何のために生きている?

と問われれば、もっと幸せな人間社会が見たいから

しかし、「対」世界ということで相対的に見て

これほど、日本の支配者・支配層(=政府、官僚、国会議員)が劣悪だったことってあるでしょうか?

 

わたしの亡くなった父親が、犬を飼うとき(わたしはまだ小学生でした)、

「犬はな、小さいときから満腹させて育てるとバカ犬になってしまうから、食べ物を適当にセーブしながら育てる。そうすると賢い犬になる」

というような意味のことを言っていましたが、

たしかにその犬はとても賢く育ちました!

 

人間もゼイタク、満腹に慣れきっちゃうと、多少はバカ化するのかな?

 

と、贅沢三昧のお金持ち首相やダントツ世界一の報酬を得ておられる国会議員や官僚のみなさんを眺めつつ、なんとなく日本の「劣化」に思いをはせる日々です。(当事者はどうせ見てないと思いますんで、もし見て怒ったらゴメンナサイ(笑))

 

劣化といえば、史上有数の偉大な皇帝、賢帝として有名な唐の太宗も長く権力の座にいると、やはり判断力が落ちるのでしょうか?

晩年、太宗はかつての煬帝と同じようなことをやってしまいます。

東征=対高句麗戦争です。

 

前のブログで触れた貞観19年(645年)、太宗は大軍をもって高句麗を攻めます。

しかし、この親征も煬帝同様、失敗に終わります。

最初は破竹の勢い。6月の戦いでは「(高麗兵の)斬首2万余り」という状況でしたが、その後は膠着。

そして、この年は冬(寒さ)が早く来ました。

そのため

「草は枯れ水は凍り、兵と馬も寒さのため留まり難く、かつ糧食も尽きようとする」

といった状態に陥り、太宗の軍は撤退します(9月(いまの10月?))

李勣の歩騎4万に殿(しんがり)をなさしめて、高句麗軍の追撃を防ぎながら撤退したのですが、その途中で激しい吹雪に襲われ、太宗の軍は夥しい死者を出します。

(この李勣(りせき)は武后との関連でまた触れることになります)

 

営州までやっと戻った太宗は営州故城で祭壇を設け、

(戦死者のために)「天子自ら祭文を作ってこれを祭り、臨哭(りんこく)して哀(あい)を尽くし」ました。

 

しかし、高句麗征服をあきらめようとはしなかった。

 

貞観21年に高句麗遠征を再開した太宗に対して、貞観22年、死の病に伏していた宰相の房玄齢が

「群臣が(太宗を)諌(いさ)めようとしない」

ことを嘆いて、

「わたしは気が付いていながら、このまま何も申し上げないでしまったら、責任を残したまま死ぬことになる」

として(太宗に対して)上表して諌めた。

 

この文は有名ですから、書いときますね。

 

老子には「足りることを知れば危うくない」とあります。

陛下は功名威徳の点で、もはや足りておられるのですから、地を拓(ひら)き領土を広げることはこの辺でお止めにになるべきです。

 

且(か)つ陛下は重罪人を処決(死刑と流刑)される際には、たった一人のために必ず三度、五度と覆奏(ふくそう)せしめ(=何度も調べ直させ、報告させる)、処刑の日には、酒肉を断ち、音楽を停止させます。

これは人命を重んぜられるからであります。

 

それなのに、いま無罪の士卒(=兵士)を駆り立て、これを敵の刃(やいば)の下にゆだね、その肝脳を地にまみれさせておられます。

このことは気の毒だとはなされないのですか?

 

仮に、これまで高句麗が臣節を失ってきたとでもいうのでしたら、これを誅(ちゅう)することも可であります。また百姓(ひゃくせい=人民)を侵したとでもいうのでしたら、これを滅ぼすことも可であります。

また将来、中国にとって患(わずら)いとなるような実力があるとでもいうのでしたら、これを除くのも可であります。

 

今この三ヵ条がないのに、ゆえもなく中国を煩(わずら)わせ、これを内にしては前代(隋)のために恥を雪(すす)ぎ、これを外にしては新羅のために仇(あだ=高句麗新羅を攻めたこと=唐の出兵理由になった)を報(むく)いてやるようなことは、得るところ小さく、損するところばかり大きいのではありませんか。

 

どうか陛下、高麗(高句麗)に自由を許し、海外遠征の軍船を焼き、民衆の徴募(ちょうぼ→徴兵)を廃止されますよう。

 

そこで初めて、華夷(かい=中国と他国)ともに喜び信じ、遠いものは慎(つつし)み、近いものは安らかになるでありましょう。 ~(以下略)~ 』

              (平凡社「中国古典文学大系」資治通鑑 より引用)

 

これに対し、太宗は

「彼(房玄齢)はあのような篤い病の中にありながら、なおよくわが国を気づかってくれる」

と述べて、

「自ら臨御して見舞い、手を握って訣別し、悲しみに自ら堪えられなかった」

とあります。

 

しかし、太宗もそれから十ヶ月後(649年)に死んでしまいます。

 

と・・・まあ、歴史に偉名を残した人と、いまの日本の政治家を比べてましてもねえ・・・(^^;)

・・・いまの日本の政治家との比較はやめときます(笑)

 

でも・・・正直、「あんな人たち(←逆向き(笑))」に憲法をいじられるのは嫌ですよ。

 

・・・今回は本筋から少し離れました。

次回は「二人の天智天皇」の話からはじめようと思います。

 

 

 

 

なぜわたしが「日本」発祥のころの話に

こだわるかと言うと、明治以降の日本の「支配イデオロギー」というか、「支配体制」を考えるには、この時代のことをしっかり踏まえておく必要があるからです。

 

日本人は「歴史」を鏡として、今一度、自分の顔を見つめなおすときが来ていると思います。

 

こうやって「異論」、大胆な「仮説」を思い切って提示することで、官製の偽歴史を暴いて行けたらとも、考えているわけです。

?(^^;)

 

ということで、

 

持統天皇というのは不思議な人です。

草創期の日本にとって最も大きな事跡を残したにも関わらず(制度変革によってこの国を変え、天皇制を確立した)、その仕事の成果は他の天皇(天智、天武など)のものにして、自分はひっそりと歴史の影に半ば隠れるように地味な存在に徹している。

日本書紀の記述もとても少ない。

まるで、自分に焦点が当ることを恐れているように・・・

 

・・・653年、倭のひとりの僧が仏教を学ぶために唐に渡ります。(しばらくこの僧のことを「倭僧」と呼んでおきます)

この倭僧は父親が蘇我氏で史料の編纂に携わっていたというくらいですから、倭に関する知識も豊富に持っていた、と考えられます。

 

この倭僧=倭から来た留学僧に目をつけたひとりの女性がいた。

655年に高宗の皇后となった武照=武后です。

 

武后はこの倭僧に破格の待遇を与えます。

玄奘三蔵と同じ寺で学べるようにし、やがては玄奘と同室で起居できるようにまで、引き立てたのです。

インドから多くの仏典を持ち帰り、その翻訳をしていた玄奘は、当時すでに伝説的存在で、どんな高僧でも軽々に会うことなどできないほどでした。

そんな玄奘三蔵に、(辺境の)倭の留学僧が同室を許されるというのは本来ありえないことで、皇后の意向あってのものだったでしょう。

 

皇后は同時にひとりの女の子を連れてきて、その子に倭の言葉を教えるように倭僧に命じます。

その女の子が生まれたのは645年ですから、655年ですと10歳ですね。

 

武后はその女の子のことを親戚の娘だ、とかなんとか言ったことだろうと思いますが、実は武后の娘です。

しかし、その子が自分の子どもだとは口が裂けてもいえない事情が武后にはありました。

 

645年といえば貞観19年。まだ太宗の治世です。

このとき武后=武照は太宗の後宮にいました。

つまり太宗の「妾」(しょう)だったわけです。

 

この頃、太宗は高句麗遠征の準備で忙しく、たびたび宮殿を留守にしていましたが、644年から645年の末にかけては、宮殿を皇太子の李治(後の高宗)に全く任せてしまって、遠征に出ます。

この間に武照が生んだのがその女の子です・・・

 

ちょっと(かなり)ヤバイですねえ(^-^;)

 

649年に太宗が死んで、李治がその後を継いで高宗となるわけですが、太宗の死後、尼となっていた(後宮の女性は皇帝の死後はすべて尼になることが強制されていた)武照と高宗がヨリを戻したのも、その「女の子」の存在があったからではないか?とも考えられます。

 

ともあれ、父親の後宮の「妾」を息子が自分の後宮に入れることなど、当時の中国でも異例中の異例です。

当然批判は浴びます。

高宗と武照は、「太宗は武照に手をつけなかった」(ウソつけ~(笑))だのと「純愛」を強調してその批判を乗り越えようとしますが・・・

もし645年生まれの娘の存在がバレれば、高宗も武照も一巻のオワリ、となってしまうわけで、

その女の子はふたりにとって「爆弾」のような存在だったわけです。

 

へたをすれば殺されかねない子でしたが、武后の愛情は強かった。

親戚に育てさせ、やがて10歳くらいから倭僧に倭の言葉を教えさせ始める。

このあたりが、アタマがいい、というか、武后の見通しのきくところなんですねえ・・

 

660年(前後?)倭僧が帰国する。

その際、武后はその僧に自分の名=照を与える。「道照」です。

(いまの歴史書では「道昭」となっていますが、元は「道照」)

 

その道照と一緒に、あるいは少し遅れて、「女の子」も倭にやってくる(おそらく新羅経由。上陸場所は山陰あたり?)。

女の子は15歳、ないし16歳です。

倭にやってきた目的は「婚姻」。

武后が注目していた熱心な仏教徒=アマ氏に娘を「輿入れ」させようとしたのです。(アマノタリシヒコ(聖徳太子?)は大陸の仏教徒の間でも人格者としてそこそこ知られていた)

もちろん自分の娘であるということは秘密。皇后の親戚の娘?ということだったでしょう。

 

しかし、唐の皇后の肝いりですから、東海の辺境=倭、のいち「藩主」?アマ氏にとってはたいへんなことです。

たぶん、婚姻相手の選択権はその女の子にあった、と思うのですが、「王家の兄弟」の中から女の子が選んだのが、オオアマ、後の天武天皇です。

ここで、女の子の正体がわかりましたよね。後の持統天皇です。

このときの名前はわかりませんが、後付でウノノサララとか、ついてますけど・・・

 

しかし、驚いたのは「選ばれた」オオアマだったでしょう。

年齢が(たぶん)親子ほど離れているし、何より、オオアマには妻子がありました。

 

それでもオオアマには「拒否権」はない。

けっきょく「女の子」の結婚相手はオオアマとなり、女の子が17歳になった662年には男の子ができます。これが草壁皇子です。

 

この間、道照は「女の子」に影のように付き従っていたことでしょう。

 

唐から遠く離れた倭の地で、熱心な仏教徒一族に嫁いで、これで安心、一件落着、と思いきや、

 

ナント、663年、倭の大王家=蘇我氏が唐に敗れ、664年には(女の子の)「父ちゃん」=高宗がやってくるわけです。

(このとき武后は、自分の廃后工作に失敗して倭に渡った高宗について、どう考えていたか?・・・このころの武后は凄かった?・・・)

 

 

 

 

 

前回のブログで唐の使者が倭の

王ともめて怒って帰国したことに触れましたが、旧唐書によるとこの唐の使者(=新唐書では高仁表、旧唐書日本書紀では高表仁)ともめたのは「王子」となっていますから、これは蘇我入鹿ですね。

 

このとき(631年=日本書紀では舒明3年)の蘇我氏の当主(大王)は蘇我蝦夷です。

 

蘇我入鹿はかなり性格が強かったのか、次の(日本書紀)「皇極天皇記・元年」には

蘇我「臣?」蝦夷を以(も)ちて大臣(おおおみ)とすること、故(もと)の如(ごと)し。

大臣の児(こ)入鹿(またの名は鞍作(くらつくり))自(みずか)ら国政を執(と)りて、威(いきおい)父に勝(まさ)れり。

是(これ)に由(よ)りて、盗賊(ぬすびと)恐(おそ(れ))摂(お)じて、道に遺(お)ちたるを拾(ひろ)わず」

とありますが、この記述が事実そのままかどうかはわかりません。

 

なにせ、蘇我氏の主要人物の名を、「馬子」「蝦夷」「入鹿」としている点がもう(笑)

いずれも「人間」扱いでない名前であることに注意、ですよ。蝦夷の「蝦」もムシ篇です。

 

滅んだ、あるいは滅ぼした王朝の王に蔑称に近い名前を与えて、歴史上も「その名」だったことにする。これは初期の「唐」がよくやったことです。

たとえば、隋の煬帝だって唐による後追いの名前です。(煬帝という名には、「人民をいじめる者」と言う意味がありますからね)。煬帝というのはおそらく唐の太宗による贈名です。

 

また、中国の王朝は自分たちの支配外にある異民族にはケモノ篇、ムシ篇の名前をつけるのが通例でした。

「馬子」「蝦夷」「入鹿」という<贈名>には、中国の伝統が色濃く漂っています。

 

ちなみに蘇我入鹿の本来の名前としては、「家伝」(蘇我氏の家伝?)に「宗我大郎」というのがあるようです。大郎、いまの「太郎」さんですかね・・・?

蘇我大郎、いかにも大王=「蝦夷」の長男にふさわしい名前だと思います。

 

この蘇我氏が滅んだのが645年、大化の改新の年とされていますが、わたしは、これも違っていると思います。

 

蘇我氏が滅ぼされたのは664年ですよ。

その前の年、663年に蘇我氏(倭)は唐(と新羅の連合軍?)の戦いに大敗し、その戦力のほとんどを失っている。(663年は白村江の戦いの年ですが、白村江の戦いが本当にあったかどうかはわかりません。あるいは、もっと九州よりの場所であったかも・・・?)

そして、664年(663年?)唐の占領軍が上陸してきます。

 

このとき、蘇我氏は恭順の態度を示した、と思います。

そうすれば、唐の属国扱いになったとしても、倭の大王家である蘇我氏そのものは存続するであろうと。

 

ふつうはそうなるはずでした。(従来の唐の方針では)

しかし、唐には唐の「思惑」があった、というか「事情」があった。(唐の事情というより、当時の唐の「皇帝」の事情ですけどね)

 

やがて、その唐の皇帝=高宗がじきじきに倭に乗り込んできます。

倭を占領した唐軍の中心は皇帝直属の近衛軍で、それを指揮していたのは近衛軍の将軍に次ぐナンバー2の左衛中郎将・王文度(※)です。

王文度はその地位と、高宗との距離の近さ(最側近)からみても、おそらく、高宗の最初の皇后であった王皇后の親族(おそらく兄)だったと考えられます。

この王文度がのちの藤原鎌足です。

そして、高宗は日本書紀など後の歴史書では「天智天皇」にすりかえられます。

(こう「推察」すると、藤原家が「皇后」を出し続けた謎も解けるのではないでしょうか?)

 

では、なぜ唐の皇帝である高宗が直々に倭に乗り込んで、蘇我氏を滅ぼさなければならなかったのか?

・・・高宗が唐に居辛い事情があったんですよね。

 

この664年、唐では高宗の陰謀というか、則天武后の廃后を目論んだ「上官儀」事件が発覚、高宗に廃后の文書を書かされた上官儀など、「陰謀」に関わった高宗関係の官僚、文化人(上官儀は当時の唐第一の詩人)が一斉に逮捕されました。

 

「いいや、こうなりゃ唐は則天武后たちにまかせて、オレは倭に行くもんね」

とまでは考えなかったでしょうが、とにかく、高宗はこの国にやってきた。

 

「居辛かった」だけではなく、高宗には「倭滅亡後のこの国」における「思惑」があったのです。

それは、則天武后の台頭によって唐で居場所のなくなった自分の息子たちなどの国を作ることです。

 

ところが、「持統天皇」の存在によって、それも「誤算」に終わってしまう・・・

 

・・「あれ?ずいぶんとヘンな方向に行っているぞ」

と思われるかも・・・

ともかく、続きます  ヽ(^-^)

 

(※)中国の史書での王文度の記述は多くありません。

「左衛中郎将である王文度が百済の「占領軍司令官(トップ)」として赴任した」

という意味の文章があって、その次は「卒す」とあるだけ。

つまり、「行った、死んだ」。それだけ(笑)

 

だいたい、皇帝直属の軍のナンバー2が百済の占領司令官として、はるばるやってくるというのもおかしいですしね。

(倭と百済の連合軍を打ち破って百済を支配していたのは廃皇太子・李忠(則天武后が皇后になったため、皇太子を廃された、高宗の長男)の母親の実家である劉氏。実際、ずっと百済占領軍のトップにあったのは劉仁軌などの劉氏)

来て「即」死んじゃう、というのも・・・(笑)

 

皇帝とともに軍を率いて倭に上陸した、と考えるほうが合理的だと思うのですが・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

いやあ、日本史というのは「虚偽」と「隠蔽」に

満ちていると言うか、何がどうなっているのか?何が真実なのか?突っこめば突っこむほどわけがわからなくなってしまいます。

 

江戸時代の天才町人思想家、富永仲基も、日本の文化というか特質は「隠す」ことだ、みたいなことを言ってませんでしたっけ?

 

まあとにかく、隠すごまかす書き換える。

これ、どうやら「現代」まで続いているようなんですよね。

 

「だから安倍首相みたいな人が出てくる」?????

 

閑話休題(それはさておいて)

そいうことが行われ始めたのはいつか?

というと、これがどうも、「日本」ができたとき以来のようなんですね。

日本初の公式史書である日本書紀からして、もう・・・、(執筆者、編者はつじつまをあわせるのに相当苦労したでしょうね)

 

これからそのことについて語っていこうとしているわけですけど・・・

 

前回で「倭」の大王家=蘇我氏の滅びについて少し触れました。

蘇我氏こそが倭の頭領だったわけで、日本書紀における「天智天皇」以前の「天皇(とされている)」はすべて蘇我氏の大王です。

これは「隋書」で、遣隋使を送った(聖徳太子のモデルのひとり)アマノタリシヒコの名前からもわかります。

 

近畿地方に大きな勢力を有していたアマ氏ですが、トップの大王家というわけにはいかなかった。

アマノタリシヒコの最後の「ヒコ」(=彦)というのは、三国志をはじめとした中国の史書をみてもわかるとおり、その地方の大官=長官(中国から見て)が名乗る称号で、日本的に言えばその土地(地方)の領主です。

徳川政権時の例で言えば「藩主」といったところでしょう。

だから日本書紀でも聖徳太子を「天皇」にはしきれなかったんですよ。

 

ちなみに、わたしはアマノタリシヒコはオオアマ(天武)の祖父にあたるのではないか?と見ています。(もしかしたら曽祖父?)

 

前にも書いたとおり、対隋、対唐に関してはアマ氏が倭の「王」として交渉の窓口になっていました。(アマ氏は新羅から来た「騎馬民族」の王族で、そのルーツは鮮卑族です。これは、応神天皇陵や藤ノ木古墳などの出土品からもわかります)

そして「日出ずる処(ところ)の天子、書を日没する処の天子に致(いた)す。恙(つつが)無きや ~」の国書が蘇我氏からのものだったことも前に述べました。

 

蘇我氏(倭)は呉の太伯(呉を作った人)の子孫を自称するくらいの古い歴史を誇り、とりわけ中国南部の王朝とは密接な関係を持ってきましたから、鮮卑族の王朝などに素直に頭を下げることができなかったのでしょう。

「日出る処の天子」 = 蘇我氏の大王です。

 

この二重構造は唐の太宗の時代にも露呈しています。

→『唐の太宗の貞観5年(631年)、日本国は使者を派遣して唐に入朝させた。太宗は、日本からの距離が遠いのに同情 

~(中略)~ 

また ~ 高仁表(こうじんひょう)を遣(つか)わし、日本国王に勅諭(ちょくゆ)を伝えさせようとしたが、高仁表は日本国王儀礼の問題でいさかいを起こして立腹し、天子の命を読み上げることを拒否して国へもどった。』(新唐書

というのが、それです。

「使者を派遣」したのはアマ氏。

唐の使者と儀礼の問題をめぐっていさかいを起こしたのが、蘇我氏の大王、もしくはその一族の人でしょう。

新唐書」には続けて

『しばらくして、日本はあらためて新羅の使者に託して上奏文を送呈してきた』

と書かれていますが、これはアマ氏からのものです。「新羅の使者に託して」という部分に注目ですね。

 

ほんとうはこの時代はまだ「倭」だったのですが、新唐書が書かれた時代には「日本国」という名前が定着していたので、「日本」と表記したのでしょう。

しかし、正確とは言い難いですよねえ。

 

ともかく、この隋、唐との実質的「断絶」が数百年~一千年(?)続いたプライド高き?東アジアの名門大王家=蘇我氏の滅亡を招くことになりました。

 

 

 

 

これまで先人が築いた業績を台無しに

してしまう。

この自民党公明党政権は日本史上最悪クラスではないでしょうか?

 

もちろん、最悪は戦争のきっかけを作った、戦争を始めた政権ですが、こういった自民党公明党による政権も戦争準備に着々、という風に見えます。

政府関係者や官僚公務員から「平和」という言葉を聞くこともなくなりました。当然、平和への努力もなされていません。

 

いったい「改憲」を目指すというけれど、国連の「敵国条項国」である日本が、敵国条項をそのままにして「平和憲法」を改憲すれば、どのような状況におかれるか?

散々利用された挙句、国を滅ぼされるのがオチではないでしょうか?

(それを隠して改憲しようとしている)

 

同時に、日本国民・民衆への締め付けも、真綿でクビを絞めるようにじわじわと進行中です。

「人権」「平和」「民主主義」の破壊。

内部でも民衆はそれらを奪われることによって、人間としての「尊厳」を奪われつつあります。(日本の内部破壊)

 

それでも「いま生きていればいい。いまなんとかなっていればいい。自分さえよければいい」といった様子で、おとなしく「破壊者」と化した権力者に従う国民大衆。

 

想像力の欠如したエゴイストであるのはトップから下々(しもじも)まで、共通した国民性になってしまったのかな?ニッポン人。

 

「歴史」を語っている場合じゃない?

うーん、たしかに、でも、江戸時代までの日本と明治10年以降敗戦までの日本、1980年代後半から現代までの日本は異質なものと考えられますので、やはり「歴史」は重要なのではないか?と思います。

いまは日本にとって「異質」な時代なのです。

 

戦後日本を支配した米国によって与えられた「自由」「人権」「民主主義」「それらに基づく平等性」

これらは、たしかに完全なものではなかったが、「形」は整っていました。

戦後少したったころの映像で、お年寄りが「日本人は戦争に負けて、はじめて自由を知ったんです」と語っているのを見たことがありますが、それは偽わらざる実感だったでしょう。

 

「占領軍」によって与えられた、その民主主義の「形」を取り上げていこう、としているのが今の安倍自民党公明党政権です。

その背景には「占領軍」=アメリカの「変質」があると思います。アメリカも変わったのです。

 

変わったというか、ズバリ「劣化」した。

劣化してその国是であるデモクラシーまでもが怪しくなってきている?

 

問題は、その劣化、衰退があまりにも早く来た、ということです。

おかげで日本もおかしくなっている、という状況でしょう。

 

いま「おかしな」連中によって危機に瀕している日本国憲法の理念は優れたものです。これをしっかり根付かせ、充分に使いこなせていければ、日本の将来はけっこう先のほうまで明るかったと思います。

 

実は大昔にも、日本では「アジア太平洋戦争」敗戦後のような状況があった、と見るのがわたしの「日本史観」なのです。

 

その大昔の「状況・状態」とは何か?

ズバリ、当時の世界帝国・唐によって蘇我氏(=倭の大王家)が滅ぼされたあとの「占領」状態にあった「倭」です。

 

当時も「占領軍」がやってきてこの国の政治全般を取り仕切りました。

この前の「占領時」と同じように、国内には占領軍にしたがってその補佐を行う勢力がありましたが、それが近畿大王家であったアマ氏で、当主は「オオアマ」(=後の天武天皇)です。

 

ここで、もう、従来の「日本史」とは大きく違ってきているので、若干補足しますと、

 

なるほど、天武(=歴史の教科書ではオオアマ皇子)は出てきた。

では「蘇我氏」を滅ぼしたという「天智天皇」(日本書紀では当時は中大兄皇子とされている)はどこに行ったんだい?

と疑問に思われるでしょう。

 

蘇我入鹿を「処刑」し、その父の蘇我蝦夷を攻め滅ぼした「天智天皇」らしき人物はたしかにいます。

しかし、それは中大兄皇子ではありません。「天智天皇」でもありません。

それらの名称は日本書紀など後の歴史書による「すりかえ」によるものです。

(ちなみに○大兄皇子(王子)という名称は(この次に)「大王」になるべき人物につけられた名称ですから、あるいは蘇我入鹿が○大兄皇子(王子)であったかも知れません)

 

ここで「?」となるかもしれませんが、

だいたい、当時まで倭を支配していた蘇我大王家を滅ぼすことのできる勢力がこの国に存在していたでしょうか?

天皇家」も、確立した「中央集権」もなかった時代の事なのです。

天皇に近い存在がいるとしたら、それは蘇我氏の大王です。

 

もちろん、オオアマ=近畿大王家が滅ぼしたわけでもありません。

蘇我氏とアマ氏は仏教信仰で共通の統治理念がありましたし、縁戚関係でも固く結びついていましたから。そして、何より武力面では蘇我氏のほうに主導権がありました。

 

では、そんな倭の大王蘇我氏の当主?(入鹿)とその父(蝦夷)を滅ぼしてしまったのは誰か?

 

もうわかりますよね。

蘇我氏の軍を打ち破って上陸してきた占領軍、つまり「唐」です。

その(占領軍)トップ(のちに天智天皇とされた人物)とナンバー2(トップの最側近=のちの藤原鎌足)によって入鹿は「処刑」、蘇我氏は滅亡させられたのです。

 

ここから先は次回以降で。「歴史」が長くなりそうです。。

 

今日、ここで言っておきたいことは、倭あるいは日本の敗戦後、その占領政策は唐、アメリカともに優れたものでした。

しかし、その後の歴史を見ると(アメリカ占領後の歴史はまだ70年ちょっとですが)、アメリカよりも唐のほうがずっとうまくやった。

何より「当初の理念」を長くこの国に根付かせ、世界的にも高いレベルの政治体制を維持させた、という点では比較にならない。

 

「当時としては最高レベルの政治理念」

を長く維持した日本(=たとえば源頼朝室町幕府徳川家康における貞観政要の重視とか)、

 

しかし今回は、今でも「理想」のはずの「平和」「人権」「民主主義」の理念をあっという間に、踏みにじり、捨て去ろうとしている日本の政権、あるいは捨てさせようとしているアメリカ。

 

これは日本の滅びへの道であるとわたしは見ています。

日本は本当の意味での「再生」「再復興」に失敗しようとしているのです。

 

なんだか結論めいたことを言ってしまいましたが、とりあえず、「日本史観」の見直し、は必要なので、続けます(延々と?(笑))

 

 

 

 

 

歴史について②

前回アマノタリシヒコと隋の煬帝について触れましたが、いまの安倍自公政権を見ていると、少し煬帝の政策と似通ったところがあるように思います。

 

富の一極集中というか、隋はたいへんな資産、富を所有していました。

その富を使ってやったことのひとつが、大運河の建設。

ご存知のごとく、江南地方と首都長安を結んだ2500キロメートルに及ぶこの運河は壮大なもので、その後の中国の経済、政治に大きな影響を与え、今なお利用されています。(世界遺産

 

しかし、このような隋の国家優先による人民の負担は大きく、民衆の隋への恨みが積み重なっていきます。

そのような人民の苦しみ、困窮に気を留めることもなく、煬帝は強大な権力、軍事力にものをいわせ、さらに高句麗を征服しようと軍を起こしました。

ここで簡単に高句麗が征服されていれば隋はもう少し続いたのかも知れません。

 

ところが、このころの高句麗は強かった。

少し時代は遡りますが、倭と百済の連合軍もボロクソにやられました。(高句麗好大王碑参照)。

このとき逃げる倭の軍を追ってきた高句麗軍によって百済はその首都まで占領されているほどです。

 

隋もこの高句麗相手に苦戦を強いられました。

ほとんど戦果の上がらないまま、戦費と戦死者だけが増えていく。

 

苦役、経済的圧迫・困窮、戦争禍。

人民の我慢が限界に達し、ついに反乱がおきます。

反乱はあっという間に中国全土に拡大。手のつけようのないほどになります。

 

煬帝もやがて宮殿にいられなくなり、拠点を点々と移動せざるをえなくなります。

そして、ついには皇帝直属の近衛兵までが皇帝に背きます。

 

煬帝の最後はアワレなものでした。

それまで自分を守っていた側近たちによって処刑を宣言されるのですから。

人民に対する罪状を読み上げる側近に対して、煬帝はこう言います。

「なるほど、朕はたしかに人民を裏切った。しかしお前たち(側近)は優遇してやったではないか」

 

しかし、煬帝の言葉に心を動かされる者はなく、「罪状」を読み上げると、兵たちはまず、煬帝にすがりついて泣き続けていた12歳になる煬帝の皇子を斬り殺す。

血しぶきをあびた煬帝に兵が刃を振り下ろそうとすると、煬帝はそれを押しとどめ、

「皇帝を斬り殺してはならない」

と言って、自分が身に着けていた布を兵に渡します。

 

煬帝はその布によって縊り殺されました。

 

・・・富の一極集中、貧富の格差の拡大、低賃金、不安定な非正規労働の拡大、労働強化、劣悪な住環境・労働環境、富の海外へのバラマキ、逆進課税(消費税)増税、特権・既得権益層優遇、大企業優遇(民衆の犠牲による)、(正規採用の)官僚・公務員優遇(毎年給与増額)、社会保障・福祉削減(毎年)、年金生活者(老人)虐待(年金の毎年削減)、最貧者(生活保護受給者)切捨て(殺人的行為)、憲法無視、戦争推進路線、取り巻きお友だち大優遇、人民への攻撃(ネトウヨ、ネトサポ、メディア、財務省国税)、厚生労働省(奴隷・殺人省)、、、、まだまだ書ききれない!。。けど長くなりすぎるのでココまで。

 

これが、千数百年後の東海の島国=日本の姿・・・

「コノ国なら朕は左団扇で皇帝をやれるぞい」by煬帝

 

と、それはともかく、この煬帝の最後に強い衝撃を受けたのが、このとき反乱軍平定のために駆け回っていた隋の重臣(唐の初代皇帝)の息子である李世民

この李世民はのちに唐の二代皇帝(太宗)として貞観の治として有名な善政を施し、唐帝国の基礎を固めるのですが、その善政は煬帝を反面教師としたものでした。

 

この太宗と臣下の言動を集めて十巻四十篇に集録したのが「貞観政要」で、この貞観政要こそが、平安時代から江戸時代にかけての日本の(指導者の)政治の教科書というべきものになりました。

とりわけ影響を強く受けたのが源頼朝北条政子から始まる鎌倉幕府徳川家康徳川幕府です。

また、天皇への進講も1006年の一条天皇以来、数多く行われてきたことが記録に残っています。

 

ちなみに、「貞観政要」の著者は唐で国史編纂に携わっていた呉競でしたが、その最初の完成本は中宗(太宗の孫)に捧げられました。

つぎに玄宗(太宗の曾孫)に捧げられたのですが、情勢の変化により、その内容は一部変えられています。

この二冊は中国では早くに失われたようで、元の時代に中国で出版されたものが近代まで伝承されてきましたが、原本にたいして誤脱の多いものでした。

 

なぜそれがわかったかというと、玄宗皇帝に上進されたものの写しが、日本の藤原南家と菅原家に伝わっていたからです。

また、北条政子貞観政要をひらがなに訳させて読んでいたのですが、史家から馬鹿にされてほとんど無視されていたこのひらがな本が、中宗皇帝に献上されたものの写しだったことがわかって、専門家を驚かせたそうです。

 

とにかく、この本が日本の歴史と深く関わっているということを知っていただきたい、と思います。

 

本日の最後に、「貞観政要」の第一巻、第一章、最初の一節

 

→ 貞観初、太宗謂侍臣曰、 

貞観(じょうがん)の初(はじめ)、太宗、侍臣(じしん)に謂(い)いて曰(いわ)く

為君之道、必須先存百姓。

(君(きみ)たるの道は、必ず須(すべから)く先(ま)ず百姓(ひゃくせい)を存(そん)すべし)  

若損百姓以奉其身、猶割脛以啖腹。

(若(も)し百姓を損(そん)じて以(もっ)て其(そ)の身(み)に奉(ほう)ぜば、猶(な)を脛(はぎ)を割(さ)きて以(もっ)て腹に啖(くら)わすがごとし)

腹飽而身斃。

(腹(はら)飽(あ)きて身(み)斃(たお)る)

~(以下略)~

 

→<貞観の初年に太宗が左右の臣下たちに語って言われた。

 「君主であるものの道は、まずもって、必ず、是非とも、人民をあわれみ恩恵をほどこすことである。

もし(重税などで)人民を苦しめその身を損なうことによって君主の身(支配者のゼイタク等)にあてるのは、自分の足の肉を裂いて自分の腹に食わすのと同じである。

満腹したときには、その身は死んでしまう。

~ >

 

以下にも現代日本の支配者さんの耳に痛いことが書いてありますよ(笑)\(^○^)

安倍首相やその裏の人たち、とりあえず、この第一章だけでも読んでみましょうよ。

え?まったく理解できない?

 

・・・そうでしょうねえ。。。

 

 

あと、この私観「歴史」を語っていくにあたって、(当時?)この太宗に送られた「賛辞」に「聡明神武」という言葉があるので、それを覚えておいてください。(先々触れると思います)  

神武・・・    八紘一宇    ・・・(^。^)

 

 

 

 

 

 

前回のブログでちょっと触れた

わたしの「日本」史観。

これまでにない、かなりユニークというか奇妙なものなので、理解し辛かったと思います。

でもまあ、これがわたしの「日本」についての歴史認識なので、いちおう基本的なアウトラインを述べていきたいと思います。

 ↓

 

まず、「倭」は「日本」のような中央集権的「天皇制」国家ではなかった、ということ。

倭はこの列島における支配勢力で、対外的にも強力な勢力でしたが、それを支配していたのはいくつかの「部族」をまとめた「大王」です。

 

この大王家には二つの大きな勢力のものがあって、ひとつが北九州を拠点とする蘇我氏。もうひとつは山陰~近畿地方を支配した「アマ」氏です。

 

蘇我氏はB.C.10世紀頃から日本に移住してきた、揚子江河口周辺(蘇州あたり)の稲作&漁業民族の流れで、北九州を中心に日本に大きな支配権を築いていきました。

 

 それに対して「アマ」氏というのは、紀元後「鉄器」と「騎馬」をもって「新羅」から渡来、近畿地方を中心に支配を広げていった勢力で、そのキーパーソンは応神天皇陵に葬られている人物です。

天武天皇」はこの系譜です。

 

この二大勢力、大陸の勢力図から見れば、蘇我氏は中国の南方系、アマ氏は北方系で、本来、水と油の関係ではないか?と思うのですが、蘇我氏の「末期」のころは妥協が成立していて、ともに「倭」国を支える関係が成立していました。

 

この「妥協」というか協力関係を可能にしていたのが「仏教」なんですね。

二大勢力とも仏教を信奉していました。

ただし、蘇我氏の仏教は百済経由のものでアマ氏の仏教は新羅の系譜です。

 

中国大陸が北は北魏、南は南宋と二分されていたときの日本の支配大王家は蘇我氏です。

蘇我氏百済と密接な関係にあった。

いっぽう、新羅というのは(大陸からの)難民・移民によって形成された国家であって、言葉も文化も百済とは大きく違っていて、その領土はもともと百済のものでした。

庇を貸して母屋をとられた形の百済新羅は「不倶戴天」の関係にありました。

 

「倭」と「百済」はこの新羅をめぐって高句麗と衝突。

百済とともに高句麗まで攻めあがって敗戦を喫し、高句麗好大王碑に刻まれた「倭」というのは蘇我氏です。

この強国=高句麗との対抗上、南宋と関係を密接にして高句麗を背後からけん制しようと使節を派遣していたのが「倭の五王(=蘇我氏の大王)」です。

 

このときのアマ氏(近畿大王家)は表面上は蘇我氏百済勢力に同調し(従い)つつも、裏では本来の「出自」たる新羅と通じていた、という立場でしょうか。

 

ところが、その南宋北魏(鮮婢族の王朝)によって滅ぼされてしまう。

蘇我氏の悲劇というか滅びへの道はここから始まるんですね。

 

北魏もいったんはなくなりますが、やがて北魏の重臣だった人物が中国を統一する。これが隋です。

隋と蘇我氏は接点がない。

隋と通じることができたのは鮮婢族との関係が深いアマ氏です。

応神天皇とされている人物の陵からは鮮婢族の王が使っていたのと同じ「馬の鞍」が出土しています)

 

倭としては中国を統一した王朝との関係を無視するわけにはいかないので、アマ氏が表に立って隋との関係を良好なものに保とうとする。

 

遣隋使を送ったのはアマ氏なんですよね。

この遣隋使を送るにあたって、倭の側が隋の煬帝に、例の「日出るところの天子~」なる、中国皇帝に対しては非礼ともいえる文書を送ったことは有名ですが、これは、蘇我氏が「強要」して使節に持たせたものでしょう。

このとき、あくまでも倭の主導権は蘇我氏にありました。

 

その「非礼」に驚いた煬帝は、すぐに、その意を質さんとする使者を送ってきた。

このとき、使者を応対したアマ氏の大王であるアマノタリシヒコは、「自分は無学な野蛮人で・・・」などと平謝りしましたが、使者は倭の体制が二重構造であることを知り、そのことを隋の皇帝に報告したと思われるのです。

(これが隋の後継王朝である唐(=隋の重臣が起こした、やはり鮮婢族による王朝)による、蘇我氏滅亡に結びついていくわけです)

 

ここで出てくるアマノタリシヒコは聖徳太子のモデルのひとりです。

この人は政治家というより、ほとんど僧侶といっていいくらいの宗教者で、遣隋使を送った目的も、隋の仏教を学ばせるためでした。

そして当時の隋の仏教といえば、天台大師=智顗(ちぎ)による天台宗で、皇帝煬帝も智顗の弟子として菩薩戒を受けています。

アマノタリシヒコはそれを知っていて、文書では煬帝を「菩薩天子」とあがめている。

とても「日出るところの天子~」といった態度ではないわけです(笑)

 

このとき、蘇我氏とアマ氏の間には隠然とした緊張関係があったはずですが、それが内乱などに至らなかったのは、このアマノタリシヒコの、権力に執着しない、宗教者的な性格によるものではなかったでしょうか?

ただ、日本書紀によると、聖徳太子の子息一族は蘇我氏によって滅ぼされたことになっていますが、このあたりの真偽は不明です。

 

・・・なんだか、だらだらとわたしの「私見」=日本史「仮説」を述べていますが、これ、いちおう書いておかないと、「近~現代日本」の問題とも関係していますのでね。

次回以降も続けて、わたしなりの「日本史観」の大要は述べておきたいと思います。

(長くなるかなあ・・・?)