ねえ・・・
「解脱者?」として「誰だって論破できる」「どんな疑問にも答えることができる」という「自信」はたいしたもので、いまの日本の「宗教学者」くらいでは本質的な批判はできないのではないか?
というくらいのレベルに達していたことはよくわかる。
しかし、上座部仏教(小乗仏教)での「解脱者(長老とよばれる?)」には、そのレベルの人はけっこういるんじゃないだろうか?
たぶん「それ以上」の(レベルの)人も「相当数」いるだろう。
けっきょく、松本氏がやったのは、日本での「未開(知)分野?」であった「(宗教としての)ヨガ修行」と「上座部(小乗)仏教」を、それなりの方法で日本で展開しようとした、ということではないだろうか?
ひとりひとりが所定の「修行」によって「解脱」を目指す、という形態の宗教組織では、大きなものにはならない。
「知識」を高めて、この社会をすべて理解したような気になっても、じつはその理解は「部分的なもの」でしかなかったのではないか?
「社会性」があるようで、じつはその「社会性」は「限られた」ものでしかなかった。
このことは、「オウム真理教」が「真理党?」を作って、選挙に乗り出し、大失敗したことである程度「証明」されたように思う。
わたしは当初、あの選挙は「オウム真理教」が「裏世界」の「選挙詐欺」にでも引っかかったんじゃないか?と思っていた。
ところが、どうもそうではないようで、「自分たちが当然多くの票を集めることができる」と考えていたようだ。
あの当時、わたしはオウム真理教という存在自体知らなかったし、選挙でのパフォーマンスも、「ナニこれ?」状態だった。
「これまた、アホなもんが出てきたもんだなァ」とあきれて見ていた。興味もわかなかった。
しかし、彼らは“全員当選”して当然だと思っていたらしい。
あきらかに、当時の民衆の多くと、彼らの「社会認識」には乖離(かいり)があったのだけれど、そのことがわからなかった?ようだ。
ただ今からふり返って「すごい」と思うのは、その当時(1990年)、すでに「不正選挙」の存在を認識していて、何人かの信者を開票所に行かせ、開票を監視させていたこと。
しかも、数名の信者にわざと候補者名である「あさはら・・」ではなく「松本智津夫」と書かせ、その投票用紙があるかどうか、確認させていた。(このことは元オウム幹部だった野口成人氏のブログに詳しい。けっきょくその「票」が見つからなかったことで、「不正選挙」断定?)
このギャップはナニなんだろう?不思議な気持ちがする。
また、「真理党」のマニフェストも《今なら》かなり頷けるものだが、1990年当時ではそれほど民衆に「理解」されるものではなかっただろう。
ネットで見ると、だいたいこんな感じのマニフェストだったようだ
→『消費税廃止 - 政府が“癒着“”をなくせば消費税は必要ない』
『福祉の推進 - 豊かで充実した長寿社会を目指す。(国民に)やすらぎに満ちた毎日を』
『医療改革 - 患者本位の医療と新しい医学の推進』
『教育改革 - 明るい教育。子どもの知能を伸ばす?』
『行政改革 - (癒着をなくす)人員整理(首切り)なき行政改革で11兆円の財源ができるので、それを福祉に回す。消費税は必要なし』
『国民投票制度(直接民主制)の導入 - たとえば「消費税導入」のような国民的課題で国民投票を行う。「真の民主主義国家であり続けるため」と「金権腐敗政治の温床を一掃するため」』
・・・なるほど、《今》ならかなりの説得力を持つマニフェストで、「KY]さえ改めれば、それなりの「得票」が期待できるだろう。「28年」早かった、というべきか?
ただ、オウムの「宗教活動」と日本社会との「関わり」におけるギャップ、「乖離」はここでも感じる。
彼らの「宗教」のどういった面から、このような「方針」が出てくるのか?
・・・松本氏、惜しかったなあ・・・
それにしても、この「結末」の酷さ。。。