何のために生きている?

と問われれば、もっと幸せな人間社会が見たいから

オウム真理教事件で

死刑が確定した死刑囚13人のうち7人が死刑執行設備のある地方の拘置所に分散移送されました。

 

すわ、執行間近か、と、メディアで大きく報道されたことで、ネットでもさまざまな憶測、意見が飛び交いました。

 

法務省が「移送は執行と関係ない」と発表したことでかなり沈静したようですが、まだ「死刑執行」への懸念はかなりあり、

 

「死刑を執行しても安倍政権の退陣は必至なんだから意味ないだろ」

「いや、自分の政権の間に“証拠”を隠滅しときたいんじゃないか?」

など、オウム事件と死刑執行の「背後関係」を詮索するものが多く、そこから死刑執行の可能性を論じるものが多いようです。

 

このように、オウム事件は闇の中、というか、解明されていない「謎」が多すぎる事件なのです。

この事件に関してかなり多くの本を読んできたわたしも、20%理解、80%謎、という状態ですから。

f:id:hibi333zakkan:20180316035552p:plain正直、こんな状態で死刑執行されたら困る。国が信用できなくなりますから。

すべてが解明され、国民の大多数が納得できれば、あとは「死刑存続派」と「死刑廃止派」の論争になるんでしょうが。(ちなみにわたしはガチの死刑廃止派です(笑))

 

あと気になるのは、安倍首相の支持基盤?みたいになっているネトウヨ自民党ネットサポーターズがいっせいに「死刑執行」を煽っていること。これも安倍政権の危機回避のための工作か?それとももっとディープな背後関係があるのでしょうか?

 

ともあれ、政府もマスコミも謎の解明に消極的だったことは事実ですよね。

「宗教団体」としてみれば、「殉教者ほど宗教を強くするものはない」わけで、このあたりの配慮よりも、政府・法務省が死刑執行に前のめりになっているのも、どうかな?と思っています。

 

今回の分散も、何かがバレそうになったとき一斉に処刑するため、かな?との懸念がぬぐえません。

“生殺し”か“永久の闇”か?

この問題でも国民は置いてきぼりなんですよね。ほんとうにやりきれない。

 

いっぽうオウム真理教事件とその関係者をいちおう「政治的事件」「政治犯」としてみて過去の「政治的事件」と比べみると、

 

安政の大獄(1858年・1859年)処刑者8人、獄死6人

竹橋事件(1878年)処刑者57人

大逆事件(1910年1911年)処刑者12人

2.26事件(1936年)処刑者17人

オウム真理教事件(1995年)死刑確定者13人

 

となっています。この中でオウム事件の特徴は「宗教」がからんでいること、「政治的背景」が不明瞭なことでしょう。

 

それ以外は、「安政の大獄」を除いては、案外?共通する事項が多いんですよ。

 

それは、また追々。

とにかく、「殺してオシマイ」というこの国の悪しき慣習?は、このあたりで止めてほしいものです。