これほど、日本の支配者・支配層(=政府、官僚、国会議員)が劣悪だったことってあるでしょうか?
わたしの亡くなった父親が、犬を飼うとき(わたしはまだ小学生でした)、
「犬はな、小さいときから満腹させて育てるとバカ犬になってしまうから、食べ物を適当にセーブしながら育てる。そうすると賢い犬になる」
というような意味のことを言っていましたが、
たしかにその犬はとても賢く育ちました!
人間もゼイタク、満腹に慣れきっちゃうと、多少はバカ化するのかな?
と、贅沢三昧のお金持ち首相やダントツ世界一の報酬を得ておられる国会議員や官僚のみなさんを眺めつつ、なんとなく日本の「劣化」に思いをはせる日々です。(当事者はどうせ見てないと思いますんで、もし見て怒ったらゴメンナサイ(笑))
劣化といえば、史上有数の偉大な皇帝、賢帝として有名な唐の太宗も長く権力の座にいると、やはり判断力が落ちるのでしょうか?
晩年、太宗はかつての煬帝と同じようなことをやってしまいます。
東征=対高句麗戦争です。
前のブログで触れた貞観19年(645年)、太宗は大軍をもって高句麗を攻めます。
しかし、この親征も煬帝同様、失敗に終わります。
最初は破竹の勢い。6月の戦いでは「(高麗兵の)斬首2万余り」という状況でしたが、その後は膠着。
そして、この年は冬(寒さ)が早く来ました。
そのため
「草は枯れ水は凍り、兵と馬も寒さのため留まり難く、かつ糧食も尽きようとする」
といった状態に陥り、太宗の軍は撤退します(9月(いまの10月?))
李勣の歩騎4万に殿(しんがり)をなさしめて、高句麗軍の追撃を防ぎながら撤退したのですが、その途中で激しい吹雪に襲われ、太宗の軍は夥しい死者を出します。
(この李勣(りせき)は武后との関連でまた触れることになります)
営州までやっと戻った太宗は営州故城で祭壇を設け、
(戦死者のために)「天子自ら祭文を作ってこれを祭り、臨哭(りんこく)して哀(あい)を尽くし」ました。
しかし、高句麗征服をあきらめようとはしなかった。
貞観21年に高句麗遠征を再開した太宗に対して、貞観22年、死の病に伏していた宰相の房玄齢が
「群臣が(太宗を)諌(いさ)めようとしない」
ことを嘆いて、
「わたしは気が付いていながら、このまま何も申し上げないでしまったら、責任を残したまま死ぬことになる」
として(太宗に対して)上表して諌めた。
この文は有名ですから、書いときますね。
『老子には「足りることを知れば危うくない」とあります。
陛下は功名威徳の点で、もはや足りておられるのですから、地を拓(ひら)き領土を広げることはこの辺でお止めにになるべきです。
且(か)つ陛下は重罪人を処決(死刑と流刑)される際には、たった一人のために必ず三度、五度と覆奏(ふくそう)せしめ(=何度も調べ直させ、報告させる)、処刑の日には、酒肉を断ち、音楽を停止させます。
これは人命を重んぜられるからであります。
それなのに、いま無罪の士卒(=兵士)を駆り立て、これを敵の刃(やいば)の下にゆだね、その肝脳を地にまみれさせておられます。
このことは気の毒だとはなされないのですか?
仮に、これまで高句麗が臣節を失ってきたとでもいうのでしたら、これを誅(ちゅう)することも可であります。また百姓(ひゃくせい=人民)を侵したとでもいうのでしたら、これを滅ぼすことも可であります。
また将来、中国にとって患(わずら)いとなるような実力があるとでもいうのでしたら、これを除くのも可であります。
今この三ヵ条がないのに、ゆえもなく中国を煩(わずら)わせ、これを内にしては前代(隋)のために恥を雪(すす)ぎ、これを外にしては新羅のために仇(あだ=高句麗が新羅を攻めたこと=唐の出兵理由になった)を報(むく)いてやるようなことは、得るところ小さく、損するところばかり大きいのではありませんか。
どうか陛下、高麗(高句麗)に自由を許し、海外遠征の軍船を焼き、民衆の徴募(ちょうぼ→徴兵)を廃止されますよう。
そこで初めて、華夷(かい=中国と他国)ともに喜び信じ、遠いものは慎(つつし)み、近いものは安らかになるでありましょう。 ~(以下略)~ 』
これに対し、太宗は
「彼(房玄齢)はあのような篤い病の中にありながら、なおよくわが国を気づかってくれる」
と述べて、
「自ら臨御して見舞い、手を握って訣別し、悲しみに自ら堪えられなかった」
とあります。
しかし、太宗もそれから十ヶ月後(649年)に死んでしまいます。
と・・・まあ、歴史に偉名を残した人と、いまの日本の政治家を比べてましてもねえ・・・(^^;)
・・・いまの日本の政治家との比較はやめときます(笑)
でも・・・正直、「あんな人たち(←逆向き(笑))」に憲法をいじられるのは嫌ですよ。
・・・今回は本筋から少し離れました。
次回は「二人の天智天皇」の話からはじめようと思います。