

・・・富の一極集中、貧富の格差の拡大、低賃金、不安定な非正規労働の拡大、労働強化、劣悪な住環境・労働環境、富の海外へのバラマキ、逆進課税(消費税)増税、特権・既得権益層優遇、大企業優遇(民衆の犠牲による)、(正規採用の)官僚・公務員優遇(毎年給与増額)、社会保障・福祉削減(毎年)、年金生活者(老人)虐待(年金の毎年削減)、最貧者(生活保護受給者)切捨て(殺人的行為)、憲法無視、戦争推進路線、取り巻きお友だち大優遇、人民への攻撃(ネトウヨ、ネトサポ、メディア、財務省国税)、厚生労働省(奴隷・殺人省)、、、、まだまだ書ききれない!。。けど長くなりすぎるのでココまで。

 

これが、千数百年後の東海の島国=日本の姿・・・

「コノ国なら朕は左団扇で皇帝をやれるぞい」by煬帝

 

と、それはともかく、この煬帝の最後に強い衝撃を受けたのが、このとき反乱軍平定のために駆け回っていた隋の重臣(唐の初代皇帝)の息子である李世民

この李世民はのちに唐の二代皇帝(太宗)として貞観の治として有名な善政を施し、唐帝国の基礎を固めるのですが、その善政は煬帝を反面教師としたものでした。

 

この太宗と臣下の言動を集めて十巻四十篇に集録したのが「貞観政要」で、この貞観政要こそが、平安時代から江戸時代にかけての日本の(指導者の)政治の教科書というべきものになりました。

とりわけ影響を強く受けたのが源頼朝北条政子から始まる鎌倉幕府徳川家康徳川幕府です。

また、天皇への進講も1006年の一条天皇以来、数多く行われてきたことが記録に残っています。

 

ちなみに、「貞観政要」の著者は唐で国史編纂に携わっていた呉競でしたが、その最初の完成本は中宗(太宗の孫)に捧げられました。

つぎに玄宗(太宗の曾孫)に捧げられたのですが、情勢の変化により、その内容は一部変えられています。

この二冊は中国では早くに失われたようで、元の時代に中国で出版されたものが近代まで伝承されてきましたが、原本にたいして誤脱の多いものでした。

 

なぜそれがわかったかというと、玄宗皇帝に上進されたものの写しが、日本の藤原南家と菅原家に伝わっていたからです。

また、北条政子貞観政要をひらがなに訳させて読んでいたのですが、史家から馬鹿にされてほとんど無視されていたこのひらがな本が、中宗皇帝に献上されたものの写しだったことがわかって、専門家を驚かせたそうです。

 

とにかく、この本が日本の歴史と深く関わっているということを知っていただきたい、と思います。

 

本日の最後に、「貞観政要」の第一巻、第一章、最初の一節

 

→ 貞観初、太宗謂侍臣曰、 

貞観(じょうがん)の初(はじめ)、太宗、侍臣(じしん)に謂(い)いて曰(いわ)く

為君之道、必須先存百姓。

(君(きみ)たるの道は、必ず須(すべから)く先(ま)ず百姓(ひゃくせい)を存(そん)すべし)  

若損百姓以奉其身、猶割脛以啖腹。

(若(も)し百姓を損(そん)じて以(もっ)て其(そ)の身(み)に奉(ほう)ぜば、猶(な)を脛(はぎ)を割(さ)きて以(もっ)て腹に啖(くら)わすがごとし)

腹飽而身斃。

(腹(はら)飽(あ)きて身(み)斃(たお)る)

~(以下略)~

 

→<貞観の初年に太宗が左右の臣下たちに語って言われた。

 「君主であるものの道は、まずもって、必ず、是非とも、人民をあわれみ恩恵をほどこすことである。

もし(重税などで)人民を苦しめその身を損なうことによって君主の身(支配者のゼイタク等)にあてるのは、自分の足の肉を裂いて自分の腹に食わすのと同じである。

満腹したときには、その身は死んでしまう。

~ >

 

以下にも現代日本の支配者さんの耳に痛いことが書いてありますよ(笑)\(^○^)

安倍首相やその裏の人たち、とりあえず、この第一章だけでも読んでみましょうよ。

え?まったく理解できない?

 

・・・そうでしょうねえ。。。

 

 

あと、この私観「歴史」を語っていくにあたって、(当時?)この太宗に送られた「賛辞」に「聡明神武」という言葉があるので、それを覚えておいてください。(先々触れると思います)  

神武・・・    八紘一宇    ・・・(^。^)