ブログに書いた、と思ったら、その記事が「日記」のほうに 行っていました。
どうか、2月16日の「深夜、ふと目をさますと・・・」の続きは<hib333zakkanの日記>でお読みください(2月16日の日記。いちばん下↓(最初)の日記です)
そこで、わたしは聖書の一言一句をすべて正しい、と考えることは「間違い」ではないか?という意見を述べました。
こういった疑問、疑念を抱くのは、新井白石の昔から、「聖書」を客観視できる日本人の特徴かもしれません。
しかし、それでも、今、日本人が直面している難題(なんだい)が、「キリスト教と経済」あるいは「キリスト教と新自由主義」の問題なのだ、と気づいている人は多くないようです。これは、キリスト教に対する知識、理解が浅いためでしょう。
それでも、それを的確にとらえている人たちはいるもので、そのことに触れているブログがいくつか存在しています。
『介護と経済、時々映画~フォレストの時事日記』さんのブログにはこんなことが書かれていました
→「米国経済の根幹にはキリスト教がある」
「世の中には神がいて自由にやらせたほうがうまくいく、という考え方があるので、」
「規制はゆるくする。税は少なく福祉も軽く自由にするべき」
そして
「人が裕福になれば心も豊かになり、投資もするだろうし社会奉仕に向かうだろう」
「となるのですね。これがいわゆる‘トリクルダウン理論’だった」
新自由主義の中核にトリクルダウンの考え方があるということがよくわかりますね。簡潔によくまとめられています。
さらに、この「新自由主義」を(キリスト教徒の少ない)日本に導入することの危険性をその「結果」まで見通して述べているブログが
www.geocitis.co.jp/BooK-Akiko/5151/link_3009.htmlエセ新自由主義の横行 さん です。ぜひこちらも読んでもらいたい。
それにしても、どうして日本人が
「(自分たちを犠牲にして?)お金持ちをどんどん儲(もう)けさせたら(お金持ちに富を集中させたら)、その恩恵で?自分たちも豊かになれる」
なんてことを、信じることができたんでしょうねえ?(笑)