何のために生きている?

と問われれば、もっと幸せな人間社会が見たいから

前回のブログでちょっと触れた

わたしの「日本」史観。

これまでにない、かなりユニークというか奇妙なものなので、理解し辛かったと思います。

でもまあ、これがわたしの「日本」についての歴史認識なので、いちおう基本的なアウトラインを述べていきたいと思います。

 ↓

 

まず、「倭」は「日本」のような中央集権的「天皇制」国家ではなかった、ということ。

倭はこの列島における支配勢力で、対外的にも強力な勢力でしたが、それを支配していたのはいくつかの「部族」をまとめた「大王」です。

 

この大王家には二つの大きな勢力のものがあって、ひとつが北九州を拠点とする蘇我氏。もうひとつは山陰~近畿地方を支配した「アマ」氏です。

 

蘇我氏はB.C.10世紀頃から日本に移住してきた、揚子江河口周辺(蘇州あたり)の稲作&漁業民族の流れで、北九州を中心に日本に大きな支配権を築いていきました。

 

 それに対して「アマ」氏というのは、紀元後「鉄器」と「騎馬」をもって「新羅」から渡来、近畿地方を中心に支配を広げていった勢力で、そのキーパーソンは応神天皇陵に葬られている人物です。

天武天皇」はこの系譜です。

 

この二大勢力、大陸の勢力図から見れば、蘇我氏は中国の南方系、アマ氏は北方系で、本来、水と油の関係ではないか?と思うのですが、蘇我氏の「末期」のころは妥協が成立していて、ともに「倭」国を支える関係が成立していました。

 

この「妥協」というか協力関係を可能にしていたのが「仏教」なんですね。

二大勢力とも仏教を信奉していました。

ただし、蘇我氏の仏教は百済経由のものでアマ氏の仏教は新羅の系譜です。

 

中国大陸が北は北魏、南は南宋と二分されていたときの日本の支配大王家は蘇我氏です。

蘇我氏百済と密接な関係にあった。

いっぽう、新羅というのは(大陸からの)難民・移民によって形成された国家であって、言葉も文化も百済とは大きく違っていて、その領土はもともと百済のものでした。

庇を貸して母屋をとられた形の百済新羅は「不倶戴天」の関係にありました。

 

「倭」と「百済」はこの新羅をめぐって高句麗と衝突。

百済とともに高句麗まで攻めあがって敗戦を喫し、高句麗好大王碑に刻まれた「倭」というのは蘇我氏です。

この強国=高句麗との対抗上、南宋と関係を密接にして高句麗を背後からけん制しようと使節を派遣していたのが「倭の五王(=蘇我氏の大王)」です。

 

このときのアマ氏(近畿大王家)は表面上は蘇我氏百済勢力に同調し(従い)つつも、裏では本来の「出自」たる新羅と通じていた、という立場でしょうか。

 

ところが、その南宋北魏(鮮婢族の王朝)によって滅ぼされてしまう。

蘇我氏の悲劇というか滅びへの道はここから始まるんですね。

 

北魏もいったんはなくなりますが、やがて北魏の重臣だった人物が中国を統一する。これが隋です。

隋と蘇我氏は接点がない。

隋と通じることができたのは鮮婢族との関係が深いアマ氏です。

応神天皇とされている人物の陵からは鮮婢族の王が使っていたのと同じ「馬の鞍」が出土しています)

 

倭としては中国を統一した王朝との関係を無視するわけにはいかないので、アマ氏が表に立って隋との関係を良好なものに保とうとする。

 

遣隋使を送ったのはアマ氏なんですよね。

この遣隋使を送るにあたって、倭の側が隋の煬帝に、例の「日出るところの天子~」なる、中国皇帝に対しては非礼ともいえる文書を送ったことは有名ですが、これは、蘇我氏が「強要」して使節に持たせたものでしょう。

このとき、あくまでも倭の主導権は蘇我氏にありました。

 

その「非礼」に驚いた煬帝は、すぐに、その意を質さんとする使者を送ってきた。

このとき、使者を応対したアマ氏の大王であるアマノタリシヒコは、「自分は無学な野蛮人で・・・」などと平謝りしましたが、使者は倭の体制が二重構造であることを知り、そのことを隋の皇帝に報告したと思われるのです。

(これが隋の後継王朝である唐(=隋の重臣が起こした、やはり鮮婢族による王朝)による、蘇我氏滅亡に結びついていくわけです)

 

ここで出てくるアマノタリシヒコは聖徳太子のモデルのひとりです。

この人は政治家というより、ほとんど僧侶といっていいくらいの宗教者で、遣隋使を送った目的も、隋の仏教を学ばせるためでした。

そして当時の隋の仏教といえば、天台大師=智顗(ちぎ)による天台宗で、皇帝煬帝も智顗の弟子として菩薩戒を受けています。

アマノタリシヒコはそれを知っていて、文書では煬帝を「菩薩天子」とあがめている。

とても「日出るところの天子~」といった態度ではないわけです(笑)

 

このとき、蘇我氏とアマ氏の間には隠然とした緊張関係があったはずですが、それが内乱などに至らなかったのは、このアマノタリシヒコの、権力に執着しない、宗教者的な性格によるものではなかったでしょうか?

ただ、日本書紀によると、聖徳太子の子息一族は蘇我氏によって滅ぼされたことになっていますが、このあたりの真偽は不明です。

 

・・・なんだか、だらだらとわたしの「私見」=日本史「仮説」を述べていますが、これ、いちおう書いておかないと、「近~現代日本」の問題とも関係していますのでね。

次回以降も続けて、わたしなりの「日本史観」の大要は述べておきたいと思います。

(長くなるかなあ・・・?)