何のために生きている?

と問われれば、もっと幸せな人間社会が見たいから

「売国の右翼、亡国の左翼」ということが

少し前のネットで言われていて、わたしなどは、「なるほど」と感心し納得もしたものですが、思ったほどにはこの言葉は拡散しなかったようです。

少しでも世の中やこの国のことを考えている(支配層以外の)人なら、誰もが感じていることだと思うんですけどね。

 

売国」の右翼勢力の人たちにも、旧態依然、ステレオタイプの左翼の人たちにも「カエルの面に小便」といったところで、この言葉は省みられることもなかったようです。

 

この言葉は言葉自体として「戦後政治」の本質を衝いているわけですが、「右」も「左」もまさにその「枠内」に納まっているわけで、

 

そんなことは「隠然」かつ「当然」のこととして、まさに小便をかけられたカエルのように、「?」「ナニ?それ(笑)」と、右翼蛙からも旧態依然カエルからも「無視」というか、(彼らの)問題意識とさえならずに(言葉が)消えてしまったのは仕方の無いことだったのかもしれませんね。

 

この事態を乗り越えるには、「戦後」だけに捕われるのではなく、「戦中」「戦前」、さらにはそれ以前、「日本」とは何か?何であったのか?というところまで考えを進める必要があるのではないかと思います。

 

市民的といいますか、「在野」の「学」あるいは問題意識においてはそういった方向に進んでいる人たちも少なからずいるわけですが、まだまだ「カオス」あるいは「混乱」の域にあるようにも見えて、「これから」の分野ではないかと思います。

(ただ、既存「左翼」さんにおいても、戦中・戦前にまで遡った地点からの「右翼」政権批判は行っているわけで、これは非常に有意義だと思います。

「右翼」の「創作歴史」に基づいた、妄想「明治」理想化論、戦前・戦中肯定論にはまったくついていけませんが(笑))

 

それにしても、幕末・明治に遡る「薩長閥有司専制政治」と「自由民権運動」の対立についてくらいは、もっと議論がなされていいんじゃないかな?

と思うのですが、それも弱い。

(いま山本太郎参院議員がやっていること(=直接街頭に出て民衆に呼びかける)はそれ(=自由民権運動)のDNAを受け継いでいるのかな?(^^)それにしても民衆の反応が「いまいち」なのが気になります。)

 

ということで、ともあれ?わたしはまた遠い昔から(笑) 

 

このあいだの秋篠宮さんによる

大嘗祭(だいじょうさい)簡素化」発言は「天皇制」の本質に関わる、かなり重大な意味を持つものだったと考えられるんですけど、「政府」からの反応は鈍く、大学教授などの「歴史学者」からの発言もあまり見受けられませんでした。

 

これは、「大嘗祭」について、あまり掘り下げてもらいたくない、という「国」の姿勢の現われでしょう。

 

     と、思ったので、「掘り下げ」てみたくなっちゃいました(笑)

 

大嘗祭」というのは毎年行われる「新嘗祭(にいなめさい)」の大掛かりなもので、新天皇の即位に際して、新天皇天皇位を受け継いだことを「証明」する重大な儀式だと考えられるのですが、

なぜ「新嘗祭」「大嘗祭」が天皇にとってそれほど重要な儀式であるのか?

ということですよね。

 

この問題はわたしの「日本の創建」に関する「私見」からは簡単に「解答」が出ます。

・・・スミマセン(あらかじめ謝って?おきます)(笑)

 

なぜ「新嘗祭」「大嘗祭」がそれほど重要なのか?

 

それは、この儀式が「倭」つまり「天智天皇」以前の大王家(=蘇我氏)と、「日本」天皇家つまり天武・持統天皇以降の「大和王朝」を繋ぐものだったからです。

 

・・・この国に「水穂栽培」、つまり「稲」=「お米」をもたらせたのは蘇我大王家につながる「倭」(倭族)です。

 

おそらく、というより、間違いなく「倭」においては稲作に関する「農耕儀礼」が最も重要な儀式(あるいは「祭り」)として行われていたはずです。

(「倭族」の「農耕儀礼」については、大陸南部や東南アジアの「倭族」を調査した鳥越憲三郎氏の著作に詳しく書かれています)

 

その「倭」の大王家の歴史は、唐=高宗による「倭」の「占領」・「倭の大王家(蘇我氏)の断絶」によって断たれるのですが、

さらにその高宗(天智「天皇」)-李忠(大友皇子)による「皇帝」体制をひっくり返したのが天武・持統の「天皇」体制でした。

 

この天武・持統の「天皇」体制は高宗=天智によって滅ぼされた「倭」の歴史を「日本」の歴史として(取り入れ)つなごうとします。

 

その方針のもとに書かれたのが「古事記」であり、「日本書紀」であった、

わけです。

 

「倭」の歴史を天武・持統から始まる「日本」につなぎ、そしてその始祖を天照大神(=武照(持統天皇の母親))を中心とする「神々」(「日本創建」にまつわる支配層)とすることで、「日本」の「歴史」は完成しました。

 

(卓越した歴史家でもあった新井白石は、日本の「神」(カミ)というのは「上」(カミ)のことだ、という「見解」を述べています。

日本における「神」(カミ)=「上」(カミ)。

頭(=身体で一番上にある)の毛を「カミ」(髪)の毛というのも、それ。

なんてことも言っています。)

 

 

大嘗祭」「新嘗祭」もそれまでの倭の「神」=「上」(=支配層)が行っていた儀式を、新しい「神」(=「日本」の支配者)が、自分たちにあわせて「(内容は)改変」して、引き継いだものと考えていいと思います。

 

「倭」あるいは「倭族」の農耕儀礼というか儀式においては「犠牲」「いけにえ」の存在があったようですから、この点はどうしても改める必要があり、今の「大嘗祭」「新嘗祭」の原型ができたのではないかと思います。

 

そうすると、「天皇」の「継続性」を証明する大嘗祭は、天武・持統時代から行われ始めた可能性が高い、ということになるかと思いますが、

確かに!

大嘗祭」という言葉が最初に現れるのは「天武二年」でした。

 

また、大嘗祭冬至の頃の「卯の日」に行われるのが通例になっていたのですが、この「卯(=ウサギ)」の日というのも「持統天皇」と何らかの関係があるのではないか、と考えています。

 

持統天皇の諱(いみな)はいま鸕野讃良(うののさらら)と書かれているのですが、「兎野讃良」とも書く、と注釈がつけられていることが多いようです。

 

わたしは元々は「兎野讃良」だったのではないか、と考えています。

持統天皇はどうも「兎」(ウ=うさぎ)にこだわっていたように思えるのです。

 

ただ、「兎野讃良」が、どう「大嘗祭」の「卯」の日に結びつくのかは、いまの段階ではちょっとわかりません。

 

ただ、この「卯の日」に大嘗祭を行うという慣例も、明治以降は崩されています。

明治政府というのは、どうもそれまでの「天皇」を「否定」している面があるんですよね。

明らかに「意図的」に。

 

たとえば、明治政府は称徳天皇が「藤原仲麻呂の乱」に際して、当時「天皇」であった人の天皇位と称号を剥奪、その存在を否定して「淡路廃帝」としてしか呼ぶことを許さなかった人に対して「淳仁天皇」という諡号(しごう)を贈り、歴代「天皇」のひとりに加えましたが、これは江戸時代までの政府、天皇家では考えられなかったことです。

 

また「壬申の乱」における「敗者」である「大友皇子」に対しても諡号を贈り、「弘文天皇」としています。

 

まあ、これら明治政府による天皇制の「改変」については後々語って行きたいと思います(けっこうな「問題」です)。

 

 

長くなっていますが、最後に「倭」の「犠牲」「生け贄」について。

 

大陸南部から東南アジア、インド近くにまで及ぶ「倭族」に農耕儀礼としての「犠牲」「いけにえ」があったことは鳥越憲三郎さんの研究に詳しいわけですが、

わたしは、この国でも「犠牲」「いけにえ」の儀式がある時期まで行われていただろうな、と思うのです。

 

稲作民族である倭族が捧げる「犠牲」は稲の「豊作」を願ってのものです。

農耕民族にとって最も恐ろしいのは(凶作などによる)「飢饉」(ききん)ですから、それを避けるためのものでもあったでしょう。

 

そこで、捧げられる「犠牲」とは何か、といえば、「人間の首」だったわけです。

 

「クビ狩族」が首を狩るのは、もともとはこの「農耕儀式」のためでした。

 

「日本人」も元々は首狩族です。

部族間の「戦争」(食糧不足その他経済的、社会的理由での戦争)でも首を狩りますが、捕虜、奴隷といった人たちを生かしておいて、儀式のために首を切るということもあったでしょう。

 

その際、犠牲にされた人たちは、「神?」に捧げられた後に再生すると考えられていましたが、その再生は人間ではなく「蛇」としてでした。

なぜならこの農耕儀礼の対象としての「神」は蛇であって、それに捧げられた犠牲の人も「神」=蛇として(新たな神として)再生するというわけです。

そして、その神によって「豊作」がもたらされる・・・

 

そういった「犠牲」は「日本」の天皇体制によって否定され(たぶん蘇我氏も仏教に帰依したことから殺生を伴う儀式はやめていたでしょう)ましたが、地方では根強くその習慣が残っていたと思われます。

 

スサノウによる八岐大蛇(やまたのおろち)退治の話を古事記が書いているのは、新政権が「犠牲」=人身御供を否定したことを意味しています。

 

ちなみに、わたしは古事記におけるスサノウのモデルを高宗と考えています。

高天原」=当時の「唐」の朝廷と考えるとわかりやすいと思います。

天照大神=武照皇后によって、高天原=唐の朝廷を追われた高宗がスサノウというわけです。

 

ひょっとして高宗は人身御供を行っている人々に対して厳しい態度をとったのかもしれませんね。

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いやあ、こうして話し始めるときりがありません(笑)

中途半端ながら、今日はここで切り上げようと思います。

 

最後に、

わたしは「日本」の始まりを当時の「唐」との関係を中心に話しているわけですが、この国の明治以降の政府、学者、マスコミは、この国に対する唐あるいは中国の影響をなるべく語らないようにしているようです。

 

これはまあ理解できなくもないことで、古代中国との関係を話の中心にすえると、どうしても「中国一元化」の問題が起きてくるのです。

 

古代アジア、東アジアにおける歴史、記録(文書)の分野では「中国」は圧倒的です。

日本や朝鮮にも古くからの歴史、文化があったわけですが、「記録」上ではどうしても中国中心主義、中国一元化に傾いてしまうわけです。

 

だから、明治以降の政府、学者(官立大学)、マスコミ(政・官・財の宣伝機関)が徹底的と言ってよいほどに古代中国からの影響を否定しようとするのはわかるわけですが、

「やりすぎ」ではないか?

というのがわたしの「立場」です(笑)

 

だらだらと長く書いてしまいました。

 

では次回、また。

 

 

現代ニッポン「差別」考  其ノ壱

とまあ、

一度こういう題名を付けてみたかったー(笑)

ということで、わたしなりに現代日本の「差別」について考えてみたいと思います。

 

かなり大きなテーマですので、「其ノ弐」「其ノ参」と、断続的に続いていくことになると思います。

 

この「差別」ということについて、今回を起点として取り組もうと思ったのは、

お仲間ブログの『おっさんやじいさんが過激に語り合うブログ』の11月29日の記事を読んだから。

 

ひとりの「庶民」・「弱者」の苦労、悩みのなかには、その人が生きている時代の「差別」が凝縮されている、

と感じたんですよね。

 

あと、わたしはその記事を読んで、差別には「二種類」あることに気づいたんです。

 

ひとつは部落差別や在日朝鮮人差別に見られるような、ひとつの大きな(あるいは権力を握っている)<集団(=支配階級)>からの、ある<集団>に対する身分的、社会的、経済的(職業)差別。

 

そして、もうひとつは「孤立した」あるいは「分断された」個人に対する差別です。

 

『おっさんやじいさんが過激に語り合うブログ』で語られているのは、この「個人」に対する差別の典型例のひとつではないかと思います。

 

じつは現代において深刻なのはこの「分断」され、「孤立」させられた「個人」に対する差別のほうではないか?

 

部落差別や在日朝鮮人差別に対する差別に対しては、その属性にいる人たちの団結が実現していますから、その「運動」によって将来への展望が開けているのではないかと思いますが、

「孤立」した「個人」に対する差別に対しては当人たちにはなすすべがなく、絶望的な状況下にあるのではないでしょうか?

 

その中で、今もっとも「暗黒」の差別にさらされている人々というのは、

分断され孤立した貧しい人々(経済的弱者)と身寄りのない人たちではないかと思われます。

 

そして、それらの人たちを「差別」しているのは、

経済界、政治家、官僚、メディア、そしてそういった支配層に疑問を抱くこともなく従う多数の日本人大衆であって、

その「体制」」から差別され、排除されている人たちにはほとんど「救い」がなく、まさに、「死に至る差別」の真っ只中にいるようなのです。

 

その「差別」の典型例は枚挙にいとまなく、少し前に経済界、自民党・維新の会政治家、官僚、メディアなどによって行われた「生活保護バッシング」は大掛かりにやられた例のひとつであった、といっていいでしょう。

(これは、日本の支配体制が意識的にそういった「差別」を行っていることの明確な証左となりました)

 

その結果、自殺(生活保護受給者など福祉関係の自殺は隠蔽・抹殺されると聞いています)、餓死(栄養の偏りによる死も餓死の一種だと思います)、凍死、悪い生活・住環境による発病、衰弱死が相次ぎ、千葉県では県営住宅の家賃が払えない状態だった母子家庭の母親が、裁判所の執行官によって追い出される直前に、中学生の娘を絞殺したなどという例もありました。

 

ちなみに、その母親は、検察と裁判所による憎悪に満ちた「復讐」とも思える重い刑を受けましたが、その時の千葉県検察のトップは、小沢衆議院議員冤罪事件の指揮をとった特捜部長だったそうです。

小沢衆議院議員といえば、「国民の生活が第一」をスローガンに掲げておられます。

 

その検察幹部は安倍政権でさらに出世したとのこと。

(安倍政権では、生活保護バッシングの片山さつきさんや世耕弘成さんも出世して、安倍内閣の大臣(現職)になっています)

 

ここまで書いてきて、ふと、わたしの背中に冷たいものというか悪寒のようなものが走りました。

そう、「差別」される「個」「個人」というのは、「弱者」の立場に落とされた庶民であって、誰もがそのような「最悪」の差別を受ける立場に落とされてしまう可能性があるのではないか?ということなんですね。

 

ただ、そこからこの問題に入っていくと、恐ろしく広く深いこの国の差別の「海」、構造のなかでおぼれてしまう可能性がある(わたしの能力を越える)恐れが大なので、ここはやはり個別の問題から入っていこうと思います。

 

差別の問題というのはいまのわたしの能力では「総論」で語るのは難しく、「各論」をひとつひとつ積み重ねていくしかないんですね。

 

 

そういうことで、今日は、現代ニッポンにおける、「身寄りのない人」への差別について。

 

いきなりこの人

f:id:hibi333zakkan:20181201175157j:plain どなたでしょう?

 

江戸時代=天保8年(1837年)に

ときの人民の困窮をみかねて、民衆を救う(救民)には、奉行(官)を討ち豪商(財)を焼き討ちしてお灸をすえる以外に方法はない、として「武力蜂起」した大塩平八郎さんですね。

f:id:hibi333zakkan:20181201180015j:plain←「大塩平八郎の乱」を描いた、当時の版画。

 

蜂起にあたって、大塩平八郎は全国の庄屋などに向けて「檄文」を送りましたが、

その「檄文」の冒頭⇒ 《四海困窮致候者永禄永くたへん、小人に国家を治しめば災害並び至と、昔の聖人深く後世、人の君、人の臣たるものを御戒置候故、東照神君も「“鰥寡孤独”において、尤もあはれみを加ふべく候、これ仁政の基」と被仰置候。然るに・・・》

 

=(四海の民が困窮し続ければ永禄(=天禄=天の恵み)が永く絶える、

政治に当たる器ではない小人(しょうにん)に国政をまかせると災害が次々に襲ってくる、

とは、昔の聖人が深く、後世の人の君、臣下たる者にいましめおいたところである。

 

東照神君徳川家康公)も「(世の中でもっとも不利な立場にある)よるべもない“鰥寡(かんか)孤児”などに最もあわれみを加えることが仁政(じんせい)の基(もと)だ」といわれた。然(しか)るに・・・)

 

ここで、“鰥寡孤独”とある、

 

「孤独」とは孤児のこと。

「鰥」(かん)とは、年老いて身寄りのない男やもめのことです。

また、「寡」(か)とはやはり年取って夫のいない女性の事で、今でも「寡婦」などという使い方をしますよね。

 

現代というか明治以降の“財閥官僚資本主義国”ニッポンの体制は、これら社会的にもっとも不利な状況にある人たちをそのまま最底辺として踏みつけ差別し、虐待することで成り立っています。

日本流社会ダーウィニズム=日本流「生存競争」の論理に基づいている、というんですかね。

 

日本の多くの一般民衆の意識にもこの(弱者に対する)「差別」は根付いているようです。

日本人はお上(かみ=財・政・官)による差別をそのまま自分の差別意識として根付かせ、「育て」ますからね。

 

したがってこの国においては「弱者が弱者を差別する」傾向も非常に強いものになり、トップから「末端」に至るまで「差別」の構造が一貫して徹底したものになります。

 

と・・・書いていて、うーん。やはり深い「差別」の海に入り込んでしまうなあ。

日本の支配体制、日本社会、日本人の意識・・・

 

やはり、現代日本の支配体制の問題がいちばん大きいと思うんですけどね。

 

ある意味、日本の歴史は「差別」の歴史ということもいえ、江戸時代の差別もひどいものでしたが、

それでも「最弱者」への配慮については、明治以降現代に至る長州閥&財閥官僚支配体制よりは江戸時代のほうがマシな部分がある?ようです。

 

たとえば、日本の支配体制の特徴ともなっている「保証人制度」「連帯保証人制度」ですが、これも江戸時代にあっては、身寄りのない者などに対して、村の世話人、有力者が「保証人」になるところからはじまったもののようです。

もともとは「弱者救済」の意味から始まったものだったんですね。

(もちろん、それによる「縛り」の面もあったと思います。)

 

それが明治~現代の日本においては、(保証人・連帯保証人制度は)資本家(金融・不動産)の利益と官(お役所)による「縛り」の手段になっています。

 

「保証人」も主にその人の「親族」がターゲットになっているようです。

現代日本の親族、地域コミュ二ティの崩壊に伴って、それを「サラ金」の延長ともいうべき「保証会社」「管理会社(不動産)」などに変えていっているのは『おっさんやじいさんが過激に語り合うブログ』に書かれていたとおりです。

これは「移民時代」に備えたものでもあるでしょう。

 

・・・しかし、日本の「差別」利権・秩序構造は世界を悪くしますねえ)

 

 

 

・・・いやはや、まったくまとまらないというか、

書いていても苦しいんですから、読むほうはもっとタイヘンでしょう・・・

 

日本の「暗黒」面がこれでもかというくらいぞろぞろと出てくる問題なんですから。

「暗黒」面なんて誰も見たくない、目を背けたいですよね。

 

しかし、われわれの直面する「矛盾」「理不尽」「悩み」「苦しみ」の多くがこの「差別」に起因するわけですから、目をそむけてばかりではいけないんですよね。

 

ということで、今回はまとまらないままの尻切れトンボで終わります(ナサケナクモ~笑)

 

いやー、苦しい。辛い。悲しい。。。

でも、続けます。

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負けないぞ!(笑)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

8世紀初頭、「日本建国」に際しての,

「歴史」創作の時を除いて、

日本史上最も歴史の改ざん、隠蔽、抹殺が、行われているのが「明治~現代」のこの時代でしょう。

 

油断もスキもあったもんじゃない(笑)

というのは、少しでも歴史を掘り下げた人なら誰でも感じることだと思います。

 

明治時代、「日本の歴史」を隠蔽、改ざん、抹殺する役目を担ったのが東京帝国大学で、日本統治時代の朝鮮の史書の改ざんをやったのが京都帝国大学なのだそうです。

 

わたしが日本の古代史を調べるときに、朝鮮の史書をあまり重要視しないのはこのことが頭の隅にあるからです。

 

その反面、朝鮮の古墳、古跡から出てくる遺物は非常に重要だと思います。

 

最近、

朝鮮の墳墓から、百済と倭が唐と戦っている頃に倭の大王が唐に捕らえられて、唐に連れて行かれた、というようなことが書かれた墓誌が出土した、

という記事がネットに載っていたらしいので、このあいだからずっと探しているのですが、見つかりません。

 

わたしは倭の大王が唐によって捕われた、というのはかなり可能性の高い話だと思っているので、是非その墓誌だか墓碑銘だかの文章を知りたいのですが・・・。

 

倭の大王が捕われた、ということについて、日本書紀で気になるのが、このブログで前にも触れた「斉明天皇七年」(661年)の「大笠を着た鬼」の記事です。

この年の7月に斉明天皇は朝倉宮で亡くなるのですが、

→ 『八月の甲子(かふし)の朔(一日)に皇太子(ひつぎのみこ=中大兄皇子)、天皇の喪(みも=柩(ひつぎ))を奉徒(うつしまつ)りて、還(かえ)りて磐瀬宮(いはせのみや)に至る。

是(こ)の夕(ゆうへ)に、朝倉山の上に、鬼有りて大笠(おほかさ)を着て喪の儀(よそほひ)を臨(のぞ)み視(み)る。

衆(ひとびと)、皆(みな)磋怪(あやし)ぶ。』

(八月一日に、皇太子(中大兄皇子)は(斉明)天皇の柩(ひつぎ)に付き添って、磐瀬宮に帰り着いた。その夕方、朝倉山の上に大笠を着た鬼が現れて、喪儀を見つめていた。

人々はみな怪しく不思議に思った。)

 

わたしは、この斉明記の終章に出てくる「大笠を着た鬼」というのが、百済から渡ってきた王文度(=のちに藤原鎌足)ではなかったか、と思うのです。

そして、皇太子(=中大兄皇子)は王文度の唐軍によって捕らえられたのではないか?

 

おそらく、このときの中大兄皇子蘇我入鹿です。

(もしかしたら、捕らえられた倭の大王というのは父親の蘇我蝦夷だったかもしれません。)

 

この頃、百済では唐と新羅の連合軍と百済軍の激しい戦闘が行われていた、と、旧・新の「唐書」は書いているのですが、この百済軍というのは、百済と倭の連合軍であったはずです。

百済国内で続いた激しい戦闘に倭軍の存在が無いのは不自然です。)

 

日本書紀」や旧・新の「唐書」では白村江の戦いで倭と百済の軍が敗れた事が倭の決定的な敗因であるとなっていますが、その前からずっと激しい戦闘が行われていて、その結果、百済も倭も滅びたのです。

白村江の戦いについては、今の段階では、あったともなかったともいえません)

 

その結果、百済は亡国、倭は無条件降伏?ということになって、

進駐軍とともにやってきた皇帝=高宗の断によって、倭の次の大王たる蘇我入鹿は処刑された、ということなのだと思います。

 

 倭の大王を殺し、この国の絶対的な支配者となった高宗が、天武・持統時に確立された「日本」の歴史を作るにあたって、「中大兄皇子天智天皇」になりすまされることになったわけです。

 

天智天皇(高宗)の「内大臣」であるカマタリ(熊津(クマナリ)都督=王文度)は内大臣に近いニュアンス(?)の中臣氏の出自ということにしました(=中臣鎌足)。

昔からこの国にいたよ、ということでないとマズイですから(笑)

したがって、カマタリ氏(=王文度)の系統は藤原氏になりましたけど、中臣氏が藤原氏に変わったわけではないわけで、旧来の中臣氏が繁栄したということではないんですね(笑)

 

現在の「歴史」の「常識」?からすると、荒唐無稽の説のように思われるかも知れませんが、案外かなりの部分が当たっているんじゃないか?とわたしは思っています。

少なくとも、いま公で語られている「歴史」よりは矛盾点が少ない、というか、中国の歴史書などに照らし合わせても整合性があるんじゃないかと。

 

ちなみに、この「大笠を着た鬼」のいた朝倉山は九州北部の山だと考えています。

 

ここで、天智天皇こと、高宗のことなんですけど、

わたしはこれまで高宗は唐に帰ったのだと思っていました。

王文度(中臣鎌足藤原鎌足)が暗殺されたことで、「もはやこれまで」、

この国にいることは危険と判断して、迎えの船に乗って帰ったのだと。

 

古い言い伝えに、天智天皇は馬に乗ってどことも知れず走り去ったという話があります。

おつきの人が後を追ったのですが追いつけず、後(あと)には天智天皇の靴だけが残された。

そのまま天智天皇は帰ってこなかったので、天智天皇の墓には、靴だけが納められている、というものです。

天智天皇の墓は靴墓と呼ばれています)

 

しかし、唐でその後も続いた武照皇后による「垂簾の政」(大人の皇帝に垂簾の政はないでしょう。唐にいた高宗は明らかに、実権のない影武者です。)、天智天皇の「最後の年」に来て比知島(巨済島南西の比珍島といわれる)に停泊していた唐の大船団(郭務悰の率いる47隻2千人の船団)のふるまい(日本書紀)、などを見ると、どうも、高宗が唐に帰ったとは考えにくいんですよねえ・・・???

 

 武照皇后が皇帝になるとき、

 武照皇后のパートナーといってもいい存在だった李勣の孫の李敬業が反乱の兵を挙げます。

そのとき、檄文を各州県に送付するのですが、その檄文の概略が11世紀に書かれた歴史書資治通鑑」に載せられています。

 

その檄文の中には

『君(高宗)を弑(しい)し』

と、武皇后が高宗を殺したということが、当たり前のように書かれているのです。

 

この檄文はなかなか穿っていて、

他にわたしが気になった部分としては

 

『先帝(太宗)との私事(秘密の行為)を隠匿(いんとく)し、~ わが君(高宗)を禽獣(きんじゅう)の醜行(しゅうこう→父と子が同じ女性と交わること)に陥れた』

 

というのもあります。

当時「太宗は武照に手をつけなかった」とされていた(のちの正史の歴史書でもそうなっている)ことが違っていることを暴露しています。

 

わたしはBIGちゃんねるの「日本史スレ」に、持統天皇は太宗の子どもである可能性もある、と投稿していたのですが、それはこの檄文を読む前だったので、思わずニヤリとしてしまいました(笑)

 

ともあれ、唐の影武者が殺されたかどうかは別として、この国にいた高宗(天智天皇)は暗殺された可能性が高いのではないか?

と、わたしは考えています。

 

 

・・・しかし、こう書いていても、ドロドロ不条理なものを感じるばかりですっきりしませんねえ・・・

たぶん、ほんとうの歴史というのはそういうものなんでしょう。

 

ただ、権力内部ではいろいろあったとしても、武照皇后(即位後は「聖神皇帝」。最初の元号は「天授」)の政治は庶民にとっては善政でした。

 

(武照皇帝の「酷吏」(=こくり→ムゴイお役人)は有名ですが、この「酷吏」は権力内部を取り締まったもので、庶民を取り締まるものではありませんでした。

この点、日本の「酷吏」=官僚・公務員さんとは正反対ですね(^^;)

財・政・官・メディアみんな仲良くして庶民をやっつけましょう、弱者虐待しましょうというようないまのニッポンの状況はイヤです(笑))

 

武照皇后が皇帝になったのと同じ年に日本で天皇に即位した持統天皇も唐の制度、思想を取り入れて先進的な改革を行いました。

 

「人民にとっていい政治をしてくれた権力者がいい権力者」という観点からすれば、武照皇帝も持統天皇も、どちらかといえばいい権力者だったと、わたしは評価しています。

 

なんだか、だらだらと長くなりました。

次回はもっと整理して読みやすいものにしなければ、と反省しています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

いやあ、この頃なんだか身の回りがごたごた

していて、なかなか記事が書けないでいます。

 

実は、わたしがここで述べようとしている「歴史」は、「BIGちゃんねる」という掲示板の「学問 - 日本史」スレに、わたしとお仲間が書き込んでいたもののダイジェストに近いものなのです。

 

まだその掲示板は見れるようなので、わたしの記述が遅れている間、そちらのほうを読んでいただけたら、と思います。

 

「倭」を滅亡させ、この国を、武照皇后体制で唐帝国に居られなくなった自分?と長男のための新帝国にしようとした唐の皇帝=高宗。(長男は元皇太子の李忠)

 

後に書かれたこの国の「歴史」では、高宗が天智天皇に、李忠が大友皇子になりすまされてしまうわけですが、

その高宗ー大友皇子による帝国の夢が、武照皇后の長女である「持統天皇」と、近畿地方から山陰にかけての大王であったオオアマ(天武天皇=先祖は新羅から渡ってきた鮮卑族につながる王族)によってひっくり返され、天武ー持統体制でこの国は「日本」と国号を改め、唐の武照皇后が理想とした「仏教国家」を目指すわけです。

 

その天武ー持統体制の最後の天皇孝謙称徳天皇だったわけですが、その死とともに起こされた藤原氏のクーデターによって、天武、持統の血統は一掃され、再び天智天皇(高宗)系の天皇の体制になり、この「天智系」の系譜が現代まで続くことになります。

藤原鎌足が何者であるかは、過去のこのブログでも触れています)

 

そこまでのことが、「BIGちゃんねる」の「学問ー日本史」スレに書かれています。

今でも、それほど大きな修正の必要は感じていないので、「フーン」と言う感じで、軽く読んでいただけたらいいな、と思います(^^;)

 

このブログでも、新たな内容を付け加えつつ、ダイジェストというか、話の筋を追いつつ(掲示板を読んでもらえるかどうかわからないので(笑))

その、

天智天皇=高宗、大友皇子=唐の元皇太子=李忠、持統天皇=高宗と(太宗の後宮にいた)武照の間に(太宗在位中(645年)に)できた長女(形式上は不義密通?の子供)、そして天照大神=武照皇后』説

を進めていきたいと思っています。

 

ただ、そこでほとんど語られていないのが「明治維新」の問題です。

こちらも、「日本」建国と同じくらいの大事件で、ある意味これで「日本」が「日本」ではなくなった、という見方もできるくらいなのですが・・・

これもいずれ、本格的に取り組んでいくつもりですが、今日はほんのさわりのようなものをを一つ二つ。

 

わたしは「明治維新」は「元祖グローバリズム」といいますか、東インド会社に乗っかった欧米資本主義国列強による開国要求によるものであり、これは必然、というか、(体制の変革は)行われるべくして行われたものだ、とは思っています。

(「開国」要求のペリー艦隊は東インド会社の所属です。)

 

もし、徳川幕府が続いていたとしても、明治維新のようなブルジョア革命は(形は違え)行われていたのではないでしょうか?

(このとき、徳川幕府の後ろにフランス、薩長の後ろにイギリスがいた、というのは有名な話です)

 

まあ、この話も、(戦後との関係も含めて)おいおいやっていくとして、きょう触れておきたいのが孝明天皇

f:id:hibi333zakkan:20181026214252j:plain 暗殺。について。

 

幕末における「尊王攘夷」の「尊王」とは孝明天皇のことなんですよね。

 

明治以降、意図的にイメージが変えられたのかどうかわかりませんが、案外そのことが忘れられていて、いまでは幕末の尊王明治天皇であるかのようなイメージをいだいている人が多いようです。

 

尊王攘夷」運動に見られるように。孝明天皇東インド会社を中心とした欧米資本主義国列強に対する全面的開国に危惧あるいは懸念を抱いていたことは事実だと思います。

 

孝明天皇は非常に優れたというか、英明な天皇だった、と言われています。

 

当時の幕府もそうですが、皇室も天皇もバカじゃありません。

海外の情勢も、資本主義列強の性格、本性もよくわかっていたと思います。

 

その上で、孝明天皇は「開国」に懸念を抱いていたわけです。

おそらく、欧米列強の言うなりになれば、国が危うい、あるいは国が無くなる(植民地支配も含めて)恐れがあると考えていたのではないでしょうか?

 

そうでないと、インドを植民地支配していた東インド会社、プラス欧米列強国といった、当時(から)の世界支配勢力に対して、抵抗の意志を見せるはずはないと思います。

 

幕末時、日本の精神的中心はすでに天皇孝明天皇に移っていました。将軍も天皇に対して従う意志を持っていたというか、臣下としての立場を明らかにしていました。

 

この天皇の存在は欧米列強にとっては手ごわい存在と思えたでしょう。

この先の交渉などでも邪魔になってくる・・・

 

ということで、王様処刑の歴史を持つ欧米資本主義(ブルジョア)列強と薩長による、「孝明天皇暗殺」計画が作成された、と、わたしは考えているわけです ヽ(^皿^)

 

かなり以前(10年以上前?)、わたしは、今は無くなってしまった掲示板に、「孝明天皇暗殺の真実」を投稿していたことがありました。

 

その内容は

孝明天皇はお手洗いに行った際、縁の下に隠れていた暗殺者によって刺されて死んだ』

というもので、その根拠となる資料は、歴史家・歴史小説家の村雨退二郎さんの随筆と、もうひとつ別の文献(名前は忘れました)で、孝明天皇の側近として仕えていた人の目撃証言と、死亡の際よばれた医師の証言によるものだったと思います。

そのとき、孝明天皇は激しく出血。廊下を血だらけにしながら自分の寝室に帰り、そこで息絶えたといいます。

医師がその刺傷痕を見て驚いていると、次の部屋との間の襖がスッと引かれて女官が顔を出し、ニヤリと笑ったとか・・・。

 

このときの投稿のテーマは、“暗殺者は消されるのか?それとも権力者への道を歩むのか?”ということで、

その、天皇の暗殺者が日本の初代首相になったのではないか?、というものでした。

 

初代首相、それはいうまでもなく伊藤博文です。

伊藤博文はもともと「利助」という優秀な忍者で、暗殺の技術も抜群でした。

 

わたしは、当時の長州には相当数の忍者がいたと考えていて、それが情報戦で幕府を上回ることのできた要因だと考えています。

その忍者は関ヶ原の戦いで破れた勢力に属していた人たちで、「利助」の系譜は真田忍者の流れではないか?と推測しました。(詳しくはまた・・・)

 

ともあれ、御所のトイレ近くの縁の下に潜んでいて、手を洗おうとした孝明天皇を刺したのが伊藤博文(このときは伊藤俊輔)だということで、

根拠となる資料は上記のものなどに加えて、

「自分は孝明天皇の仇も討ったのだ」と裁判で叫んだ、伊藤博文暗殺犯(?と言われている)安重根に関するエピソード、等、でした。

徳川幕府支持のアンチ明治政府だった(併合前の)朝鮮では、孝明天皇暗殺に関する情報が語られていたのではないでしょうか?

 

この話はそれっきりになっていたのですが、このあいだたまたま手にとって見た本に、それとほぼ同じ「孝明天皇刺殺説」が書かれてあって驚きました。

犯人も暗殺時の状況もほぼ同じでしたが、その話のルーツは将軍から孝明天皇暗殺の調査を命じられた幕臣、ということでした。

その幕臣も襲撃されて暗殺されかかったということですから、恐ろしい話です。

 

ただ一点、この本の著者さんの推測として、暗殺に使われた凶器は(今も残っていて人を斬った脂の残る)伊藤俊輔の忍者刀ではないか?ということでしたが、

これは、わたしが見た資料によって掲示板に書き込んだとおり、「手槍」(てやり)(=短い槍)、でしょう。

 

伊藤俊輔は手槍の使い手でもありました。

縁の下から突き刺すには、忍者刀は不向きです。また、そんなものを持っていれば逃走の際、不便です。

その点、手槍だと、急所を深く刺すことができますし、長さの調節ができて、帰りには分解して隠すこともできますから。

              f:id:hibi333zakkan:20181027002727j:plain

ともあれ、この事件の調査をした幕臣の証言が残っていたと言うのは驚きでした。

(・・・ということは、徳川慶喜はそのことを知っていた?

徳川慶喜という人もたいへんなタヌキだったのかもしれませんねえ・・・

                              ヽ(°○°)ノ)

 

こうしてみると、明治以降の日本の支配層には天皇への尊敬など無かった。

天皇を絶対化したのは、自分たちの権力・利権、支配体制を絶対化して国民を押さえつけるためだった、ということがよくわかるんじゃないでしょうか?

 

(明治維新については、明治6年の「政変」以降の反動の過程(裏切られた革命?)も、しっかりと見ていかなくてはいけない、と思います)

 

その薩長官僚支配体制が今も続いている、ということなんでしょう。(いまの世の中を見れば・・・明治以降は天皇もお仲間???とりわけ、昭和天皇薩長天皇といっていい存在ではなかったでしょうか?)

 

ともあれ、とても面白い本だったのですが、(その部分の話の内容に釘付けになって??)本の題名も著者も忘れてしまいました!

著者はかなり有名な人だったように思いますので、この本を読んだ方も多いんじゃないかな?とは思うのですが・・・

 

長くなりました、          また。

 

 

 

 

 

 

虚偽の歴史に基づく妄想

が、世界や日本の“悲惨”の原因となった、あるいは、なっている、ことは間違いないことだと思います。

 

しかし、「虚偽」の全く無い「歴史」が可能なのかどうか?

これは難しい問題だと思います。

 

たとえば、勝海舟は歴史の研究家としても、なかなかのものでしたが、明治「維新」後、「国」によって「歴史」が次々に書き換えられていくのを目にして、

「(その歴史の当事者でもあった)オレたちがまだ生きているのに・・・」

と、呆れ、

「歴史とは難しいものだ」

と、「歴史家」としての感慨をしみじみ語っています。

 

まあ、時の支配者層による「歴史の書き換え」は不可抗力としても、

われわれ庶民層においてさえ、「有力者」や「住民の大勢」の思惑によって事実が曲げられ、それがそのまま通用して伝えられていくということは、よくあることではないでしょうか?

 

また、そんな「作為」がなくても、「伝言ゲーム」でもよくわかるように、人々が口から口へと伝え合っているうちに「事実」とは全く違ったものが「事実」となってしまい、それが「歴史上の事実」として残っていく場合もあるかもしれません。

 

こうなると、もう、「歴史とはなんだー!」と言って目の前の「歴史書」を空中に放り投げたい気持ちになってきますが、

それでも、わたしの、あるいはわれわれ人間のアイデンティティの問題として「歴史」の探求はやめられない。

「歴史」は人間が人間としてある上で、必要不可欠なものなんですよね。

 

けっきょく、われわれにできることといえば、資料の発掘などを通じて、なるべく「事実」に近いものを探り出していこうとする、「事実」「真実」に対する誠実な姿勢を持つこと(科学的手法?)と、

しっかりした「歴史観」と「哲学」によって、「歴史」を「人間的真実」の面から分析、判断していくこと、でしょうかね?

 

 

 

そういう意味では、「資本主義」の「歴史」の「事実」「真実」を容赦ないほどの「誠実」さ、正確さで明らかにしていったマルクスは、最高の歴史家と言っていいでしょう。

f:id:hibi333zakkan:20180926045808j:plain 人類史上有数の歴史家ですよ。

 

しかし、マルクスといえども神ならぬ人間。

しかも、19世紀の人間です。

今では、多くの「修正」「補完」が必要とされるでしょう。

 

わたしなんかも、学生時代に「マルクス主義者」たらんとした時期があるのですが、

権威を持って教えられたことは、なんでもまるまる覚えこみ、受け入れることのできる秀才系のアタマを持つことのできなかった、劣等生系のわたしには、どうしても理解することのできないことがありました。

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たとえば、「プロレタリア独裁」という言葉。

「独裁?えーっ?独裁ってダメじゃん」

ということで、当時行った、ある新左翼系の講演会で、講演者の「マルクス主義の理論家」の人に

プロレタリア独裁って何ですか?王様やヒトラーの独裁とどう違うんですか?」

と聞いたことがありました。

講演者の人は、(なんでこんなバカがここにいるんだ?)と思ったことでしょうが、やさしく、「プロレタリア独裁とはね、特定の個人の独裁ではなく、プロレタリア総体の独裁のことを言うんだよ」

と教えてくれました。

「ああ、そうですか」

と、そのときは「納得」したのですが、後でよく考えると、

「プロレタリア(階級)総体の独裁?それって独裁というの?・・・独裁??は?」

 

この疑問は今でも消えていません。※

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だいたい、わたしは「プロレタリア」とは何か?

それもよくわかっていませんでした、(これも、今なおわかりません・・・)

 

「プロレタリア」とは何か?どんな人たちをいうのか?

 

たとえば、マルクスの初期の著作である「ヘーゲル法哲学批判序説」には、こう書かれています。

 

→『(~ (資本家&国によって)ラディカル(根源的)な鎖(くさり)につながれた階級 ~

 ~ 普遍的な苦痛のために普遍的な性格をそなえた階層 ~

 

自らにうけた不正が、特殊な不正ではなく、不正そのものであるために、いかなる特殊な権利も請求できない階層である。

歴史的な資格に訴えることができず、もはや人間としての資格に訴えるしかない階層である。

すなわち社会の自分以外のすべての階層から自己を開放し、それによってこれらのすべての階層を開放しなければみずからを解放することのできない階層である。

 

要するに、人間性を完全に喪失(そうしつ)しているために、自己を獲得するためには、人間性を完全に“再獲得”しなければならない階層 ~

このように一つの特定の(抑圧された?)身分として社会を解体する階層こそが、プロレタリアートである』(訳文引用:光文社版)

 

もちろん、これは19世紀ヨーロッパ(ドイツ)の社会状況を背景にした分析なわけで、

では、21世紀における「プロレタリアート」とは何か?

ということは、マルクスの「原則」を考慮しつつ、21世紀に生きるわれわれが新たに分析していかなければならない問題でしょう。

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ただ、(プロレタリアを階層としてとらえた)マルクスの記述のこの部分は、わかりやすいのですが、

後に書かれた「共産党宣言」を読むと、やや「プロレタリア」のイメージが違ってくるんですよねー。(わたしだけかな?)

 

共産党宣言」は「共産主義革命」のマニフェストとして、「共産主義」に対する偏見、誤解などに対する明確な回答というか反論などがあるキレキレの内容で、そういったところは好きなのですが、

どうも「ヘーゲル~」におけるより「プロレタリア」の概念が少し狭まっているような気がするのです。

 

翻訳の問題もあるのかどうかわからないけど(原文を読んだことがないもので・・・)、

こちらでは「労働者階級」というものが強調される。

実際に企業、工場などで資本家に使われている「労働者」が「プロレタリアート」として、「革命」の主体となる。

と書かれているようにわたしには思われるんですよねえ。

 

実際、そうなんでしょうが、ここで「ルンペンプロレタリアート」なるものが出てきます。

たぶん、「労働者階級」からの「落ちこぼれ」ということで、「労働者階級」のプロレタリアートとは区別され、またその存在のあり方が「否定」というか「批判」されていることで「差別」もされているわけですが、

「ちょっとちょっと、プロレタリアート内部で「差別」してどうするんだ?」

というのが、率直なわたしの感想でした。

 

このあたり、どうも、マルクス

 

(当時のマルクス主義の運動なるものに対して)

『あんなものをマルクス主義というならわたしはマルクス主義者ではない』

 

と言った、その「マルクス主義の運動なるもの」に妥協した、あるいは「影響された」ものではないかな?

と思えるんです。

 

この「プロレタリアート内」の「差別」もわたしが今なお納得できていない問題なのです。

        f:id:hibi333zakkan:20181009164137p:plain


その他、「マルクス主義」についていくつかの「疑問」を感じつつも、やはり、貧乏人のわたしとしては「資本主義」よりも「社会主義」のほうがいい(笑)

 

ソ連が潰れて、いまや全地球が資本主義一色。

そこで資本家がその本性をむき出しているいま、わたしのような貧乏人は当然として、99%の人類は「プロレタリアート」といっていい状態なんじゃないか?

と思うんですけどね。

 

前回触れた宇野弘蔵さんなんかも、「より高い立場から」

『~ 社会主義の主張は大体正しいと思っていたのは本当だ。

それは人間が自分でつくったものに支配される社会からの開放を求めるというのですから、人間として当然の望みでしょう』

と語っておられますが、

 

幕末、明治以降の日本の「資本主義(これには当然、「世界」との関係も含まれるでしょう)」の歴史をマルクスなみの誠実さと調査力・分析力でぶち抜いて、現代の日本の政治、体制の正体を明らかにして、社会主義の再興と実現を確固としたものにできるような「歴史家」が現われないものでしょうか?

そんな、日本の社会主義の「再興」を心より願っております。

 

・・・ともあれ、わたしは、何か役に立ちそうな?「事実」「真実」を求めて、「歴史」の中から落穂ひろい(笑)

 

※ 「プロレタリア独裁」に関しては、「共産党宣言」に

 

『~(プロレタリア階級が)革命によって支配階級となり、支配階級として強力的に古い生産関係(=資本主義的生産関係)を廃止するならば、この生産諸関係の廃止とともに、プロレタリア階級は、~ 階級としての自分自身の支配を廃止する』

 

とありまして、「プロレタリア独裁」とは、資本主義的生産関係を共産主義的なものに変えるための、一時的な独裁のことだ、と書いてあるわけですが、

それでも、その場合にでも「独裁」には抵抗がありますねー。

 

また、その「プロレタリア独裁(?)」が解消された後の社会はどうあるべきなのか?どうなるのか?

これもはっきりとはわからない、というか、「理想」が示されていないのです。

「理想」などという観念的なもの自体がナンセンスだ、ということなんでしょうか?

 

共産党宣言」には、「資本主義的生産関係」を「変革(革命)」するための指針のような「諸方策」が「10項目」上げられていますが、これを見ても、正直、明るく幸せな世の中は見えてきません(^^;)

しかし、19世紀資本主義社会という、庶民にとって地獄のような労働環境、社会情勢からすれば、それらの10項目の政策(「共産党宣言」(岩波版)P68~P69参照)が実現されれば、「地獄からの開放」にはなったと思います。

現代社会では、その多くが修正を余儀なくされると思いますが。

 

ただ、項目の①の「土地の国有(国民共有)化」は、いま現在の資本主義国日本においても、早急にやるべきことのように思いますね。

「所有権」を「使用権」に変えるとかして。

 

「空き家」や「国民の住環境」の問題その他もろもろ、国の存亡に関わる喫緊の課題だと思うんですが・・・

共産党さん、これをマニフェストに掲げません?

 

 

 

 

 

 

 

テレビは天気予報以外、まったく見なく

なりました。

 

改憲シフトというんですかね、全てのテレビ局が安倍自公政権の意向に沿った番組作りをやっているような状況です。

 

今こそ国民全てが、国のあり方について、正しい情報に基づいて、必死になって考えなくてはいけない、と思うのですが、

これまで、国民の意識に根を張ってきたマスメディアが一斉に「愚民化」路線をとり、国民の議論の足を引っぱっています。

 

目も耳も塞がれている国民。

微かに、ネットでなんとか事実、真実を伝えようとしている人たちはいますが、その「良心の叫び」も国民全体からすれば少数派で、ネット規制の強められている今、風前の灯となっているようです。

 

それにしても、革新陣営、99%の立場に立つ政治勢力って、こんなに力が弱かったっけ?

 

世界的にもそういう傾向はあるようですが、とくに、顕著なのが日本でしょう。

ひょっとして、この世界的な「民主主義の後退」はこの国が原因ではないか?

最近、そんなことを思い始めました。

 

「1%のための世界」

 

今の世界の支配層はそんなことを考えているようで、その中心に近いところにこの国があるような気がします。

 

・・・あるいは、「そういう世界、社会のモデル作り、実験場」

この国で「成功」した「制度改悪」「人民弾圧」「人民管理」、被支配人民はどこまで「悪政」に耐えられるか? を、

まず、奴隷的民族、家畜的人間である日本人で実験してから、世界に「応用」していく。

 

・・・それだと、「外国」の陰謀のように思われますが、

いやいや、それだけではないでしょう。

 

問題は、日本の「支配者」、「支配層」にもあるのです。

 

99%の人民の利益を損なう「改憲」を目論む政党が、「違法性」の臭いをぷんぷんさせながら半独裁体制を作り上げている現状ですが、

なぜ、そんなことがまかり通るのか?

ということを理解するには、日本では、やはり「歴史」から見ていくしかないのではないでしょうか?

 

そのとき大事なのは、「虚偽の歴史」にダマされないこと。

 

「歴史」といっても、それが支配者のためにする虚偽の歴史であっては、どうしようもないわけで、

というか、そんなものに騙され続けていたら、決定的に誤らされ、われわれ民衆が地獄に落とされちまうんじゃないでしょうか。

 

そのためには、事実を必死に追い求め、とことん考え抜く必要があるのです。

 

いまの日本で、そういう苦しい作業を行っているのは、在野の歴史学者さんたちでしょう。

大学教授やマスコミなどにはほとんど期待できない、というのが現状なのです。

 

政府、体制に養われている(身分を保証されている)大学教授、支配体制に忠実であることによって企業から大金をもらっているマスコミ。

そんなものには、はなから期待することはできないでしょう。

 

日本には、いかにももっともらしく「虚偽の歴史」を垂れ流すNHKというたちの悪いプロパガンダ屋、洗脳屋もいます。

(民放は騙す以前に、自分たちも虚偽を信じさせられている単なるばかですが、NHKはそこらへんのところを知っていてやっているからタチが悪い)

 

日本人がおかしくなっているのは、そういう「意図的に」作り上げられた「虚偽の歴史」をとことんインプットされているためかもしれません。

 

「事実」「真実」に基づいていれば、人間はそうおかしな方向にはいかないものですよ。

 

そういう「在野」の歴史学者のひとりに最近亡くなった古田武彦さんという方がいます。

「九州王朝説」であまりにも有名な人ですが、その著作の多さにも関わらず、中央?の学者さんたちからは完全に無視されてきました。

 

わたしは古田さんの著作をそう多く読んだわけではないのですが、古代、九州に「日本(倭)」の中心があったという説には賛成です。

常識的に考えれば、そうなりますよ。

 

ただそれを「王朝」と言ったところが中央(国)の学者さんたちの「拒絶」を招いたかな?とは思っています。

いまの「天皇制」と関係してきますからね(笑)

 

わたしは、「この国」の中心が九州にあったのは「壬申の乱」まで、と考えていたのですが、古田さんは、701年まで、としているようです。

そうすると、「倭」の首都は最後まで九州、「日本」という国の「始まり」とともに首都も近畿に移った、ということになりますか?

 

わたしが、「うーん」となるのは、蘇我氏の作った大きなお寺が、701年よりも前から近畿にあること。

わたしは、倭の大王家である蘇我氏がその中心勢力を九州に置きつつ、近畿大王家との妥協で、近畿に倭の首都を置いていた、と考えていたのですが、

 

しかし、「移築」の可能性もあるんですよね。

九州から近畿に「移築」。その考え方は持てなかった。

さすがによく調べられているな、と思いました。

f:id:hibi333zakkan:20181004020639j:plain 飛鳥大仏。いずれ触れるかと思います。

 

ともあれ、いまわたしは「明治以前」の日本の歴史をなるべく事実に近いところで理解して、明治以降の日本を考える基礎としたいと考えているのですが、

なるほど、

ちょっとこれまでは、どうかな?と思っていた古田」さんの著作も、これから本格的に読んでいかなくてはならないな、と思っています。

(在野であることによるマイナスイメージ。やはり無意識的に影響されてしまうんですねえ。人間は(たとえそれが偽りではあっても)「権威」に弱い・・・)

 

話は飛んで、

最近、在野で歴史に真摯に取り組んでいる人たちが、

「<それまでの日本>は明治「維新?」クーデターで滅んだ」

というような考え方をされているのを多く見受けるようになりました。

 

わたしは、明治「維新(←ウソ)」はブルジョワ革命だったと思うのですが、

それは、産業資本家によって資本主義社会がもたらされたというよりも、薩長のクーデター利権享受者と天皇、およびそれにつながる人たちが大ブルジョアになっていったという、変則的なものだったと思います。(しかもその頃、世界の資本主義はすでに金融資本主義の段階に達していました。)

 

・・・・(明治「維新」を社会民主革命だと勘違いしていた北一輝など2.26の将校たちは処刑されてしまいました。・・・まさに、虚偽の歴史を信じさせられていた人たちの悲劇)

 

明治以降の天皇はそれまでの天皇とはその性格がまったく違うのですね。

それをまったく覆い隠して「万世一系の」なんてやって、国民虐待、侵略戦争なんかを始めて、ついには日米戦争で国を滅亡の寸前にまで追いつめたんです。

 

いまも、その「誤れる」路線のままですよ。

 

違うのは民主的な日本国憲法があることだけ。

この日本国憲法「路線」のほうが明治以前、千数百年続いた「日本」の歴史の「後継」、「続くもの」としてふさわしいんですよね。

 

わたしは、それを明らかにして行きたいと思っているんです。

(わたしは、平成天皇が明治以前の天皇の姿に戻っていくかな?と期待していたのですが、現状を見るかぎり、違ったようです)

 

まじめに日本の歴史に取り組んだ人は、その多くが「明治維新」を否定的に捕らえるようになるのですが、

 

古田氏も晩年の著作で、「水戸学」(=これが明治の東京帝国大学による「国史学」の基になった)の批判とともに、こう述べています。

 

→『明治維新以降の「歴史」、それは“偽りの歴史”“欺瞞の歴史”である。すなわち、明治以降の国家は、“欺瞞の国家”であった』

『戦争中、多くの日本人は死んでいった。兵士は戦場で。一般人は町の中で。

けれどもその人々の「死」を悼み、無駄にせぬとは、決して「敗戦前の国史大系」を美化することではない。

天皇家の祖先が天からこの地上に降りてこられた、などという、荒唐無稽の歴史を「再認」することではない。当然のことだ』

 

これはまったく同感。

 

また、上記のわたしの、革新陣営の力の弱さに対する嘆きについては、こんな「記述」が

 

→『現代の選挙は「オール与党」の選挙である。

(すべての政党は)「天皇中心の国史」という、栗田寛(東京帝国大学教授)によって“偽置”された「水戸学」風味の“偽りの歴史”の支持者たちの“寄り集まり”である。

どの政党を見ても、他の選択肢はまったく無い。まったく影すらないのである。

そのような「コップの中の選挙」、それをあたかも“民主主義”であるかのように言っているだけなのである』

 

うーむ。歴史家の確かな「目」というか、歴史をしっかりやると、そこまで見えちゃうんですねえ。

今を生きるわたしたちにはちょっと絶望的だけど(笑)

 

ともあれ、「活路」も「歴史」に求めるしかないわけで、

またぼちぼち「歴史」をやって行きましょう。

 

求めるのは「事実」「真実」、そしてそこから導き出される「人間」のあり方。

 

とにかく、いまの日本のアタマの連中(政・官・財・マスコミ)に「おまかせ」なんかしていたら、「えらい目に遭う」可能性が大きいのですから。

 

 

 

オウム13人処刑の問題について

は、いいかげんに一区切りつけたい。

と思っているのですが、なかなかこのことから離れられないのは、この問題がわたしたち日本人の「存在」、というか「あり方」と深く関わっている、と考えるからであって、

 

オウム真理教に対する宗教的シンパシーによるものではないのです。

 

ということで、またその話しになるわけですが(笑)

 

「日記」でもとりあげた「獄中の麻原彰晃」という本のなかで、拘置所で麻原氏の世話をした、という人が、

「刑務官の支持で、かなり大量の薬物を麻原氏の飲むお茶に入れていた」と話しています。

さすがに疑問を感じたので、刑務官に「何の薬か?」聞いたところ、刑務官は睡眠薬だ、と答えたそうです。

また、「注射」もときどき行われていたらしい。

 

「薬物」に関しては、麻原氏の意識がまだはっきりしている頃、裁判で麻原氏自身がそのことを訴えていて、「ヘロイン」ではないか?と言っています。

 

これを読んでわたしが思ったのは

「なんだか日本のことではなく、外国のスパイ小説ようだなあ」

ということ。

 

? !この「外国・・・」というフレーズで、わたしの頭に浮かんだのが、1978年にあったアメリカの「人民寺院」事件

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「・・・あっ。似てる」

 

中央のサングラスの人物が人民寺院(ピープルズ テンプル)の「教祖」、ジム・ジョーンズ氏です。

常にサングラスをかけていたのは目が悪かったためでしょう。

こんな点も麻原氏に似ています。

 

キリスト教の牧師だったジム・ジョーンズ氏の宗教と、麻原氏の仏教に基づく宗教。

基本となる宗教は違いますが、「弱者救済」を強く打ち出した、その教団の「社会」に対する姿勢、教団の展開、権力に追いつめられ破滅する結末、は瓜二つといっていいほどなのです。

 

人民寺院」に関しては、「世界最悪のカルト」という評価が定着していて、情報も徹底してネガティブなものばかりなため、実際のことはほとんどわからない状態なのですが、

「図説 自殺全書」(マルタン モネスティエ 著)に教団の「教義」に関することとジム・ジョーンズ氏の言葉がいくつか載せられていますので、そこから抜書きさせてもらいます。

(こちらもかなり偏った見解(=ジム・ジョーンズは共産主義者である)に基づいているのでその点割り引かなくてはならないのですが、他の情報よりはマシなので)

 

→『この神秘主義者(ジム・ジョーンズ) - 悪魔や罪の中ではなく、社会やテクノロジーの中に敵を見る者 - は、自らをキリスト、レーニン毛沢東の再来だと称するに至った』

 

ジョーンズは数年間人種差別や麻薬と闘い、高齢者のために運動し、貧窮者に無料で食事を与えていた。

~ 一人の息子の他に、有色人種四人を含む、七人の子どもを養子にしている。この種の行為にある種の勇気を必要とした時代に』

『彼はまた、法が人種差別を禁じる以前に、映画館やレストランのオーナーに対して、黒人にも門戸を開くよう説得している』

 

人民寺院は教会を買い取り、膨大な数の信者を新加入させた。

~この時期(1971年頃)人民寺院は、診療室、託児所、建具造作製造場、印刷所、毎日数百人の人間に無料で食事を与え続けるための厨房をもっていた。

当時の信者は三万人と推定される』

 

『信者の素性は実に多様だった。

黒人、障害者、もちろんあらゆる貧困者など。

~大部分は弱者だが、理想主義者やアメリカの知識人の典型ともいえる人々もいた。

公民権のために闘ったかつての闘士、ベトナム戦争の生き残り、自国で見いだせなかった理想の社会を熱望する夢想家。』

 

『彼(ジム・ジョーンズ)の話はマルクス主義の原理と宗教的な呪詛を奇妙に混ぜ合わせたものだった。

信心深い人には宗教を与え、イデオロギーを信じる者には政治を与える。単純な人や無知な人には奇跡を与える。

そして、すべての人に、希望を与える』

 

以上、「人民寺院」についての、「ネガティブ」でない部分を抜き書きしてみました。

 

「ネガティブ」なものは、オウム真理教におけるこの国の「報道」を思い浮かべていただければいいかと(笑)脱会をめぐるトラブルとか殺人事件等、こちらもそっくりです。

教団への攻撃がマスコミから始まったのも同じです(オウムではサンデー毎日?、人民寺院ではニューズウィーク?など)。

 

(結末は、「教祖を含む900人以上の集団自殺」(人民寺院)、「サリン?事件→教祖を含む教団幹部13人の処刑」(オウム真理教)と、異なっていますが、)

 

あと見逃せない共通点としては、ロシア(オウム真理教)、旧ソ連としてのロシア(人民寺院)。

 

人民寺院旧ソ連を「約束の地」として移住を計画していたし、オウム真理教ソ連崩壊で生活に苦しむロシア国民の間で「救済」を語り、信者を増やしていったのは周知のことです。

 

ちなみに、現代のロシアはオウム真理教を「禁教」としているようですが、

旧ソ連人民寺院集団自殺の際こんな「声明」を出しています。(同書)

 

→『ジム・ジョーンズはガイアナのジャングルで暮らす反体制者だったが、アメリカ当局が彼とその信者に制裁を加えるために、その地まで襲いかかってくるのではないかと恐れていた。

アメリカ社会の特徴であるあらゆる議論の抑圧。それが彼らすべての死の原因である』

 

・・・オウム真理教事件に関して、われわれは国内にしか目が行かないのだけど、国際的というか、世界的な視点を持つ必要もあるのではないでしょうか?ね?

 

追:

麻原氏は「第三次大戦で殆んどの日本人は殺される」ということで、そのときの「防衛」のために教団の武装化を計画・実行していたようですけど、

ジム・ジョーンズ氏もこんなことを言っています

→『必ずやいつかアメリカを襲う核による大虐殺、ファシストによる専制、に耐えて生きのびることができるように、あなた方(信者)は準備しておかなければいけないのだ』

また、「人民寺院」の信者は、アメリカに帰れば自分たちには「拷問」と「虐殺」が待っているだけだ、と信じていたということですが、

日本でのあの13人処刑を見ると、あながち荒唐無稽とも思えなくなってしまうんですよねえ・・・            恐ろしい・・・

 

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