何のために生きている?

と問われれば、もっと幸せな人間社会が見たいから

間違いなく日本史上の大汚点の

ひとつとなるであろうオウム真理教の開祖&信者7人の同日大量処刑、から今日で17日になるわけですが、いまだに嘔吐感に近い不愉快感が抜けきらなくて困っています。

 

今回の安倍晋三自公政権上川陽子法相の所業は世界的に見ても(歴史的に見ても)最悪の部類に入るでしょう。

 

それにしても、この国はいつからこんな国になってしまったのか?

 

「死刑」をとってみても、「日本」はその始め(天武朝~)から否定的な態度で、悪人といえどもその生命を重く見ていました。

 

だから機会があるごとに、「恩赦」「大赦」を発して死刑囚の命を救っていました。

 

とくにそういった恩赦に熱心だったのが持統天皇聖武天皇で、しばしば恩赦を発し、死刑囚のほとんどを救っている、といった状態だったようです。

 

→「~詔(みことのり)したまはく

天下に令して、繋囚(とらへびと)の極刑(しぬるつみ=死刑)は、本罪(もとのつみ)一等(ひとしな)を減(おと)せ。

軽繋(かるきとらへびと)は皆(みな)赦(ゆる)し除(や)めよ」

(=極刑(=死刑)の囚人は本罪一等を減じ(て命を助け)よ。軽罪の囚人はみな釈放せよ)  <持統二年六月の詔>

 

というような内容の記事が「日本書紀」や「続日本記」にはしばしば出てきます。

聖武天皇は「死刑」に際しては三度天皇に報告させていました)

 

この持統天皇聖武天皇の血統は断たれましたが、その後、「平安京」を確立したといわれる嵯峨天皇によって国の制度としての「死刑」は廃止(停止)、それが338年間続きました。

(豪族などの「私刑」としての「殺人(死刑)」は行われていました)

 

そのころは、いまの政府・体制とはまったく違う考え方によっていた、ということがよくわかりますが、これは「仏教」を国の根幹に置いていたからでしょう。

 

天武天皇持統天皇聖武天皇が目指していたのは「仏教国家」です。

この系統の最後の天皇である称徳天皇は、天皇制による支配から「(仏教の)法王」制による支配体制に移行させようとしましたが、藤原氏によって阻まれました。

 

それでも、それ以後の天皇も熱心な仏教徒であり、嵯峨天皇空海最大の庇護者となり、ついには死刑を廃止(停止)したわけです。

 

しかし、当時すでに仏教は世界的に衰退傾向にあり、日本でも「末法思想」が流行り、それを「再興」すべく鎌倉仏教が起きたわけですが、その後は徐々に宗教的な力を失い、「神仏習合」などの制度に頼って、権力に依存するようになって行きます。

 

それでも、代々の日本の支配者は仏教を大切にしてきました。

 

それが、まったく違った「事態」に直面するのが明治政府の行った「廃仏毀釈」です。

このとき、驚くほど抵抗がなかったのは、仏教界全体が権力と結びつき、権力の一翼を担う、「行政教」のような存在になっていたからでしょう。

 

この傾向は今もあまり変わってはいません。

(だから、国家神道とも簡単に結びつくことができるんですね)

 

ま、政府権力・国家体制との関係で悩み苦しむわれわれ庶民にとっては(格差、貧困、生活苦、などなど)、気休めくらいの意味しかないような存在、と見えなくもないですね(笑)

 

しかも、明治以降の日本の「支配体制」の行ってきた「戦争」の数々の結果、いまの日本は「半植民地」のような状態です。

国民も「奴隷化」「家畜化」が進行していて、総フヌケ状態。。

政治家・官僚は「植民地監督官」のようなもの、になっているようです。

 

これじゃ、先行きがおぼつかない、ということで、オウム真理教なんてのが出てきたんじゃないでしょうか?

 

彼らが目指していたのは「仏教の「再興」」であったように見えます。

少なくとも「仏教による」「救済」を唱えていたことは間違いないでしょう。

しかも、かなり本質的な部分での。

 

それが国家・社会(さらにはは植民地宗主国(CIA?))との衝突によっておかしな方向に行った、あるいは行かされた?

ように見えるのは、やはり、その組織、教義に大きなあるいは多くの矛盾があったからではないでしょうか?

 

ただ、わたしは彼ら(処刑された人たち)が「仏教修行者」=「僧」であったことは確かだと思います。

とくに「シヴァ」神にまで行った麻原氏は相当なレベルまで行った修行者ではなかったでしょうか?(社会的な意味ではなくあくまで「個人の修行者」として)

 

それを、幾多の疑惑にフタをしたまま「処刑」した現政権は「異常」だと思います。人間として異様・異常というか、頭に穴が開いているとしか、わたしには思えない、見えないのです。(あるいは動物以下)

 

しかも、仏教の修行者をキリスト教徒の上川陽子法相に処刑させる。

これはどういうことなんですかねえ?

下手をしたら、国内に「宗教的憎悪」を生じさせかねないやり方ですよ?

 

この国、国民をバラバラにして滅ぼそうと考えているんですかね?

少なくとも「建設的」な方向に向かっているとは思えません。

 

ともあれ、明治(とくに明治六年)以降の日本は日本ではない「(変質した)日本」(≠日本)なのです。

基本的人権の尊重、平和主義、民主主義(=日本国憲法の基本原則)を否定すれば、それは完全に日本ではなくなるのです)

そのことを、「歴史」から「証明」していきたいと考えています。

 

ちょっと長い道のりですが。

 

 

 

 

 

 

オウム真理教事件での7人同日

処刑、西日本への集中豪雨、200人以上の犠牲者、と

「何なんだ!?これは」

というしかない「事件」が連発。

 

おかげでブログに手がつきません。

どうなっているんですかね?この国は。こんな災難続きの国は世界を見渡しても、そうないんじゃないでしょうか?

(あの日航機123便の事故からかなあ、日本を繰り返し「災難」が襲うようになったのは・・・)

 

しかも、それらの「事件」「事故」「災害」がすべてといっていいほど「納得」のいかない、

「仕方なかったよね」では済まされない、済ましてはいけないものばかりじゃないでしょうか?

 

はたして

「日本人に対する「神」の怒り」か?

それとも「現代科学を駆使して日本を滅ぼそうとしている陰謀エリート集団の仕業」なのか?

「あるいは・・・?」

 

まあ、こういうことも、現代日本の有様を「歴史」の俎上に乗せることによって、分かってくる部分もあるかと考えています。

この「ブログ」と「日記」で少しずつでもそういう作業をやって、わたしなりに納得のいく結論を得たい、と思います。

 

お暇があれば、わたしの「日記(hibi333zakkan)」と、お仲間ブログである「osantati12345-われら庶民主義」も見ていただければ、幸いです。

 

今は「古代日本史」への思考が一時中断していますので、

今日は、オウム真理教事件で7人を同日処刑した上川陽子法相といまの日本政府について少し考えてみたいと思います。

 

日記にも書きましたが、上川陽子法相はカトリックであるとか。

だから、形としては、クリスチャン=カトリック信者である上川法相がヨガ系仏教集団のオウム真理教の教祖と幹部、計7人を同日処刑したということになるわけです。

 

キリスト教といえば、死刑には否定的で、キリスト教徒の多い国々では死刑を廃止している国がほとんどですので、意外に思ったのですが、よく考えたら、これは「キリスト教徒がキリスト教徒を殺すこと」を否定しているからではないでしょうか?

「汝、殺すなかれ」

ですよ。

 

これはユダヤ教も同じで、

イスラエル死刑廃止国家です。

 

反対に国内で死刑をバンバンやっている印象のあるのは「イスラム教国」「仏教国(とくに日本)」「共産主義国」です。

 

こう考えると、上川法相が一日に7人も処刑できたのは、相手が「仏教徒」だったから、といえるかもしれませんね。

これを「キリスト教シオニズム」といいます?

 

ユダヤ教徒にしてもキリスト教徒にしても、国内の「同胞」に対する「殺人」は否定しても、他国の「異教徒=異邦人(ゴイム)」はせん滅的に殺したりしますからね。

ただ、「シオニズム」というのは「宗教」であれば、多少の差はあれ、どの宗教にもあるものでしょう。

 

イスラム系、仏教系、共産党系の国々では、「同胞」もへったくれもなく国家体制からはみ出せば、抵抗なく処刑しちゃっていますが、それでも「他国」に対してはシオニズムなんですよね)

 

ちなみに、シオニズム云々に関係なく、わたしは「平気で死刑執行」国家は嫌いです。死刑廃止国家はすべて尊敬します。

宗教に関係なく、人間の生命は最も尊重されるべきだと思っていますから。

 

しかし、オウム真理教がここまでの目にあったのは、「世界」と「日本」の状況認識に甘いところがあったからではないでしょうか?

 

この世界に「陰謀論」があることをわたしがはじめて知ったのは、

1995年のオウム事件の際、都内某駅前で、オウム服を着た人からオウム真理教の無実を訴えるパンフレットを(けっこうな量)もらって、それを読んだ時です。

 

部屋に帰って、コーヒーを入れて

「どうせ、くっだらねーこと書いてあるんだろうなー」

なんて思いながらパンフレットを開いたところ

「え?」「ナニ?この世界、この内容」といった感じで、目が引き付けられてしまいました。

それまでわたしの知らなかったことばかりが書かれていて、正直、新鮮というか、そこらへんの本よりずっと面白かったのを憶えています。

 

と言っても、その当時は「凶悪犯罪組織」の「空しい抵抗」くらいの認識でしたけどね。(マスコミとかすごかったから。オウム真理教に同情したら国賊といった感じ)

 

いま言われている「陰謀論」をかなり、というか、ほとんど「先取り」したような内容でしたよ。

 

それなりの「組織(宗教)」として「陰謀論」にのめり込めばどういうことになるか?

(破滅したのは(させられたのは))オウム真理教だけではないですよね?

 

あと、国内でいえば、

「自分たちは「仏教」だから安全だろう」あるいは「国からもある程度受け入れられるだろう」

なんて考えて安心していなかったか?(甘えていなかったか?)

 

日本は「仏教国」ではないんですよね。

その点、他の仏教教団同様、オウム真理教も間違えていた。

 

明治以降のこの国は、政府としては仏教を「否定」した国です。

いったい、明治時代に政府主導で行われた「廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)」を日本の仏教教団はどう考えている=「総括」しているんですかね?(笑)

 

今も日本政府は仏教信仰を薦めてはいませんよ。

教団にとっては、ただ、日本国憲法の「信教の自由」あるのみ。

 

「優遇」されているように見えるのは、権力者の「利権・利益仲間」として利用し、利用される関係だからですよ。

 

したがって、政府、権力者に逆らえば、すぐに潰されます。

まさにオウム真理教がそれ。

初期の創価学会もやばかったけど、こちらは「時代」がよかったから潰されなかっただけ。いまは他の教団同様の「お仲間」になっちゃっていますね。

(ただ、まだ他の(大多数の)仏教教団より少しマシな印象があるのは「昔」の名残(なごり)?

公明党自民党と訣別すれば、また評価は変わってくると思います(笑))

昔では浄土真宗なども似た経過をたどっていますが、

・・・要は、みんな同じで、時がたてば・・・の世界(笑)

 

最近の新宗教は、最初から権力に擦り寄ろうとするウヨ宗教が多いようです。

 

あと、オウム真理教で気になったのは、キリスト教の要素も取り入れようとしていたように見えることですね。

ただ、その「キリスト教」は仏教的思考での「キリスト教」理解ではなかったかと思います。

それは別に悪いことではないと思うのですが、ただ、仏教的思考(だけ)でキリスト教を理解しようとすると、やはり、どこかに「穴」が生じてしまうように思います。

 

たとえば。「イニシエーション」と称して、アサハラ氏の「血」を飲む、といったような行為(儀式?)があったようですが、

ひょっとして、それはキリストが最後の晩餐で「このワインはわたしの血であり、パンはわたしの肉である」といったことにヒントを得たものかな?と思いましてね。

(仏教で「血」を飲む儀式というのは聞いたことがありません)

 

そのことに関しては、日本きっての碩学だった和辻哲郎氏が考察をしていて、

 

これは「バラバ」というユダヤ教の密議からきていて

Barabbas(バラバ)とはBar Abbasであって、「父の子」を意味する、と。

そして、古代ユダヤ社会においてはこの「父の子」を「犠牲」とする祭りがあったそうです。

そこで、「父の子」は「世界の罪を贖(あがな)うために」殺され、その「父の子」の血と肉にあずかる(を食べる)のが「聖餐(せいさん)」であった、ということです。

 

そしてさらに「古代」ではこの「父と子」を「イエス・バラバ」と言っていたことで、和辻氏はキリストの最後の晩餐におけるキリストの言葉は「この儀式」に基づいているのではないか?と推測されるわけです。

(ただ、わたしの拙い「私見」を言わせていただくと、Barというのは、キリスト教などの神ではなく、「異教」の「偶像崇拝」の神ではないでしょうか?

もしそうだとすれば、「犠牲者の血を飲み、肉を食べる」、「悪魔教」の起源とも考えられるのですが・・・?)

 

ともあれ、麻原氏の残した映像などを見ると、キリスト教の影響も強いようなので、そのあたりが気になった次第です。

 

・・・う~~ん、こう書いていると、きりがないですねえ・・・

次回も、こういった話になるのかな?

早くショックから抜けて、「古代日本」の歴史に戻りたいんですが・・・

 

それにしても、安倍政権、上川法相・・・酷いなんてものではないですよ・・・

 

 

あー、また寝苦しい夜(笑)

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年寄りや障害者、貧者といった社会的弱者を

(経済的)悪者・邪魔者扱いして差別、社会から排除しようとするような最近の日本の政治、社会は、どうにも困ったものですな。

 

歴史を見ても、そういう国は一時的には強国に見えても、長続きした例はありません。

 

「日本」が長続きしてきたのは、「建国」の当初から(実際はともかく)「フォア ザ ピープル」の観念が仕込まれていたからです。

日本書紀」や「続日本記」を見ても、政治は「社会で最も恵まれない階層のものを無視すべきではない」という理念がところどころで述べられています。

 

古代社会の「最弱者」として位置づけられているのが「鰥寡」(かんか)。身寄りの無い老人です。鰥(かん)は男のやもめ、女性のやもめが寡(か)です。

日本書紀や続日本記には、飢饉のときなどにこの鰥寡に米(稲束)を支給した記事がよく載っています。

 

後の徳川家康なども、「「鰥」を基本においた政治をせよ」などと言っています。つまり、社会的弱者をしっかりと支えられるような政治を目指せ、と言っているんですよね。

「鰥」だけになっているのは男のやもめのほうが悲惨だったからでしょう(笑)

ちなみにこの言葉は大塩平八郎が乱を起こす根拠ともなりました。

 

古代から江戸時代までの社会では「鰥寡」が最弱者とされましたが、明治以降、現代にいては「最弱者」の観念、実際はまた違ったものになっているでしょう。

 

しかし、政府やそれに同調するウヨといわれる人たちが、弱者を差別、攻撃して、それがまかり通っているような社会は困ったものです。

明治以降の日本は急速に「短命国家」化しているように思います。

 

明治以前の日本にも人民いじめの「領主」などはかなりいたようですが、

ただ、(国の)支配政権でそこまで悪質なのはなかったようです。

 

この点については、古代の政治状況と明治政権の「関係」に関連して述べたいと思っています。かなり先のほうになりそうですが(笑)

 

ということで、これまでの話を進めたいのですが、いま、ちょっと足をとられているのが「法隆寺」の問題です。

最初は単純に考えていたのですが、少し足を踏み入れると、次から次へと謎と矛盾が出てきて、頭が混乱。すっきりした解決点が見出せません。

 

まず、

f:id:hibi333zakkan:20180705140035j:plain← この人はどなたなんでしょう?

いわずと知れた救世観音ですが。「救世観音」というのは後世につけられた名前で、製作当初は何と呼ばれていたかわからない。

 

一般的には「聖徳太子」の等身大像と言われていますが、わたしには、どうもそうとは思われない。

わたしは聖徳太子=(基本)アマノタリシヒコと考えていますので、

彼の「位置」(倭の大王ではない)、とその性格(仕事では実際的でありつつ、謙虚な仏教信者。インテリ)からして、このような形で自分の「像」を残そうとは思わない、と思うんですよね。

 

また、「聖徳太子の怨念を鎮めるため」などと言われてもいますが、これも「熱心な仏教徒聖徳太子」からは出てこない話です。

 

では「誰か?」

最近強くなった説のようですが、わたしも「蘇我入鹿」ではないか?と思います。

この説に関連して、「聖徳太子蘇我入鹿」なんていう説も出ているようですが、これは明らかに違う。

しかし、この「救世観音」が聖徳太子の「旧住居」といわれる夢殿に安置されているのは事実なので、これも「謎」です。

 

ということで、頭を悩ましつつ至った結論が、

①「法隆寺はもともと蘇我氏のお寺だった」

もしくは、

②「(法隆寺は)蘇我氏、とりわけ非業の死を遂げた蘇我入鹿蘇我蝦夷の慰霊、あるいは怨霊封じのお寺である」

(あるいは①+②)

 

前者はともかく、後者はかなり可能性が高いと考えています。

 

明治まで布でぐるぐる巻きにして封印され、厄除け?のお札まで貼られていたという「救世観音」。

 

あと、法隆寺聖霊会で奉納される舞楽「蘇莫者」(そまくしゃ)も気になります。

f:id:hibi333zakkan:20180705144636j:plain 「白髪」を振り乱して乱舞します。

その横で聖徳太子はひたすら(鎮魂の?)笛を吹き続けます。

 

「蘇莫者」は有名な舞楽で、やはり聖徳太子ゆかりの寺、四天王寺聖霊会でも奉納されます。

 

蘇は蘇我氏の「蘇」、「莫」には「無い」という意味がありますから、「蘇莫者」を「(いまは)無き蘇の者」と考えて、「白髪」から、(滅ぼされた当時)老人であった蘇我蝦夷が「蘇莫者」である、と想定することもできるのではないでしょうか?

 

とすると、法隆寺蘇我入鹿蘇我蝦夷を「慰霊」している、と考えられるわけです。

 

興味深いのは、この「蘇莫者」は「唐楽」ですが、番舞(つがいまい)として高麗楽(こまがく=高麗楽百済楽新羅楽の総称)の「蘇志摩利」(そしまり)がワンセット?で演じられることです。

(番舞というのは別々の演目が左右の舞台で演じられること。この場合、唐楽である「蘇莫者」が左、高麗楽の「蘇志摩利」が右の舞台です)

 

「蘇志摩利」は高天原を追われたスサノオの苦難を現した舞楽です。

 

わたしは、スサノオのモデルを、アマテラス=天照大神つまり武后(武照)によって高天原(=唐の朝廷)を追われた「高宗」と考えているので、

蘇我氏の滅亡を現した??「蘇莫者」と蘇我氏を滅ぼした「(スサノオ=)高宗」の苦難を表現している「蘇志摩利」が番舞になっている・・・などと、いろいろな想像をしてしまうわけです。

 

しかしわたしは、この「聖霊会」における「蘇莫者」に、さらに解けない謎を感じています。

 

まず第一に、聖徳太子の命日に行われる「聖霊会」になぜ、この「蘇莫者」が演じられるのか?

蘇莫者において、聖徳太子は完全に脇役、というか舞台の隅でただ笛を吹き続けるだけです。

主役は明らかに、白髪の老人?

しかも、聖徳太子は「唐冠」を被り、白髪の老人(蘇我蝦夷?)の面は「猿」を現しているのです。(物語からきているということですが)

これで慰霊になるのでしょうか?

 

布でぐるぐる巻きにされ、まともに「供養」されていなかった「救世観音」といい、「ちょっと何かが違うぞ?」

という気がするのですが。

 

また、法隆寺といえば、五重の塔の上に置かれているという「鎌」の「謎」もあります。

「鎌」といえば藤原鎌足をどうしても思い出します。

蘇我氏を実際に滅ぼしたのは鎌足です。

 

この鎌足を思い出させる「鎌」が法隆寺五重の塔の上に置いてある。

 

これは雷除けとして、この五重の塔が建てられたときから置かれているらしい。

雷除けというのは、天智九年に法隆寺が全焼したという記事があって、その原因が落雷であった、というところからきているようです。

 

とすると、「雷」というのは蘇我氏父子の祟り?

 

もうひとつ不思議なことは、日本書紀法隆寺全焼の記事があるのに、その「再建」の記事がまったく無いこと。「続日本記」にもありません。

 

わたしは法隆寺を再建したのは天武天皇だと思いますが、日本書紀はこのほかにも天武天皇の行った大きな「事業」のいくつかをすっぱり切り捨てて書いていないのです。

 

このあたり、日本書紀の製作に大きく関わった藤原不比等の(天武系統への)「ある」意志が感じ取られるのではないか、と思います。

 

ちなみに、蘇莫者でひたすら笛を吹く「聖徳太子」は天武天皇でしょう。聖徳太子には天武天皇のキャラクターが反映している部分もあると思います。

天武天皇のアマ氏と蘇我氏の関係は(縁戚関係などを通じて)密接ではなかったか?と思います。

 

長くなりました。

ほんとうに、法隆寺は謎が多く、かつ深い・・・

 

前回触れた「雄略天皇」ですが、

日本書紀を読むかぎりでは、残酷な行為の数々と、死を前にした、人民を思う心との落差に驚かされます。

 

しかし、歴史を見てみると、自分の周囲の者たちに残酷な行為を行った支配者が、必ずしも人民にとって残虐な支配者ではなく、むしろ、人民にとっては「善政」であった、「善政」を行った、という例は結構多いようなのです。

 

たとえば、「貞観の治」という中国史上屈指の善政を行なった唐の太宗は自分が皇帝になる際には、父親を引退させ、兄弟を殺しています。

また、日本でも源頼朝は弟(義経)を殺していて、「判官びいき」という言葉を生むほど、後の(ひょっとして明治以降?)イメージは悪いのですが、源頼朝の行った政治はたいへんな「善政」です。

また、頼朝の子どもを殺して政権を奪ったとしてやはり(明治以降の)評判が悪い鎌倉政権も、前半は大変な善政で、頼朝から続くこの武士政権の善政は世界に誇るべきものであった、とわたしは考えています。

 

(歴史においては)他にも、こういった例は枚挙にいとまがないくらいなのですが、こういった「残酷行為」を行ったにも関わらず、(人民にとっての)「善政」を行った「支配者」には共通の傾向があって、それは

「残酷と思われる行為を行った対象が、自分の親族や重臣、家臣などの、権力に預かる人たちであった」

ということです。

 

いっぽう、本人は「いい人」というか、自分の親族や「周囲」に対しては、非常に優しく、その権益も充分に満たしてやりながら、人民の生活を圧迫し、人民の怨嗟を招いて国に「乱」を招いた、という支配者も数多くいます。

 

で、いまのこの国の政治、支配体制は?

 

後者ですよね。

そしてまたこの「安倍政権・首相周辺」というのが、利権特権支配層を形成していて、

 政治家・財界(経団連など。超大地主なども超富裕層も含む)・官僚界・メディア支配層・外国情報工作機関、などががっちりとスクラムを組んでいましてね、

かつてない「奴隷状態」を日本人にもたらせているようです。

 

・・・(意図的に)分断されてしまった人民はなすすべがない。

どうも、あまり良い時代とは言えないですね。

(人民の最も弱い部分からいじめる、切り捨てていく政治なんて、歴史的にも最低、最悪ですよ)

 

もっとも世界を見ても「生存権なき奴隷制度の時代」「(支配層の)ターゲットは一般民衆」、という感じですから、日本だけが特別、というわけでもないのでしょうが、それでも日本の「凋落」が目立つ今日この頃です。

 

(ついこのあいだの政治でも ー 自公だけではなく、国民を裏切る「維新」とか「国民民主党」とか、人民にとって「さかしま」であればあるほど「権益」が保障される、というんですから困ったものです。「似非」が公然と大手を振る時代でもあります(似非野党)ー「定額働かせ法」「TPP」「改憲」。日本国憲法は「歴史」の評価に耐えうるものだと思うのですが、それをも「暴政」が亡き者にしようとする時代でもあります)

 

、、、

いやあ、いまの日本を「嘆き」はじめたらキリがないので、これくらいにします(笑)、

ところで、雄略天皇が「フォア ザ ピープル」の大王であったかどうかはともかく、たいへん「元気」というか威勢のいいタイプであったことは間違いないようです。

 

(478年)倭王・武(「雄略天皇」)が「宋」への使者に持たせた文書にこんなことが書いてあります

 

「わが国は遠く辺地にあって、中国の藩屏(はんぺい)となっている。

昔からわが祖先は自(みず)から甲冑(かっちゅう=よろいかぶと)を身にまとい、山川を跋渉(ばっしょう)して、落ち着くひまもなかった。

東は毛人55カ国を征し、西では衆夷66カ国を服させ、海を渡っては北の99カ国を平定した。

~中略~

ところが高句麗は無道にも百済を併呑(へいどん)しようとたくらみ、百済の国境の人民を捕らえて殺害し続けている。

(倭が中国へ)入朝しようとしても道をふさがれていてままならない。

~中略~

わたし武の父「斉(せい)」は、 ~ 高句麗が中国(宋)への道を妨害していることに憤(いきどお)り、弓矢を持つ兵士百万人を揃え、大挙して高句麗と戦おうとしたが、父、斉と兄、興が急逝(きゅうせい)、もう一息だった功業があと一歩のところで成らなかった。

父と兄の喪中は軍隊を動かさず、兵を休めていたので、いまだ高句麗に勝っていない。」

 

文章からもなかなか強気の人だったことがわかりますね。

 

「武」の語った「国内」平定の話は、おそらく蘇我氏の「史書」に記されていて、古事記日本書紀の(「東征」などの)記事に転用というか利用された可能性が高いと思います。

 

ただこの「平定」はそれほど昔の事ではなく、「武」の祖父・曽祖父?である倭王「珍」「賛」くらいの時代ではなかったかと、わたしは考えています。

 

高句麗との戦いに敗れた後、国内を「まとめる」必要があって、行われたものではないでしょうか?

その結果としての「兵、百万」だったと思います。

だから、埼玉県の稲荷山古墳から「ワカタケル」=倭王「武」の銘の入った剣が出てきても不思議ではない、というか当然だと思います。

 

あと、この倭王「賛」「珍」「斉」「興」「武」の名称なのですが、これは「倭」の側が名乗ったものではないと思います。

たぶん元は「姓」も「名」もあるきちんとしたものであったはずです。

それがこのようになったのは、倭の大王たちが名乗った「名」が宋(中国)にとって不都合なのものだったからではないでしょうか?(尊大、あるいは「格上」を感じさせるようなものであるとか)

 

ともあれ、この「宋」という国、倭に対しては「要求」をすべて受け入れるような姿勢を示しながら、裏ではちょっと違うことをやっているような国でした。

たとえば、倭が属国のように言っていた百済を独立国として、倭に与えた「名称(朝鮮全土の支配者を示すような)」と同じものを(倭には内緒で)百済に与えたり、新羅ともつながっていたり。

 

日本が「外交」「権謀術数」に弱いのは、この「倭」=蘇我氏からの遺伝ではないか?

とも思う、         ・・・今日この頃です。

 

 

当初、超特急でやるつもりだった「歴史」

=「日本のはじめ」物語が、各駅停車なみの速度になってしまいました。

いやあ、すぐそこだと思っていた「大友皇子=李忠」駅までが遠い遠い(笑)

 

「各駅停車」ついでに、といってはナンですが、昨晩は日本書紀の「雄略天皇」駅に「下車」してうろうろして(読んで)いましたら、これがやたら面白い。

 

雄略天皇」=「宋書」における「倭の五王」の「武」=蘇我氏の「大王」

ということを前提として読むと、引き込まれてしまうほどの面白さ。

 

この「雄略天皇」、「本文」ではほとんど「恐怖の悪王」として描かれています。とにかく人を殺す殺す。

 

まず、「天皇(大王)」即位の直前に、(前の天皇安康天皇)を殺した子供(安康天皇の皇后の連れ子、7歳?)とその子どもを匿(かくま)った勢力の人たちをほとんど皆殺しにしてしまいます。

そうして即位?すると、以前安康天皇皇位を継承させようとしていたライバルの市辺押盤皇子(いちのへのおしわのみこ)を狩猟に誘い、「猪(イノシシ)と間違ったー」といって射殺してしまう。

さらには、遺体にすがって泣き叫ぶ、その皇子の息子まで殺してしまう。

 

この後も、狡猾な人の讒言を簡単に信じて、無実の人を処刑したり、百済王から「贈られた」女性が密通したといっては、焼き殺したり、家臣が天皇の要求にうまく応ずることができないといっては処刑しようとしたり、

まさに「悪王」そのもので

→「国内の居民、みな振(震=ふる)い怖(お)づ」(国内の人民はみなふるえ怖気づいた)「日本書紀

状態だったわけです。

 

書紀にはまた、こんな文章もあります

天皇(すめらみこと)、心(みこころ)をもちて師とし、誤りて人を殺したまふこと衆(おお)し、天下(あめのした)、そしりて言(もう)さく、「大(はなは)だ悪しくまします天皇なり」とまをす」

(=天皇は(常に)自分の判断を正しいとされたため、誤(あやま)って人を殺すことが多かった。天下の人々は(天皇を)誹(そし)って、「大悪の天皇である」と言った)

 

と、まあ、こんな調子で、日本書紀雄略天皇の「暴君」ぶりを描いていくわけですが、これは雄略天皇が「前覇者=蘇我氏」の大王「武」であれば、仕方ない「扱い」なのかもしれませんね。

 

ただ、雄略天皇の「死」に際して、書紀の記述は一転、雄略天皇は「思慮深い」名君となります。

 

雄略天皇の死を前にした言葉(遺詔)

→(現代語訳)「まさに今は天下が家族のようになり、平穏であり、竈(かまど)の煙もはるか遠くまで立ち上っている。これは天意が日本全土を安寧(あんねい)にと願っているからである。

臆病な自分を励(はげ)まし、一日一日を慎(つつし)んできたのは、思うに、人民のためであった。

~(中略)~

今、述べてきたのはわが身だけのことではない。

結局は、ただ人民を安泰(あんたい)に養(やしな)おうとするからである。そのために言ったのだ」

 

う~ん、まったく「別人」(笑)

最後の最後で日本書紀蘇我氏の偉大な大王=倭王「武」=ワカタケルを持ち上げたのは、

蘇我氏を滅ぼしたのは自分たち(天武・持統)の系統ではなく、天智(高宗)・藤原鎌足(王文度)なのであって、自分たちは蘇我氏の敵というわけではないんだよ、ということを主張したいからではないか?と思います。

 

このほかにも「雄略」記には興味深い記事が多くあって、

たとえば、当時「倭」が親密な関係を築いていた「宋」を「呉」と表記しています。

これは、「呉」の太伯の子孫を自称していた「倭」=蘇我氏として、「呉」のあった地を支配している「宋」を「呉」の後継として認識していたためでしょう。

そのため、日本書紀の記述も「日本」(=倭)と宋の関係を「親戚付き合い」のようなもののように描いています。(かなり交流が密だった)

 

この「宋」を滅ぼした北魏は「魏」の後継だったので、まさに「魏」対「呉」。

蘇我氏にとって北魏から出た「隋」「唐」が(潜在的な?)敵としてなじめないものであったのは仕方のないことでした。

 

このほか「雄略」記には、高句麗好太王の時代には同盟関係で、ともに「倭」と戦った高句麗新羅が、このころ敵対関係になった理由(=高句麗新羅占領の意志があることを高句麗将兵新羅の兵にもらしたため?)、なども書かれてあります。

 

ちなみに「浦島太郎」の「出来事」があったのもこの「雄略天皇」の時代だったと書紀に書かれています。

ただ書紀での浦島太郎(浦島子)の話は、助けた亀が女性に「変身」して浦島太郎と夫婦になり、二人で海に入って「仙境」に行った、ということになっています。

これに関しては、書紀のこの部分の「著者」が「浦島太郎(浦島子)」の話に詳しくなかった可能性も?(笑)→(この話は「別巻」(別の本?)にある、とわざわざ注釈をつけています)

どうもはっきりとしない空模様が

続きますねえ。

今日は全国的に雨の一日だそうで、東京では気温も下がり、日中でも上着が必要なほどの肌寒さなのだとか。

 

わたしには、この空模様と、日本や世界の(権力をめぐる)空模様が似たもののように思われて、厚く雲に覆われた空を見上げては、ため息をつく毎日です。

 

そんな日々の中で、一昨日の6月18日には大阪中心部を震源とする震度6弱の大きな地震があり、(今のところ)5人の死者まで出してしまいました。

報道を見て感じたことは、日本のインフラ整備がおろそかになっているのではないか?という疑問です。

はたして国や自治体は99%を占める庶民の生活と安全・安定のために、しっかりとお金を使ってくれているのでしょうか?

「小さな政府」を目指す「自治体」の筆頭ともいうべき大阪で起きた地震による死者であるだけに、よけいにそのことを考えてしまいました。

 

わたしは、この国には「小さな政府」は合っていない、と思っていますのでね。

 

また、(災害を金儲けの好機ととらえる)「ショックドクトリン」で大もうけ?なんてことがないようにお願いしたい。(そういう発想は邪悪そのものだと思いません?)

 

もし、この厚い雲の裏に権力をめぐる争いがあるのなら、

どうか、われわれ人民(の命と生活)を大切にしてくれる勢力の皆さまが勝ってくださいますように

と、梅雨空にお願いしておきまして、

 

やはり、厚い雲に覆われた感のある「歴史」の世界へ (^-^)

 

日本書紀というのは読み方によってはたいへん面白くて、「裏に隠された」史実を(それとなく)語っている部分があったりします。

 

今回の「唐(高宗)による倭の占領」の話の関連では、たとえば、「斎明元年」に

 

「夏五月 ~ 空中に竜に乗れる者あり、貌(かたち=容貌)、唐人に似れり。

青き油笠を着て(被って?)葛城嶺より馳せて胆駒山(いこまやま)に隠れぬ。

午時(うまのとき)に及至(いた)りて、住吉の松嶺の上(丘?)より西に向ひて馳(は)せ去ぬ」

とあるのは、相当以前から、唐が倭に密偵を忍ばせて、国内の様子を探っていたということではないでしょうか?

 

また、「斎明七年七月二十四日に斎明天皇は朝倉宮で崩御」、八月一日に皇太子が柩(ひつぎ)に付き添って磐瀬宮(いわせのみや)に帰るのですが、その日

 

「この夕に、朝倉山の上に、鬼ありて大笠(おおかさ)を著(き)て、喪の儀(よそおい)を臨(のぞ)み視(み)る。

衆(ひとびと)、みな嗟怪(あやし)ぶ」

とあるのも、それ(内偵)を示唆しているのではないでしょうか?

 

ちなみに、天武ー持統朝(武后派)の影響の下で作られた「日本書紀」は基本的にアンチ高宗(天智天皇)の立場ですので、こうしてポロポロと「秘密の漏洩」みたいなことをやっています。(^^;)

 

ところで、これまでわたしは「倭」が占領された年を663年から664年の間、としてきましたが、朝鮮半島で最近発掘された史料などを見ると、660年、あるいは661年に一気に倭も占領されてしまったのではないか?

とも考えるようになってきました。

 

その頃に、「倭王」が唐によって捕らえられた、ということを述べた「史料」が出てきたためですが、

そういえば、前回にも触れた「新唐書」で

(660年)「~ 左衛(中)郎将の王文度を熊津都督と為す」

「(王)文度、海を渡りて卒す」

とある部分ですが、この熊津(クマナリ)都督は「海を渡って卒す」、卒す、というのは「死んだ」という意味ですが、ここでは

「王文度、海を渡りて卒(いくさ)す」と読みかえたほうがいいように思います。

 

実際、「熊津」(当時の百済の首都)というのは現在の韓国・公州市ですが、地図を見てもわかるように、ここから「海を渡って」、どこへ行くというのでしょうか?

「倭」に渡って「卒(いくさ)す」としたほうが、ただ「死んだ」、とするよりはるかに理にかなっているような気がします。

 

日本の学者さんのこれまでの「定説」は「(王文度は)海を渡って百済に行って、熊津都督になって、死んだ」という解釈のようですが、

「唐から百済に行くのにナンで、“海を渡る”の?」という疑問が起きてきますし、何より文章の順序からして、「百済に来て後、海を渡った」としか読めないのではないでしょうか?

 

ともあれ、この660年には唐の王朝でも大きな出来事がありました。

高宗が「壊れた」ため?(笑)、武后が「政を執る」ことになったのです。

 

資治通鑑」には、こう書かれています。

 

「(顕慶五年=660年)【武后、政を執る】

冬十月。天子(高宗)はかねてから風眩(ふうげん=めまい)に苦しみ、頭は重く、目はものをよく見ることができず、百司(官僚)がことを発する際に、天子は皇后にこれを決せしめることがあった。

后(武后)は、性質が明敏で、文史を渉猟し、ことを処するのにみな旨に適(かな)った。

そこでこの月より政事を委(ゆだ)ねることとし、(武后が)人主(じんしゅ)なみの権力をもつこととなった」

 

高宗、典型的な「仮病」の症状を並べていますよね(笑)

顕慶五年十月、高宗は「体調不良」を理由に后(=武后)に政事を委ねたのではなく、「唐からいなくなった」のだ、とわたしは考えます。

日本的な言い方ですと「旅に出た」というところでしょうか?(笑)

行き先はもちろん、百済、倭。

 

「いや、それは違う。だってその後も高宗は(武后に操られるような形ながらも)唐にいた、というのが史実ではないか」

という声が聞こえてきそうですが、

 

たしかに、高宗は史料にも見るとおり、唐の都にいました。

ただし、

それは、高宗の「影武者」。

このことは、その後の武后と高宗(影武者)の関係を見れば、けっこう「あからさま」ではないか?と思うのですが・・・

 

いずれにせよ、「660年十月以降の唐にいる「高宗」は影武者である」可能性が高い、ということは頭の片隅に入れておいてほしい、と思います。

 

 

・・・やはり「大友皇子」のところまでは行き着けませんでした ヽ(^^;)

ということで、また。

 

 

 

じめじめ、暑くなったり寒くなったり

不快な気候が続きますねえ。

風邪をひいたり、体調を崩している人も多いようです。

わたしもあんまり調子が良くない。昨日は市販の風邪薬を飲んで早めに寝ました。

 

不快といえば、いまの安倍自公政権

いつまで居座るつもりなんでしょうかねえ。

「弱い者いじめ」に徹すれば「長期政権」が約束される、なんて政治は、もうイヤですよ。

庶民やその代弁者が生活の苦しさを訴えれば、すべて「ウソだ」の一言で片付けてしまう「ウソ」が大得意の首相なんて、勘弁してほしい。

きょう御用テレビ?(日テレ=読売テレビ)で「景気がいい」なんて仰っていましたが、それは「1%」だけでしょうが?

(関税と法人税を下げるための)消費税増税を発表した直後の御用テレビ?出演でした)

 

「中間位置」以下の大多数の庶民は地獄の苦しみにのた打ち回っていますよ。

 

いいかげん「人心一新」、少しは暖かな晴れ間を、庶民や弱者に見せてもらいたいものです。

 

ということで、再び「歴史」の世界へ(^^;)

 

前回で天智三年2月以降の「天智天皇」が唐の皇帝=「高宗」のなりすましであることを述べましたが、日本書紀の斎明5年(659年?)7月の記事に、高宗が直々に倭から来た遣唐使を「訊問」したことが載っています。

 

これが公(おおやけ)ではなく、内々のものであったことは、その「訊問」場所が宮廷のある長安ではなく、当時、東京と呼ばれていた洛陽であることからもうかがわれます。

 

このとき書紀はこう書き始め

 

「天子(高宗)相見問訊之、日本国天皇、平安以不」

→「天子相見(あいみ)て問訊(と)いたまわく、「日本国の天皇、平安にますや以不(いな)や」とのたまう」

 

高宗が遣唐使に対して根掘り葉掘り聞いていたことをうかがわせる記事を書いています(書紀では「問答」はほとんど蝦夷についてのものだったように書いてあります。ちなみに、このとき「日本国」はなく、まだ「倭」です。もちろん「天皇制」もありません)

 

驚くのはこの「訊問」があって2カ月ほどした後、この遣唐使のメンバーにが高宗からこんな勅(みことのり)が下ったことです。

→「国家(くに=唐)、来年に必ず海東(かいとう)の政(まつりごと)有(あ)らむ。

汝等(いましたち)倭客(※ここでは(日本ではなく)「倭」になっていますよね。このあたりが(すっとぼけ)「書紀」の「面白い」ところ)東帰(とうき)すること得ざれ」

つまり

「わが国は来年、必ず海東を征討するであろう。お前たち「倭」からの客は帰国してはならない」

ということなんです。

そして、

→「(高宗は)ついに(遣唐使の(訊問)メンバーを)西京(長安)に留(とど)め、(彼らを)別々の場所に幽閉した。

戸を閉ざして塞(ふさ)ぎ、自由に出歩くことを許さず、(幽閉された倭人たちは)長年にわたって困苦した」

と書いています。

 

これ、従来の学者さんの「定説」では、「百済」への征討計画を隠すため、ということになっているんですけど、もうこの年には百済への攻撃準備は(公的に)始まっていますし、何より、「倭」のことを皇帝=高宗から訊ねられた遣唐使のメンバーが幽閉されるということは、

皇帝=高宗の「目的」が「倭」の占領にあった、ということだと思います。

 

そして、この高宗の計画を読めず、百済の占領まで、と考えていたことが倭=蘇我氏の滅亡につながったのではないでしょうか?

高宗の真の目的は朝鮮半島ではなく倭にあったのです。

 

そして翌660年、百済は(唐によって)平定されるのですが、このとき

「郎将の劉仁願に命じて百済城を守らしめ、左衛郎将の王文度を熊津都督(ゆうしんととく)となす」(新唐書

とあります。

前にも書いたように、この熊津都督・王文度が後の藤原鎌足である、とわたしは考えています。

 

新唐書では、このあと

「(王)文度、海をわたりて卒す」

とあるだけです。

 

わたしは、王文度は最初から倭を占領するための高宗のパートナーとして百済に来ていた、と考えています。

王文度がかなりの軍勢を率いていたことは、この後、劉仁軌が「王文度の軍勢」を率いて戦った、などという文章からも明らかです。(白水江で倭の軍勢を打ち破ったときの実戦指揮官は劉仁軌です)

 

あと、鎌足(かまたり)という名前にも注目してもいいかもしれません。

熊津都督・王文度。

熊津というのは当時の百済の首都で、中国読みでは「ゆうしん」ですが倭ではこの熊津を「久麻那利=万葉仮名=くまなり」と読んでいました。

鎌足(カマタリ)と熊津(クマナリ)、ちょっと発音が近いですね。

 

前にも(馬子、蝦夷、入鹿のところで)書いたように、当時の中国では自分の名前に「動物」を使うことは屈辱でした。

そこで、「熊」の替わりに発音の近い「鎌」を使い、「足」は「ナリ」という読み方もあるということで、「鎌足」=「カマナリ」。

で「足」は当然「タリ」と読むほうが多いですから、「鎌足」と書けば、「カマナリ」→「カマタリ」。

 

つまり、「クマナリ」→「カマナリ」→「カマタリ」・・・と、ちょっと苦しいかな?(笑)

でも可能性としてなくはない?(^^;)

ちなみに「鎌」は「レン」の金篇。悪い文字ではありません。

 

・・・

今回は、なんだか細かいところで、長くなってしまったような・・・

 

ホント、底なし沼ですよ。この「日本創成」の頃は・・・「隠された」事実がちらちらと、次々と・・・

次回は唐の廃皇太子=李忠=大友皇子のところまで、行けるかなァ?

 

では、今日はこのあたりで。

皆さまも体調にお気をつけください。

 

 

蛇足:

安倍首相もお身体を第一に考えて、一日も早くごゆっくりなさってください。健康にまさるものはありません(不健康な生活が顔に現れていますよ)。

世の中のしがらみに捕われて、他者(弱者)を苦しめ自分も苦しみ、命を縮めるなんて、バカらしいと思いません? 

一日、一刻も早いご引退を(^^)